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迷ってもいいと信じられた日、私はあなたを手に入れた。

「好きなんだ」    それまで。  いつだって、自分の歩く道に迷いはなかった。  何を学ぶか。  どこで働くか。  何のために生きるか。   「俺と、一緒に生きる未来を、考えてほしい」  何に心を動かすか、  ——動かさないか。  ……動かせないのに。 「ロイ。顔、あげてほしいな」  いつもの。  耳なじみのいい、低くかすれた声。  いつだってその声を聞くと、胸の内がそわそわと落ち着かなくなるから、  ——アロイスはじっと己の指先を見つめるしかなかった。  お互い貴族で、家のために生きなければならない。  その上ヴィンスは最近、ディッカーと呼ばれる特別な魔法騎士に選ばれる資格さえ獲得した。 「いつもみたいに、俺の目を見てほしいな。  ……それで、だめなら、ちゃんと振ってよ」  無理だ。  ディッカーになれば、いずれヴィンスの唯一無二はその相棒——番いの相手になる。  いずれ振られる未来を知っていてなおその手を取ることなど、とてもできなかった。 「そしたら、ちゃんと諦めるから」  その言葉が、アロイスの心臓をギュッと掴んで、締め上げた。  なんてひどい人なんだろう。  諦めるなら、そんなことを言わないで欲しかった。  諦めるなら、勝手にいなくなれば良かったのに。  ……初めから、笑顔なんて向けてくれなくて、良かったのに。 「ロイ、こっち。……見て」  ヴィンスの声に、少し目線を上げる。  この声に、揺れてはいけない。  そう言い聞かせているのに、  視界の端で、ヴィンスの指先が震えているのを見てしまったら、心どころか、目線さえ揺らさずにはいられなかった。 「——っ、ごめん」 「ロイ」  立ち上がって、ヴィンスから距離を取る。  小走りに離れてから振り向いて、ヴィンスの向こう、壁を見た。 「こたえられない。……ごめん」  何とか口にして、踵を返す。 「ロイ、待って」  ヴィンスが手を伸ばしたのが見えた。  けれど、アロイスはそれに構わず部屋を飛び出した。  廊下を走って建物を出る。  降りしきる雨の中、一直線に事務官の宿舎へ駆け込んだ。  髪から水を垂らして、足早に自室へ走り込む自分の姿はきっと目立っている。  それでも足を緩めることはできなかった。  今自分はひどい顔をしている。  ヴィンスを好きになったのは自分で、あの笑顔を見たくて笑いかけたのも自分。  少しずつ縮まる距離に、ときめいていたのも自分だ。  そのくせ、気持ちを向けてもらった途端に逃げ出すだなんて。  気持ちを告げてくれたことを詰るだなんて。  ひどい。  なんて、——醜い奴だ。 「……ごめん、ヴィンス……。ごめんなさい……」  駆け込んだ自室の扉を背に、しゃがみ込む。 「ごめん」  生まれて初めて、迷いたいと思った日の出来事だった。  初恋を、自分でにじり潰した日のこと。  それでも、迷うことはなかった。  迷えるはずもなかった。 「……ごめん……」  アロイスに、そんな自由はない。  それからきっと、ヴィンスにも。  時間は、誰の上にも平等に、——無常に流れている。    自分の醜さをいやというほど思い知らされたその翌日も、アロイスは普段通り執務室にいた。  外は雨が降り続き、寒くなりはじめた季節の空気をさらに重くしていた。    ひと通りの仕事を片付けたリュナス先輩は、いつものように管理課への書類を手に立ち上がった。 「アロイス、俺管理課(あっち)行ってくるから」 「はい。お気をつけて」  先輩はアロイスの補佐兼指導係だ。  だけど、管理課の仕事もしている。  そんな色々な仕事を難なくこなす先輩は、眼鏡の奥で柔らかく微笑み扉を開けた。  廊下にいたらしい誰かに頭を下げ、先輩は部屋を出た。  その、閉じかけた扉の向こうから忍び込んだ、ひそやかな話し声。 「あんな子がウルラちゃんだったら、夢あるよなあ」 「アホかお前、空間魔法結局落としたくせに、夢でも無理だろ」  その話し声に、モヤっとしたものを感じて眉をひそめる。    リュナス先輩は、柔らかな口調と穏やかな人柄で、騎士たちから密かに人気だ。  ただ、ディッカーであるエミレット卿と恋人で、それは周知のことだった。  そしておそらくだけど、二人は番いだ。  確認したことはないけれども。  ——今度エミレット卿に釘を刺しておこう。もう少し周りの騎士を牽制した方がいいと。  それからしばらくして、扉がノックされた。  応えと共に入室を促すと、一人の騎士が室内を覗き込み、アロイスを見て表情を消した。  今この場に、部屋の空気を和らげてくれる先輩はいない。  だから、騎士も固い表情を浮かべたまま室内に入り、アロイスの前に書類の載ったトレイを差し出した。 「……お預かりいたします。申し送りなどは」 「は、特に。ただこの新しい雨具は、現役騎士が考案した装備品で、非常に評判がいいものだそうです」  書類を手に取って何枚か捲る。  いくつかの書き漏らし、それから申請理由の薄さに気がついた。  書き漏らしはいいとして、申請理由をどう補強させるべきか。  どう伝えれば理解してもらえるか。  頭の中で考えていると、目の前で騎士が姿勢を直した。 「——楽にしてください」  気休めだとわかりながら、騎士の様子がいたたまれなくて声をかける。 『ロイはさ、顔がきれいだから』  ヴィンスの声が脳裏に甦った。 『真剣な顔は、少し迫力があるよね。