1 / 1
共に春を待たず
ひどく静かな夜だった。生まれた音の一つ一つが目には見えぬ何かに吞み込まれ、まるで初めから存在しなかったもののように消えていく。
崩れかけた土壁一枚の向こうには、血と泥に塗れた世界が広がっている。此処だけが世界から取り残されたように、静謐さすら孕んだ暗闇の中にあった。
その中で私はただ、息をしていた。吸って、吐いて、また吸って。ただそれだけを、何の疑いもなく繰り返していた。
冬の気配を拭いきれぬ夜気の底には、けれど冬だけが持つ渇きはもう失われていた。凍りついていた土が知らぬ間に水気を含み始めたような、微かな匂いが漂っている。
もうすぐ春が来るのだろう。暗闇のそこかしこに潜むその気配が、それを物語っていた。
あばら家に身を潜め、どれほどの刻が経ったのか。軒から落ちる夜露の音だけが、時の流れを教えてくれた。
土壁の隙間から夜の風が絶え間なく忍び入り、頬を撫でては、逃れる場所を知らぬとばかりに狭い部屋の中に蟠 った。行く末を辿るように視線を巡らせれば、崩れた土壁の向こうに外が見えた。覗く空に月はなく、厚い雲が世界を覆う。当たり前の光景が、今夜ばかりはひどく遠かった。
遠くで、どこかの木戸が軋んだ音を立てた。板戸の隙間を吹き抜けていく風の音が、獣の息のように長く尾を引いては消えていく。
火はとうに落としていた。灰と埋 み火の香だけが、微かに鼻腔に残っている。闇夜の中の灯りは、此方の居場所を知らせることになる。闇は今、味方だった。
板間の冷たさが、軍服越しに背を這い上がってくる。何刻も動かずにいたせいで、爪先の感覚などとうにない。それでも、動く気にはなれなかった。
そう離れてはいない場所で、自分以外の気配が身じろいだ。衣擦れの音に顔を上げる。暗がりに浮かぶ輪郭を、私はじっと見つめた。
「お前に、介錯を頼みたい」
不意の声は、常の彼のものと何も変わらなかった。低く静かで迷いのない声音は、いつも私の鼓膜を心地良く打つ。私は迷いなく頷いた。
「光栄です。では、その後に私も参ります」
閣下の介添えというこれ以上とない名誉な役目を賜って、私の心臓は単純にも鼓動を高鳴らせた。今し方まで感じていた喉の渇きまでもが、薄らいでいく気さえした。
「否 」
埋み火が再び燃え上がる刹那のように胸の内に灯った悦びが、そのひと声に静かに掻き消された。
「お前には、もう一つ頼みたいことがある」
続いた言葉に、冷えた予感が胸を掠める。板間を這う風が、不意に肌を刺していった。
「……何でしょうか」
「この手紙を、家族の元へ届けてくれないか」
差し出されたものを、私は受け取れなかった。指先が、宙に浮いたままになる。
闇の中でも、それが何なのかは分かった。触れることすら躊躇われた指先に、幾重にも折り畳まれた薄い紙の感触が伝わった。滲んだ墨の匂いが、微かに漂ってくる。
最後の手紙。そういうものなのだろう。けれど。
「……それは」
喉の渇きが急速に思い出された。粘膜が張りついて、上手く声にならない。唾を飲み込もうとしても、飲み込むものすら残っていなかった。
「私に、ここを生きて出ろということですか?」
言葉にすればなおのこと、胸の裡 が澱み沈んでいく。私の望みとは最も遠い処にある選択肢を、突きつけられたのだ。返らぬ声に、拳を握り締める。悴む指の痛みが、少しだけ蘇ってくる。
闇の向こうでは、閣下の呼吸音だけが規則正しく続いていた。暫くして、小さく息を吐く気配がした。溜息にしては短く、吐息にしては重い。何かを決めた者だけが吐く、そんな息だった。
「お前にしか、頼めない」
その言葉が、ひどく堪えた。胸の奥を鈍い刃で抉られたような痛みに、喉が引き攣れる。
「では……これを届けたあとは……」
「向こうにも知った顔がいる。悪いようにはされまい」