俺からしたら、今一生懸命考えてるんだなってわかるから、それもかわいいだけなんだけどなあ』  それでも周りから見たら、自分の真顔は威圧的だ。  侯爵家の人間として、己の立場を理解して振る舞うことは大切なことだ。 「は、——はい」  楽に、と言ったのに、騎士の声は余計に萎縮したように聞こえた。 「一部情報が足りませんが、ここはあなたがご存知のことなら追記いただければ結構です。ただ……」  だから、言葉をつなぎながら、意識して口元を緩めようとして。  でもなぜか、口の端がひくつくだけだった。 「——しょ、書記官殿……」  騎士の声に、思わず片方の手のひらで顔を覆う。  ——ダメだ。 「すみません、お見苦しいところを」  取り繕うようになんとかそう口にすると、騎士が慌てたように机に身を乗り出した。 「い、……いえ。あの、何か不備が……。それとも、お加減が……?」  顔を覗き込まれる気配に思わず身を引くと、騎士はそれ以上近づくことはなかった。  ほっとして、顔から手を下ろす。  無理に取り繕う方が、より怯えさせるのかもしれない。  苦々しく思いながら、少し嘆息する。 「いいえ、大丈夫です。……新装備の申請理由ですが……」  今のままでは申請の根拠として説得力に欠ける。  今までも雨具は支給されていたはずで、これまでのものを使い続けることで何に困るのか、何が問題なのか、それを知らなければ決裁者が判断できないことを何とか伝える。  雨具のことで、ヴィンスが以前なにか言っていたのではなかったか。  記憶を引っ張り出しつつ何とか伝えたが、騎士は少し怯えたような顔のまま頷き、返した書類を受け取って部屋を出て行った。 「——伝わったかな……」  ため息をつきそうになるのをこらえて眉間を揉むと、そこにはくっきりとシワの刻まれているのがわかった。    こんな顔で話をしていたのか。  それは、怯えられるはずだ。 『全部アロイスがうまくやろうとしなくたっていいじゃん。ひとつ一つはどうあれ、最終的に団のためになればそれでいいんだよ』  ——無理だよ、ヴィンス。 『へこんだら、俺に言いなよ。俺は何もできないかもしれないけど、話は聞いてあげられるよ』  ヴィンスに諦められてしまったら、もう、話を聞いてもらうこともできやしない。  なんて。  そんなの、ただの八つ当たりだ。 「——はあ……」  息を吐き出してしまってから、ため息に気づく。  アロイス以外は無人の部屋。  長官が戻ってくるまで、ため息をつくのを止めようはなかった。 「アロイス。師団に緊急要請だ」  執務室の扉を開けた長官が、アロイスに向かって書類を差し出した。 「はい」  特殊師団——特殊室は、このところ続く雨の影響調査から戻ったばかりだった。  入れ替わるように今日、北部への応援が発ち、また緊急要請。  ディッカー——威力の大きな魔法を使える魔法騎士の力を要する緊急事態が発生したということだ。   「届けてきます」 「ああ、よろしく」  一礼して執務室を出る。  外はすでに暗く、廊下の明かりは頼りなく揺れていた。    万一に備えて待機している室長のもとへ、まだ続く雨の中足を踏み出そうとした。   「ロイ」  控えめな声。  それでも、雨音にかき消されることはない、ヴィンスの声。  思わず止めてしまった足に、唇の内側を噛み締めた。 「そっち、宿舎じゃないよ。——まだ仕事?」 「……ああ。ちょっと、緊急で」  本部から、中庭を挟んで向かいにある師団の建物。    待機中だからだろう。  明かりはなく、建物は暗く沈んでいた。 「灯りもなしで危ないだろ。付き合うよ」 「い、——いい。大丈夫」  近づくヴィンスの声。  それに背を押されるように足を踏み出すと、背後から腕を取られた。 「機密?」 「え?——いや……」  耳元へ忍び込んだ声に思わず首をすくめると、ヴィンスは腕を掴んだまま横に並んだ。 「じゃあ一緒に行こう。俺なら雨よけも灯りもできるよ」  そう言うと、アロイスの腕を引いて雨の中ヴィンスは足を踏み出した。 「ちょっ……、ヴィンス」  腕を引かれて足を踏み出し、それからふと気づく。  二人の周り、何か見えないものをよけるように雨が遮られ、天を仰いだアロイスの頬に、雨は落ちてこなかった。 「行くよ。師団だろ?」  ヴィンスの手は、いつのまにかアロイスの手首を柔らかく包んで、そのまま手のひらへと滑り降りた。  触れ合う指先が恥ずかしくて思わず指を引いても、ほんの少し力の入ったヴィンスの指先はアロイスを逃さなかった。  引き寄せられて、隣を歩かされる間、アロイスはつま先を眺めていることしかできなかった。 「あの……、ありがとう」  建物に入ると、ヴィンスの手はアロイスを解放した。  ひんやりとした指先をこすり合わせて、手を握り込む。 「うん。行っておいでよ。待ってるから」 「い、いいよ。大丈夫」  一歩後ずさってそう言うと、ヴィンスは少し微笑んでアロイスの顔をじっと見つめた。 「あの……」 「雨が止んだら戻るよ。でもアロイスの方が早く終わるなら、待ってるから」  急ぎだろ?と首を傾げたヴィンスに、小さく頷いて踵を返す。  一刻も早く、師団の出動を要請しなければならなかった。  少し振り返ってヴィンスの目を見る。   「ありがとう」  やんでほしくないな。  そう思ってしまった心を持て余しながら、アロイスは建物の中へと足を進めた。  待機中の室長を起こして出動を要請する。  ただ、それだけのこと。  だから、そのちょっとした願いを苦々しく思うことが起きるとは、想像もしていなかった。  翌日の、昼前。  本部に届けられたのは、増水した川で救助対応中に室長が頭部と眼球を負傷、現在意識不明との報せだった。 「医務課から人員を手配します」 「救急の治癒術師は砦にもいるだろうから、大きな治癒術の使える者と、それからサミュエル医務官にも出てもらおう」  医務官のサミュエル先生。その部下に、確か優秀な治癒術師がいたはずだ。  リュナス先輩を見ると、同じことを考えたのか目を合わせて頷いた。 「それからアロイス、室長の件を妃殿下へお伝えしてくれるか。陛下へは私がお伝えしよう」 「妃殿下、ですか?」  思いがけないことを言われて、長官の顔を見る。  長官は一瞬アロイスを見て、それから小さくため息をついた。 「まずは医務官を手配してくれ。そのあと少し話そう」  立ち止まっている時間はない。  なのに、雨がやまなければいいなどと思った昨日の自分を、苦々しく思い出していた。  その雨が室長の命を危険に晒していて、アロイスの願いの浅ましさをせせら笑っているみたいだった。 「君が書記官になった時、ディッカーや番いのことについては教えたが、覚えているか?」  執務室にアロイスを招いた長官はそう話を切り出した。 「はい、覚えております」  そのことをなぜ急に問われたのか分からず眉を寄せ、ふと思い至って口を開いた。 「——室長のウルラに、何か助けを求める必要がありますか」  ウルラとはディッカーの魔法的なパートナーで、その強さの源。  そして妃殿下はそのウルラを守り、庇護するお方だ。  その妃殿下へのご報告ということは、ディッカーである室長のウルラに何か用があるのかと察した。 「いや、アロイス。そうじゃない。  ——室長が、ウルラなんだ」  長官が、アロイスの目を見て、首を振った。 「……は。——え?」  その言葉を、すんなりと理解することができなかった。  室長は魔法騎士で、ディッカー達をまとめ率いる師団長だ。   「室長は、……ディッカーなのでは?」  口をついてでた疑問に、長官が少し目を細めた。 「いいや、違う。  ……彼は、ディッカー並みのことを成し得るのに、ウルラという他人の力を必要としない稀有な人物なのだよ」  ディッカーより、より完成された魔法騎士。そういうことだ。  ならば。   「……そ、——な……。では、ウルラというのはなぜ。  ウルラとは、ディッカーの魔力の器で……」  なぜ、その人が。   「ウルラになるためには……、そのためには……」 「ディッカーと一度、性的な繋がりを持つ必要がある、な」  言い淀んだアロイスの言葉を引き受けた長官は、重たい声でそう言うと、背もたれに体を預けた。  だからこそウルラの素性は秘匿され、管理課によって厳重に守られている。 「……なぜそれほどの方が、ウルラになど……」  なぜわざわざ、誰かのウルラになどなったのか。  そこまで考えて、自分の中に何かの引っ掛かりを覚えた。 「彼の忠誠心の賜だろうかね。――ともかく、彼は自分のディッカーを守るために無理な魔力の譲渡を行い、また負傷した」  長官の言葉に、顔を上げた。 「それほど守りたかったのだろうな。ディッカーを」    管理課の公式な運用ではない。  けれど、番い同士はその匿名性に関わらず双方を唯一無二のパートナーとして求め合う。  ——ヴィンスも、いずれ相性の良いウルラが見つかれば、そうなるだろう。  その予感に、言いようのない虚しさを感じて口元を引き結ぶ。  先ほど掴みかけた引っ掛かりは、いつのまにか指先を逃れ、もやのように消え去っていた。 「その過程で、自らがウルラであることを第三者の前で明かしたらしい。  おかげで、今や彼がディッカーでなくウルラだという情報だけ、一人歩きしようとしている」  ディッカーではない。  だが、その器に収まりきるものでもない。  そんな稀有な人物を、ディッカーたちの長という形に収め、ウルラの匿名性で覆うことで、誰の目からも隠していた。 「……由々しきことだ」  息を呑んだアロイスの目を見て、長官はゆっくりと頷いた。  守られるべき尊厳が、  損なわれようとしている、のか――。    師団長に関する報告だと伝えると、アロイスはそのまま妃殿下の執務室へと通された。  夜更けにも関わらず妃殿下は優美なお姿で執務机におかけになり、目線だけでアロイスに発言を促した。 「アロイス・ミュータスがご報告申し上げます」  ことの詳細を、できるだけ正確にお伝えする。  アロイスの感傷や感情は言葉に乗せるべきでなく、それでも今後の師団を取り巻く変化を思うと、どうしても口調は重くならざるを得なかった。 「……よくわかりました」  じっと耳を傾けておられた妃殿下は、口元を覆っていた扇をぱちりと閉じて、じっとアロイスを見た。 「ミュータス。あなたは、今回のことをどのように考えているのかしら」  まさか、己の考えを問われるとは思ってもいなかった。 「——は。恐れながら妃殿下、私の目から見ますと……」  妃殿下の執務机。  幅の広い机の端まで目線を走らせ、それから足元を見る。  人々の憶測で、いかようにもその価値を歪められてしまう存在。  目をつむり、小さく息を吐く。 「……師団長殿の価値は、まるで教会の秘宝のようにございます」 「秘宝?」  こつりと扇が机を叩く音がした。 「誰からも秘匿され、その価値はまったく憶測の裏側にございます。  それどころか、そのように手厚く守られなければその価値を保つことのできない」  言い過ぎだ。  だけど、紡ぐ言葉を止めることはできなかった。 