それ以上、閣下は何も言わなかった。言われなくとも分かる。
生きろ、と。この手紙を持って、生きてここを出ろ、と。
それは命令ではなかった。懇願でもなかった。ただ、静かに目の前に置かれた、逃げ場のない選択だった。
「……嫌です」
私は初めて、閣下の言葉を拒んだ。気づけば、拒んでいた。自分でも驚くほど、幼い声だった。喉の奥から絞り出したその声は、戦場で幾度となく張り上げてきた声とはまるで別人のもののようだった。
「命令でも……それは聞けません」
暗闇の向こうにある彼の顔は見えない。在るのは静かな息遣いと、微かな体温の気配のみ。それらだけが、感じることを許された確かなものだった。
いつだってそうだった。国許で武士として在った頃からずっと、私は閣下の背中を追って生きてきた。戦いに身を投じたあとは、硝煙の匂いも、泥濘の重さも、その背中さえ見えていれば耐えられた。彼の背中が見えなくなるそのときには、この身も共に朽ちる覚悟でいた。独り残されることだけは、どうしても耐えられなかった。
「……共に、腹を切りませんか」
風が、また木戸を鳴らした。長く、細く、誰かが遠くで泣いているような音がする。
「お願いします」
私は縋るように身を乗り出した。板間が軋み、乾いた音を立てた。
「閣下の介添えをしたいなどと、我儘は申しません」
声がひどく震えた。抑えようとすればするほど、震えは喉の奥から込み上げてくる。
「ですから……」
そこで一度、息を止めた。冷たい夜気が痛いほどに、肺の底まで沁みてくる。
「同時に」
静寂が落ちる。今にも崩れ落ちそうなあばら家に、二人分の息遣いだけが続いている。
「同時に、参りましょう。閣下」
彼が如何するかなど、解りきっている。私の介錯をし、見届けた後に、独り苦しんで逝くことを選ぶつもりなのだろう。
そういう男なのだ、この人は。だからこそ自分は、彼を慕ったのだ。寡黙で、不器用で。その実、誰よりも相手を慮 るこの人を。
そんなことは、許されない。私ばかりが楽に逝くなど、閣下の最期を見届けずに独りで逝くなど、如何して出来ようか。
「覚悟は、できております。ですからどうか」
閣下は、何も答えなかった。耳に痛い静寂ばかりが包む中で、ただじっと此方を見据える気配だけがあった。私もまたその闇を見つめ返し、耳を欹 て、その沈黙の意を汲み取ろうとした。
長い沈黙のあと、闇の中で衣擦れの音がした。軍服の釦 が重なる硬質な音が、それに混じる。着物の衣擦れよりなお微かな音には、未だ慣れることが出来ないでいた。慣れることのないままこの世を去ることを思えば、その些細な音にすら耳を澄ませていたくなる。
微かな温もりの気配が、近づいてくる。やがて、肩に何かが触れた。
指先だった。硝煙と泥に荒れた、節くれ立った指。柔らかさなど微塵もない、幾多の修羅場を潜り抜けてきたその手が、私の肩を撫で、首筋を辿る。擦れた指先が、私の生を確かめんとするかのように、頸動脈に触れた。僅かばかり早まる鼓動が、彼の手に生きている証を伝え、そして私自身にも彼の温もりを伝えてくる。ぐっと力を込められると、その武骨さに息が詰まった。
「……閣下」
「黙っていろ」
短く命じられ、私は口を噤んだ。闇の中の輪郭が、よりいっそう近づいてくる。
閣下の手が私の頭を引き寄せ、私はその力の侭に彼の胸に顔を寄せた。押し当てた耳に、規則正しい律動が響く。
目を閉じて、五感を研ぎ澄ませた。汗と、血と、鉄の匂い。それらの向こうに、焚き染めた香の薫りがある。軍服の下にいつも変わらず纏っているその薫りは、私が誰よりもよく知る男の匂いだった。
武骨な指が、私の襟元に掛けられる。一つ一つ釦を外していく手に迷いはなく、弾けるような音が鳴るたびに、心の臓が不器用に跳ねた。寛げられた襟元で露わになった肌を、夜風がひやりと撫でていく。その冷たさに、思わず身震いした。