「……民草からしたら何の意味もないありがたみのような――」  そこまで口にして、アロイスは言葉を止めた。 「失礼いたしました」  頭を下げる。 「わ、私が申し上げたいのは、師団長殿に価値がないということではございません。むしろ逆です」  もう一度、妃殿下の目を見る。 「これほどの能力を持つ方が、その能力を公に評価されることもなく、ただウルラであるという一点だけを理由に、その存在そのものを隠されていることが問題なのではないかと」 「隠されているからこそ、守られているのではありませんか?」 「はい。ですが――」  少し考えて、言葉を探した。 「守られていることと、知られていないことは、同じではございません」  妃殿下の扇を持つ指先が、わずかに動いた。 「師団長殿は、ディッカーではない。けれどもディッカー以上のことを為すことができる。  それほどの力を持ちながら、ウルラであるという事実だけが知られれば、人々はその方をウルラとしてしか見なくなる」  それが、アロイスにはひどく不合理に思えた。 「ならば、今まで何を成し遂げてきたのか。どれほどの力を持つのか。どれほど国に貢献してきたのか。  そのすべてが、最初から存在しなかったことになってしまいます」  妃殿下は何も仰らない。 「……それでは、守っているのは、その方の尊厳ではなく、ただウルラというものの形だけなのではないかと……」  言葉が過ぎていると、感じていた。 「私は、師団長殿が何者であるかを公にすべきだと申し上げているつもりではございません」  けれど、言葉を止めることはできなかった。 「むしろ、知られたくないことを知られずに済む権利は、誰にでもあるべきだと思います。そのうえで、その方が」  己が何者であるのか。  それを、見え方だけで決めて欲しくない。   「正しく評価される機会が必要なのでは、ない、……でしょうか」  その思いが、まるで自分のことだと気づいた途端、語気が削がれて、口が重たくなった。 「……ミュータス」    妃殿下が、ゆっくりと扇を開く。   「はい」  その扇は妃殿下のお口元を隠し、ほんのわずか揺れた。 「回復次第状況を確認し、またあなたが、報告にいらっしゃい」 「はい。……かしこまりました」  戻ってよい。そう告げられて部屋を辞する。  言い過ぎた、かもしれない。  でも、妃殿下からはまた来るように仰せつかった。  ほんのわずか、意見が認められた気がして、ざらついていた胸の内が静まっていた。  ただ。  ウルラも、ディッカーも。  そして番いたちを取り巻く自分たちも。  その目にかけられた覆いのせいで、見えなくなっているものがある。  なぜか、そう感じていた。    目を覚ました師団長は、再建された眼球と視神経の鎮静のため、一時的に視力を失っていた。  失明は一時的とはいえ、大きく損傷したことは事実。  その後まったく元通りに見える保証はなかった。  また今回室長は、これまでに実例のない魔力の使い方をした。  このことで、室長の魔力の損失も懸念されていた。  このまま室長が回復しなければ、——つまり、室長が今の立場を退くようなことがあれば、世間は室長がウルラであるとバレたから退いたのだと、勝手に簡単な解釈をするだろう。  そんなことになるのは避けたくて、目覚めの知らせを受けたアロイスは、すぐさま室長へ会いに行った。  行ってしまった。   「――ただ、道……。そう……。道を通って流れた魔力は、何に遮られることなく、まっすぐ、フリードに譲渡されました。」  魔力の状態について尋ね、事故の時の魔力の使わせ方に言及した時に、室長が口にした言葉に一瞬引っかかって、口に乗せた。   「道。」  だから、これはアロイスの失態だった。  道。二人の間にある、魔力のやり取りをするつながり。  思わず聞き返してしまった言葉に、室長が口を開いた。 「口、です」 「——口……?」  それは。  つまり——。  つい、目線をさまよわせてしまった。  黙り込んだアロイスに代わって居合わせた医務官が話を引き継ぎ、その間アロイスはじっと考えていた。  番いの道は、一般にウルラの肛門内部、人から普段触れられない場所に作ると聞いた。  道の場所は、ディッカー以外には触れられない場所になるから。  そして、ディッカーの——魔力の迸りを受け入れて道を作るのに適した粘膜だから。  だのに。  口。  いったい、何がどうして……。  そこまで考えてから、そんなことに思いを巡らせることが室長へのとんでもない冒涜だと気がついた。  そんなことを、容易く口にさせてしまったことも。 「も、……うし訳ありません。——ひとまず、状況についてはわかりました。  詳しくはまた公式の場でお伺いします」 「あ、はい」  室長が何か言いかけたのを遮るように、回復の見込みだけを簡単に医務官に確認し、アロイスは逃げるように病室を後にした。  踏み込んではならないところに、足を踏み入れてしまったと感じていた。  このことは、明かされざるべき、二人の尊厳のはずだったのに。 「ロイ?」 「ヴィンス……」  階段を下り切ったところで、前から歩いてきたヴィンスに声をかけられた。 「どうしたの、なんか変な顔してる」  言われて、思わず頬に手を当てた。 「変って……?」 「なんかあった?」  ヴィンスの手がアロイスの手に重ねられて、顔を上げさせられた。 「話、聞くよ?」  もう、そんなふうに頼っていいのかどうかわからなかったけれど、覗き込むヴィンスの目から、逃げることができなかった。  そのまま連れ出された中庭では、落ち葉がカサカサと二人の歩みを彩っていた。 「ヴィンス……、なんで」 「話せないことまで聞くつもりないけど。そんな顔したロイは放っておけない。——座りなよ」  ヴィンスの言葉に、唇の内側を噛む。 「……俺、だって。聞いたらダメなことまで、聞くつもりはなかったんだ」 「——ん?うん」  腰を下ろす気にはなれなくて、繋いだままのヴィンスの手を握りしめて、顔を伏せた。 「でも……、そういうことを判断できる状況かどうか。  ちゃんと、俺が配慮すべき、……だった」  声が震えるのを、お腹に力を入れて抑え込もうとして、失敗した。 「ロイ。誰だって間違えることはあるよ」 「だけど」 「間違えたときは、次間違えない方法を考えるチャンスだよ」  繋いだ手が、ヴィンスに少し引き寄せられた。 「間違えていいんだ。間違えて、もし相手を傷つけたなら謝って。それから、次からどうするか考える」 「……次」  引き寄せる力に抗えずにいると、ヴィンスもまた近づいて、二人の距離がなくなった。 「俺も。この間みたいに、ロイを泣かせないためにどうするか、考えてる」  思いがけない言葉に目を瞬くと、繋いでいないほうのヴィンスの腕が、そっと背中に回された。  その温かさに、なぜか背筋が伸びた気がした。 「……あんな風に、つらそうな顔させるつもりじゃなかったんだ。  ごめん」  次、が……、ある。  答えられないとまで言ってしまったアロイスを、まだ、ヴィンスは諦めないでいてくれた。  思わず顔を上げると、思ったよりもずっと顔が近くて、それでも、かちあった目線を外せないままアロイスは息を詰めた。  離れないと。  そう思っていても、体が動きたがらなくて、ヴィンスから目を離せなかった。 「——っ」  ほんの少し。  羽根が触れるような優しさで、ヴィンスの唇がアロイスに触れた。  そのことに気づいた途端に、喉の奥がぎゅうっと締まって、耳の裏まで痺れるほどに体が震えて、  ——でも、アロイスは動けなかった。  背中に回された腕に少しだけ力が入って、もう一度、次は唇が押し付けられる。  アロイスは、……逃げ出さなかった。  ヴィンスを、諦めようというのが間違いなら。  諦めないでいられる道を、  探しても、いいのかもしれない。 「ロイのそういうとこ、かわいい」  そんなことを言ったヴィンスは、もう一度唇を重ねてから、どこか安心したように笑った。    諦めたくない。  諦めたくないし、誰にも、渡したくない。  いつか現れるかもしれないヴィンスの、——ウルラにも。    その後アロイスは管理課へ面会を申し入れ、自分の迂闊さを詫びた。 「いえ、書記官殿のせいだけではありません。それに我々としても、道の場所については想定外でしたし……」  認識阻害の魔法により顔も声も曖昧な管理官は、そう言って小さく嘆息した。 「それにあの方はご自身で、ご自身がウルラであることも明かしてしまいました。  ……ディッカーではないということでさえ、あの方を守るための機密事項でしたのに」  その言葉に、アロイスの胸の内がまたわずかにざわめいた。 「室長殿は、ディッカーであるかどうかに関わらず尊敬すべき方です。  数年前、崩壊寸前だったディッカーたちのあり方をすくい上げ、守り、育ててこられた」  アロイスにとって、室長は優秀な騎士である以上に、優秀な上官であり、政治家でもあった。   「ディッカーかどうかより、何をしてこられたか、何を為せる方なのか。それが正当に評価されるべきでしょう」  アロイスの言葉に、管理官は体の前で両手を組み合わせた。  アロイスだってわかっている。  それをすべきは、管理課の仕事ではない。  だけど……。 「ご存じでしょうか」  管理官は、組み合わせた両手の親指を一度額に押し当てて、小さくため息をついた。   「今から30年ほど前。ウルラがディッカーの強さの鍵を握ると突き止めた当時の隣国により、ウルラ達の拉致事件がありました」  その言葉に、アロイスは小さく頷いた。  本部の書記官となった頃に、長官から教えられていた。 「その反省から、我々はウルラの存在とあり方を機密事項として保護することが至上命題となりました。  ——ウルラは、必ずしも騎士ではありません。その身に力を持ちながら、彼らの多くは自らの身を守ることができないのですよ」  管理官はそういって、しばらく押し黙った。  管理官の、言う通りだ。  室長には、自らの身を守るだけの力がある。  それだけの立場もあり、能力もある。  だけど、例えばアロイスのような事務官であれば。  でも。 「——何から、守るべきなのでしょう」 「え……?」  アロイスの口からこぼれ落ちた言葉に、管理官が小さく反応した。  顔を上げて、管理官の顔をじっと見つめる。 「——ウルラが誰なのか。明らかにする必要があるとは、思いません」  その身を守ること。それは、大切なことだ。  それでも。  ——ウルラちゃん。  いつだったか、騎士が戯れのように口にしたその呼び方。 「ですが、——隠しでもしなければその尊厳を損なうようなあり方は」    長年秘匿されたウルラに残された、性的な匂い。  そして、自らの中にさえあった、ウルラへの差別的な感覚。 『間違えてもいいんだ』  ヴィンスの言葉が脳裏をよぎる。 「室長ほどの方でも、ウルラというだけでその意味が歪められてしまうとすれば」 『間違えて、もし相手を傷つけたなら謝って。それから、次からどうするか考える』  どうしたらいいのかは、まだわからない。   