私の前をすっかり開いた後で、閣下は自らの襟元に指を掛けた。自ずと吸い寄せられた私の視線が、縫い止められたようにその指先を凝視する。少しずつ露わとなっていく肌からは、取り繕わない自然な侭の男の色香が漂っていた。
広い肩幅、分厚い胸板。戦場で何度も目にしてきたはずのその体躯が、今宵に限っては、まるで違う生き物のように迫ってくる。触れずとも分かる鋼のような硬さに、思わず喉が鳴った。馬を御し、刀を振るい、幾つもの死線を潜り抜けてきた男の躰は、無駄な肉など一片もなく、ただ研ぎ澄まされた美しさを湛えていた。
「怖いか」
低い声が、耳元で問う。吐息が耳朶を掠め、肌が粟立った。
「……いいえ」
本当は怖かった。恐れているのは死ではない。この人の手が、いつもと違う触れ方をすることが、たまらなく恐ろしかった。焦がれ続けた男の手にこの身の全てを暴かれたとき、私は正気でいられるのだろうか。考えるだけで、ずくりと下腹が疼いた。
硬い剣胼胝 だらけの掌が、ゆっくりと肌の上を過 る。その硬さが、却って確かな熱を伝えてきた。骨ばった指が鎖骨の際を辿り、一つの傷痕に行きついて止まる。半年前、閣下を庇って負った傷だった。傷痕を凝視した侭、僅かに眉根を寄せた彼が何を思っているのか、私には手に取るように解った。
「名誉の負傷です」
そう言って笑う私に、閣下はよりいっそう眉根の皺を深くした。不意に押し当てられた唇が、飢えた雄獣のような性急さで傷痕を食 んでくる。きつく吸い上げられ、牙を立てられて、堪らず息が乱れた。
その勢いの侭、押し倒される。背中に伝わる板間の冷たさと、その上に覆い被さる体躯の熱が、あまりに対照的だった。
「……っ」
闇に慣れた目が、少しずつ彼の輪郭を捉え始める。厚い胸板に幾筋も刻まれた傷痕は、この人が生きてきた歳月そのものだった。
私はそれら全ての傷が刻まれた日のことを、昨日のことのように覚えている。いつ、何処で、どのようにして負った傷であるのかを一つも漏らさず説明することが出来るのだが、きっと引かれると思い、一度たりとて口にしたことはなかった。
触れる手も、肌に押し当てられる唇も、過る舌も、見下ろしてくる眼差しも。すべてが武士らしく、軍人らしい、飾り気のないものだった。睦言の一つも囁かず、ただ確かめるように私の身体を暴いていく。猛獣のように荒々しいようでいて、その一方で小鳥が啄むそれのように繊細な仕草が見え隠れする。齎される刺激と熱に翻弄されて、私の躰はいつしか悦びに打ち震えていた。
「っあ」
「――声を出すな」
短く命じられる。建物の外に、まだ敵がいるかもしれないことは理解している。分かっているのに、彼に触れられるたび喉の奥から込み上げてくるものを堪えるのは、刀を構えるよりよほど難儀だった。
腰を、抱え込まれる。手の甲を、口元へと宛がう。ひと呼吸を措 いて、閣下の躰が沈められた。ゆっくりと、躰の中が暴かれていく。中心から強引に圧し拡げられていく未知の感覚は恐ろしくもあったが、それ以上にこの身を満たしていくのは紛れもない悦楽だった。
「――っく、ぅ……」
深く繋がってから、彼の首へと腕を回した。触れた首筋は、驚くほど熱かった。死を覚悟した男の身体が、これほどまでに生々しい熱を孕んでいることが、不思議でならなかった。
律動が始まる。闇に紛れながら、二人分の呼吸だけが乱れていく。板戸の隙間から吹き込む風の音も、遠い木戸の軋みも、もう耳には入らなかった。ただ互いの熱と、擦れ合う肌の音と、堪えきれずに漏れる掠れた吐息だけがそこにはあった。
これが、最初で最後の夜だと知っている。
だからこそ、余すところなくこの人を覚えておきたかった。骨ばった指の感触も、その身に残る傷痕も、押し殺した声の低さも、それら全てをこの身に刻みつけんとして、彼の身に強くしがみついた。
閣下の腕に、力がこもった。骨の軋むほどの強さで抱き込まれ、私はその肩口に唇を押しつけた。声を殺せという命令を、もはや守り切れる自信がなかった。
腹の底に溜まっていた熱が、堰を切ったように迫り上がってくる。堪えようと歯を食いしばったが、それすら意味を成さなかった。
「――ッア!」
最奥を穿たれ、抑えきれぬ聲 が漏れた。誰のものか耳を疑いたくなるような、まるで知らない聲だった。
最後に一際強く揺さぶられたとき、私は音にならない声を、閣下の肩に噛みつくようにして押し殺した。閃光のような感覚が背骨を駆け上がり、暫くの間、何も考えられなくなる。
閣下もまた低く短い息を漏らし、私の名を一度だけ、ひどく掠れた声で呼んだ。限界まで強張らせた全身で、私はその声と熱を受け止めた。
それから、互いに動かない時間が暫く続いた。ゆっくりと弛緩していく躰が、板間に沈む。横たわったまま、汗の引いていく感覚だけを追っていた。荒い呼吸が少しずつ静まり、代わりに、隙間から吹き込む夜気と床の冷たさが戻ってくる。今の身にはそれが、何よりも心地良かった。
「こうして閣下に抱いていただけるとは……もうこの世に未練はありません」
閣下の腕 に包まれながら、私は目を閉じた。それと同時に、眦から伝う雫が肌を濡らす。器いっぱいに満たされたものが溢れ出るように、この身から零れ落ちて止まないそれは、これまで経験したことのない温かさを帯びていた。
閣下は、何も言わなかった。ただ、私を抱き締めてくる腕に力が込められた。その力は、何よりも饒舌に私を慰めてくれるようだった。
このまま、朝が来なければいい。願っても詮無き事だと解りきっていることを、それでも願わずにはいられなかった。
※
板戸の隙間が、白み始めていた。鳥の声が、遠くで一つ、二つと聞こえ始める。夜が明ける。それは即ち、この命の刻限が近いということだった。
身支度を整える間、互いに言葉はなかった。乱れた衣服を整え、ベルトを締め直す。その所作の一つ一つが、昨夜の激しさとはまるで別人のように静かで、儀式めいていた。
短刀を手に取り、私はもう一度だけ乞うた。
「閣下。共に、参りましょう。それだけが、私の望みです」
閣下は、私を見た。夜が明けきらぬ薄闇の中、その目には最早説得の色はなかった。閣下はもう、何も言ってこなかった。手紙を届けろとも、生きろとも。私が頑として拒否したがために、諦めたのだと分かった。
だが、私の言葉に頷いてもくれなかった。
閣下が手にしたのは短刀ではなく、打刀だった。それが、答えだった。
「俺は、お前と共には逝かん。お前が生きることを選ばないと云うのであれば、お前の最期は俺がこの手で引き受ける」
私にはもう否とは言えなかった。閣下の願いを聞き入れぬ以上、それ以上の我侭を言う資格など、私にあろう筈もない。
閣下は、じっと私を見据えていた。私は、この眼を知っている。射抜くような鋭い眼光の、その奥に秘められたものの温かさを。優しさを。それはいつ何時 だとて、慈愛と呼ぶに相応しいものだった。
この人は私を生かせないとなった以上、共に死ぬことを選ばない。私が独り、苦しみながら逝くことだけは許さないと、そう訴えてくる眼差しだった。
「異論は認めん」
それが、この不器用な人が選んだ、たった一つの答えだった。
私は板間に腰を下ろし、姿勢を正した。軍服の、前を開く。冷えた朝の空気が、素肌を撫でていく。昨夜にも増して、突き刺すような冷気だった。そうであっても、まだこの素肌に残る温もりが、凍てつく寒さを和らげてくれるようだった。肌を重ねる前は感覚すら忘れていた指先も、今は寧ろ火照っていた。短刀を握る手が少しも震えていないことに、自分でも驚いた。