「——それは、そもそもそのウルラのあり方こそが、見直されるべきなのではないでしょうか」  小さく。  管理官が息を飲み込む音がその場に落ちた。  ただ、アロイスの悪あがきのような言葉だけが、静まり返った部屋の中、しんと広がっていたけれど。  あの時感じた引っ掛かりは、状況を変えようもないと諦めていた自分への、どうしようもない自己嫌悪だったのかもしれないと感じていた。    ——あり方。  管理課からの帰り道。  アロイスは、父の顔を思い出していた。  侯爵家の次男として生まれた以上、家のために良い結婚をすることが求めで、そこにアロイスの意思は必要ない。  宮殿貴族として足場を固め、上を目指すために本部への配属を希望したとき、その父からの期待には何の疑問も抱いていなかった。  だけど。  ヴィンスと出会って、そのあり方と自分の心は遠くかけ離れてしまった。  なんとか諦めようとして、結果、歪んだ心はアロイスにとって重たすぎた。  自分も、あり方を見つめ直したい。  何か、ほかのやり方で家に貢献できれば。  その義務から、この身を解放することができないだろうか。   「そう。——ミュータス、あなたの思うようになさい」  アロイスの報告を受けた妃殿下は、そのように仰った。 「事故の経緯と対応は正当に評価するといいわ。  ウルラだからと手心を加えることなく、厳しい目で適正に評価なさい」  お口元に薄く笑みを佩いた妃殿下は、まっすぐにアロイスの目を見て頷き、それからアロイスを手招いた。 「あなたは、——なぜそれほどウルラのことを自分事に考えるのかしら?」 「——自分事に、そうでしょうか」  ご指示の通りにお側へ寄ると、妃殿下から一枚の書類と紋章を差し出された。 「受け取りなさい。これは私の直轄地の領主紋章牌と、委任状です」 「——は……」  答えて受け取ろうとして、声にならない息だけがこぼれ落ちた。 「ひ、妃殿下……。なぜこのようなものを……」  手を差し出すことも躊躇われて固まったアロイスに、妃殿下は少しだけ声を立てて笑われた。 「急で驚かせたでしょうけれど。  ……その領地は、番い達のための施設がある場所です。  山間のごく小さな領地で領民もわずかですが、ここの領主は管理課の責任者にもなります」  それから、笑みを収めた妃殿下は、手にした扇を開いてから仰った。   「あなたが、私に代わって領主を引き継ぎなさい。  王太子妃に任せるのはまだ早い。あなたのようにウルラのことを考えてくれる人に、しばらく管理課を預かって欲しいのよ」  表向きは、王室御領地の領主。  実情としては管理課の長。  代々妃殿下方が担ってきたウルラの庇護者は、時にこうして代行に委ねられてきたと言う。  アロイスは、王太子妃への引き継ぎまでのいわば繋ぎであり、有事の際の保険だとも妃殿下は仰った。  それでも御領地を預かるということは責任が大きく、家の意向を確認したいと言ったアロイスの言葉は受け入れられた。  御前を辞する際の、妃殿下のお言葉が耳の奥から離れない。 『あなたが思う道を歩くための武器にもなる話よ。侯爵から、勝ち取りなさいな』  思い当たるところはあるけれど、このお話を、そんな個人的な願いを叶えるための道具に使うわけには、いかない。  そのはずなのに。  自分を繋いでいた義務から、解放されるかもしれない。  そう垣間見えてしまった未来が、アロイスの心を掴んで、離そうとしなかった。  久しぶりに訪れた侯爵家のタウンハウスで、アロイスは父、ミュータス侯爵と向き合って座っていた。 「妃殿下からそれほどの繋がりを頂いたとは、大したものだな」  妃殿下の直轄地をお預かりする話を伝えると、侯爵は珍しく驚いた顔をした。 「本部の関係で、時折ご報告を差し上げる程度でした。ただ、引き継ぎの期間を見据えた繋ぎの人材として、と」  持たされた書状を差し出すと、侯爵はその封蝋を見てから一度頭上に掲げ、妃殿下への敬意を示す仕草をした。  ここにはアロイスと侯爵しかいないけれど、これはそれほどまでに重みのあるものなのだと、改めて感じ入る。 「……一代爵位ながら、お前を当主に据えて家名を下さるとのことだ。  アロイス。——大きな繋がりを作ったな」 「繋がり、ですか」 「妃殿下のご実家は我が家と同じ侯爵家。王家やほかの貴族達から警戒されるから、婚姻もおいそれとは結べない。  得難いご縁を賜ったのだ。よくやった」  侯爵の言葉に、少しだけ胸の内が重苦しくなった。  家のつながりのためにしたことではなかった。  ただ、結果としてそのようになっただけのこと。 「家名は妃殿下にお伺いしなさい。当主となるならば妻も必要だろうが、それは妃殿下のご意向も伺うべきだな」 「父上」  思わず、声が出ていた。 「うん?妃殿下に口添えしてほしい人でもいるか?」  思いがけず柔らかい口調で返されて、何を言うべきか迷ってしまった。  侯爵とかちあった目線が揺らいで、書状に視線を落とす。 「いえ……、その。妻は、必要でしょうか」  絞り出すように口にした言葉に、侯爵が少し笑ったのがわかった。 「お前が必要かどうかではないぞ。その席が空いていれば、いやでも埋められる。そういうものだ」  侯爵の——父の言葉に顔を上げると、父はその面にゆるい笑みを浮かべてアロイスを見つめていた。 「父から見れば過分な役割を頂いたと思える。その役割に加えて妻にまで気を遣えばお前がつらいだろう。  気安い人がいるなら、どなたでもいいから妃殿下にお伝えしなさい。断れない縁を持ち込まれる前に」  それが父の優しさなのだとわかっていても、目の前が暗くなった。  アロイスに選べる誰かなどいなかったから、いずれ誰かを選ばなければならないのなら少しでも遅い方がよかった。  なのに、領主代行を引き受けるならば、それが早まることになる。  突き付けられた現実は自分の甘さを嘲笑っているようで、呆然としたままアロイスはタウンハウスを後にしようとしていた。 「……そんなにも身分違いなのか?」 「——え?」  珍しく見送りに出てくれた父、侯爵は、アロイスの横を歩きながら小声で問いかけた。  身分。  身分ではなくて、性別だけれども。 「私には、妻に迎えたい人はおりませんし、……誰も迎えたくもないのです」  小さく答えたアロイスの言葉に、父はしばらく黙っていた。  二人エントランスで向かい合い、目礼をする。  踵を返して扉を開ける間際に、背後から声をかけられた。 「アロイス。——貴族法を検め直しなさい。特に第八章、当主権限について。法律はお前の武器だろう。うまく使いなさい」  振り返ると、父はアロイスの目を見て頷きを返した。  自分の、武器。  今まであまり気にも留めたことのなかった第八章に思いを巡らせて、今度こそ一礼した。    当主権限。  何かが、アロイスをせき立てていた。 「貴族法……第八章。——ここだ」  本部で法令集を広げて、貴族法の記述を確認する。  この条文は、幼い頃に家庭教師からひと通り教わっていたはずだ。  とはいえ次男の気安さで、内容などほとんど忘れ去っていた。  けれど。 「——準、結婚」  条文をなぞる指が、その文字を捉えて止まった。    当主は、当主夫人としての役割を全うするに足る適格性を有する者を、性別によらず準結婚の配偶者と定めることができる。  なお、当主は同時に二以上の配偶者を置くことができない。  また、当主の後継者として認められるのは、当該配偶者との間にもうけた子(養子を含む)に限る。 「……性別に、よらず」  目の前が、ほの明るく広がった心持ちがした。  もう一度、条文をなぞり直してみる。 「当主夫人としての役割を全うする、……適格性」  立ち上がり、貴族年鑑を手に取る。  近年も、準結婚をしていた貴族が、確かいたはずだ。 「——いた。……国境伯殿」  前当主子息への中継ぎとして爵位を引き継いだ人物。  男性を伯爵夫人として迎えており、その理由は。 「爵位継承にかかる問題を、生じさせないため……」  読み上げる声が、震えているのを感じていた。    これは、自分にも同じことが言える。  自分の隣を、埋める誰かが必要だ。  だけど、アロイスの立場は跡継ぎを必要とするものではない。  どちらかと言えば、いないほうがいい。  妻として、必ずしも女性を迎える必要はない。  そういうことだ。  アロイスは、広げた書類もそのままに、執務室を出た。  ヴィンスに、会いたかった。   「え、ヴィンスですか?あいつ今日は商会の方に行ってるんじゃないですかね。最近何かと忙しそうなんで」  ヴィンスの隊の騎士を捕まえて尋ねてみると、そんな答えが返ってきた。 「商会、ですか?」 「はい。最近あいつ、装備品を取り扱う商会を経営し始めてまして。あ、そこの雨具すごくいいんですよ。  上級魔法騎士の資格も取るし、商会は波に乗ってるしで。よっぽどのご令嬢でも狙ってるのかって聞いたら、まんざらでもない顔しやがって」  少し自慢げに告げられた言葉は、同僚の有能さと順風さを喜ぶ、素直な感情に彩られていた。  彩られていたように、思う。   「……そう、なんですか」  ただアロイスにはその色がわからなくて、呆けたような返事しかできなかった。   「書記官殿には下世話な話でしたね、すみません」  確かについ最近、雨具を新しい商会から仕入れたいという申請があった。  書き直しさせた申請理由を読むと、確かに現場の困りごとを網羅した商品で、この商会はたいしたものだと思った。  ——思っていた。  騎士の言葉にゆるく首を振ると、世界が後からついてくるように揺れた。 「だ、大丈夫ですか」  ふらりと揺れたアロイスの腕を騎士が掴み、顔を覗き込んだ。  思わず一歩下がって、その手から逃れる。 「すみません、大丈夫です」  確かにあの日。  ヴィンスは好きだと言ってくれた。    けれど、それがヴィンスにとってどんな重みなのかまではわからない。  それが、ヴィンスが身を固めるまでの、ただの恋人としてだったとしたら—— 「ありがとうございました」  そうだったとしても。  心配げな騎士に一礼して、その場を辞する。  それでヴィンスを諦められるくらいなら、こんなに思い悩むことなんてなかった。  あの日、ヴィンスが言ってくれたように。  自分も気持ちをぶつけてみよう。  そのために、アロイスにはすべきことが、ある。 「なんだ、お前まで急に」  前日に引き続きタウンハウスを訪れると、侯爵はそう言ってアロイスを執務室へと通した。 「どなたか来客でしたか。——すみません」 「いや大丈夫だ、もう話は済んでいる」  アロイスの向かいに腰を下ろした侯爵は、ゆったりと椅子に腰掛けてアロイスの顔を見た。  用事があるなら話しなさい。そう言われていると察する。 「父上。……第八章を確認しました」 「ああ」  このタウンハウスには今、父と使用人しかいない。  兄夫婦にまだ子供はおらず、アロイスには家をつなぐ以上の役割が期待されていたことは理解している。  だけど。 「私は、妻にしたい人はおりません。