閣下が動いた。板間を踏む足音が、背後で止まる。
刃を抜き払う音がした。鋼が鞘を離れる瞬間の、澄んだ音。何百回と耳にしてきた筈のその音が、今この瞬間だけはまるで初めて聞くもののように鼓膜を震わせた。
刃を、腹に当てた。その冷たさだけが、火照りの残る肌の上で際立っていた。
「最期に言いたいことがあれば聞く」
私は宙を仰ぎ、ゆっくりと目を閉じた。瞼の裏に蘇る光景には、必ず閣下の姿があった。
そっと、双眸を開く。胸の裡は、これ以上となく静かだった。
「最期まで閣下と共に生きられたこと……本当に、幸せでした」
「……そうか」
「ありがとう、ございました」
声は、震えなかった。
すぐ背後で、短く息を吸う音がした。
「よく此処までついてきてくれた。礼を言う」
礼を言うのは私の方だ。言いかけて、口を引き結んだ。これ以上話すことで、決意が揺らいでも困る。
応える代わりに、私は渾身の力を込めて、脇腹を刺し貫いた。
燃え上がるような激痛に、脳髄が眩む。想像を凌駕する痛みに、一瞬頭が考えることを放棄した。上げそうになる声を、寸でのところで下唇を噛んで堪える。それでも、喉から競り上がる呻き声は抑えきれなかった。
今一度、刀を握る手に力を込めた。溢れ出る液体に滑りそうになる手に、反対の手を重ね、力の限り握り締める。このまま横に引くだけだ。解っているのに、それだけのことがおそろしく難しかった。
生きたいと叫ぶ本能が濁流のように押し寄せて、一瞬でも気を抜けば刃を引き抜いてしまいそうになる。立派に遣り遂げたいと願う理性を必死に奮い立たせ、生の衝動を抑え込む。
ともすれば痛みにすべてを持っていかれそうになる思考の中で、本能と理性が苛烈に鬩(せめ)ぎ合っていた。
背後で、息を吐く気配がした。そこにある息遣いだけが、彼が傍らにいることを知らせてくれた。壮絶な痛みの中にあってなお、この躰は閣下の放つ些細な音を貪欲に拾った。それだけで、心が鎮まる心地がした。
私には、閣下がいる。だが彼は自分が逝ったあと、独りでこの痛みに耐えねばならぬのだ。共に逝きたかったのは嘘ではない。だがこの痛みも知らぬまま、覚悟は出来ているなどと綺麗事を宣 う私の浅はかさに、閣下は気づいていたのやもしれなかった。
渾身の力を込めて、刃を横に引く。おかしなほどに震える手は、腹の中の圧力に押し戻され、負けてしまいそうになる。気が触れそうになる痛みの中で、それでも意識を失うことなく在り続ける人間の躰というものが、いっそ不思議でもあった。
何とか最後まで刃を引き終えたとき、胃の腑から急激に熱いものが込み上げてきた。ごぼりと嫌な音を立てて、生温いものが口から溢れ出た。霞み始める視界が、赤一色に染まっていく。
意識が遠退きかけては激痛に呼び戻されることを、この躰は幾度となく繰り返す。ひどく不確かな世界にありながら、それでも私は背筋を伸ばすことだけはやめなかった。閣下の前で無様な姿を晒すわけにはいかないと、その想いだけが今際の私を繋ぎ止めていた。
赤く染まった世界の端に、白み始めた空が見える。
美しい朝だ、と思った。
風が、一際強く吹き込んだ。
板戸の隙間で鳴る木戸の音が、ひどく遠く聞こえた。
「――立派だった。お前を、誇りに思う」
ひどい耳鳴りと荒れ狂う鼓動の向こうで、その声だけが確かだった。自ずと、血に濡れた口角が上がった。
「私もすぐに追う。先に行って待っていろ」
――嗚呼、あの世でもまた、閣下と共に在れるなら。
それほどの幸福を、私は他に知らないのだ。
信仰する神などいはしないが、今ばかりはそう願い、祈らずにはいられなかった。
瞼を下ろす。世界が、闇に閉ざされる。
私は、息を吐いた。
振り下ろされる刃の風切り音だけが、驚くほど静かに耳を掠めていった。
了
ともだちにシェアしよう!