ですが、伴侶に迎えたい人はいます」  アロイスの言葉に、侯爵はゆっくりとまばたきをして口を開いた。 「それは、どう違うんだ?」  侯爵の声は静かで、落ち着いていた。  一瞬唇の裏を噛み、すぐに離す。 「男性です。——子をなすことはできません」  声は、震えなかった。  思いのほか心は落ち着いていて、ただ、心臓の音は耳の奥でうるさく鳴っていた。  アロイスを見て、侯爵が口を開く。  ほんの少しその目が細められていた。 「そうか。——相手は、受け入れてくださったのか?」  ほんの少し、手のひらを握り込んでから、答える。 「わかりません。まだ、これからです。ですが、簡単に諦めるつもりもありません」 「そうか。……それは——」  そこまで言って、侯爵は背もたれに背中を預けた。 「残念だな」  その言葉に奥歯を噛み締めた。  やはり受け入れがたいのだろうか。  たとえ大歓迎はされずとも、受け入れられるならその方がよかった。  たとえ準結婚でも、親族同士になる。 「申し訳ありません。それでも、私は彼を手に入れたいのです」  でも、ヴィンスの人柄ならば、きっとそのうち気に入って貰える。  それにもし、だめでも。  アロイスがヴィンスの盾になればいい。    そう考えて背筋を伸ばすと、侯爵はじっとアロイスを見つめ返した。 「——ヴィンセント・クロウ」 「……え?」  体を起こした侯爵が、机のカップを手に取った。 「お前に婚姻の自由をくれてやってほしいと、今日申し入れに来た男の名前だ」 「は、……え、え?」  カップに口をつけた侯爵は、一口飲んでから言った。 「その条件が、いい事業提携の話でな。——残念だよ」  そう言って面白そうな顔をした父は、ヴィンスはまだ客間にいるだろうと言った。 「一緒になりたい男がいるなら、きちんと振ってやりなさい」  そう言った侯爵に向かって、「それが彼です!」と叫んで執務室を飛び出したアロイスを、侯爵がどんな顔で見送っていたかまでは、見ていられなかった。 「——ヴィンス!」  無人の客間を出てエントランスに向かうと、普段見かけないジャケット姿のヴィンスが、まさに屋敷を出るところだった。 「あ、……ロイ……」  いつも。  顔を見るたび笑顔をむけてくれるヴィンスが、この時は途方に暮れた迷子のような顔をしていた。 「ヴィンス、話がある。聞いてほしい」  ほんの少し、何かをこらえるような顔をして、薄く笑みを浮かべたヴィンスに近寄り、その腕を掴む。  ヴィンスに、一時でもそんな顔をさせたくはなかった。 「お願いだ。……この先、ヴィンスのウルラになる人が現れても、その人と番ったりしないで欲しい」  もう片方の手で、ヴィンスの頬に触れる。  目を見開いたヴィンスの顔を覗き込み、しっかりと目を合わせた。 「それから。……お、俺の、生涯の伴侶になってほしい」  祈るような気持ちでヴィンスの顔を見上げていると、ゆっくりとまばたきをしたヴィンスが、呆けたような声で、小さく、答えた。 「なる。……なるよ、ロイ」  その言葉に胸の内が震えて、思わず、ヴィンスに抱きついていた。  抱きとめるようにアロイスを受け止めたヴィンスの声が、頭上から降ってくる。 「ロイ、それに俺、ディッカーになるつもりなんて、ない。  俺が欲しかったのはディッカー候補の資格だけ。ロイ以外に紐付けられる気なんて、はじめっからない」 「……そう、なの?」  見上げたヴィンスは、まだ夢から覚めたような顔をしていた。 「ただの魔法騎士なら無理でも、ディッカー候補の騎士なら、少しは、侯爵殿に話を聞いてもらえる、から……」  父と、話をするために。  そのためだけに。  ディッカーの候補にまで上り詰めた。  そのことに、身体中が総毛立つほど嬉しくなった。 「だけどロイ、ロイの婚姻は、ひ、——妃殿下預かりだって……」  ヴィンスがアロイスの顔を覗き込んだところで、咳払いが聞こえた。 「——アロイス。せめて客間にお連れしなさい」   「どんなお相手でも、少しくらい婚約期間は設けなさいね。体面というものもありますから」  妃殿下へ報告に上がり、恐る恐る配偶者のことについてお尋ねすると、妃殿下はあっさりとそのように仰った。  相手が誰か、どのような人物か、妃殿下は何も聞かなかった。 「相手を好きに決められるのは当主の特権よ。身分が釣り合わなければ誰か適当な者を席に据えればいいのだし、……せっかくなら貴方を守れる騎士もいいわね」 「騎士を……」  簡単に告げられた言葉に絶句していると、妃殿下は扇の奥で面白そうに微笑まれた。 「言ったでしょう?勝ち取りなさいと」 「……はい」  それからしばらくして。  アロイスは御領地を預かる領主、ルーフェンス子爵として貴族たちにお披露目され、その護衛騎士兼婚約者としてヴィンスも紹介された。  ディッカー候補の優秀な騎士を、アロイスの専属に引き抜くのだけが苦労したところかもしれない。 「ロイ、お疲れ様」 「うん。ヴィンスも」  手を差し伸べられて馬車に乗り込むと、扉を閉めたヴィンスはアロイスの隣に腰を下ろした。  この日のヴィンスは、アロイスの護衛騎士として騎士の礼装に身を包み、見惚れるほど素敵だった。 「……ヴィンス?」  普段、向かい合わせに座ることばかりだったから、少し不思議に思って顔を見上げると、ヴィンスは眉を下げてアロイスの顔を見下ろした。 「手、繋いでいい?」 「う、うん……」  戸惑いながらも頷くと、ヴィンスの大きな手がアロイスの手を包み込んで、それから、指先に口付けを落とされる。  腰が触れ合いそうな距離。  普段よりずっと大人びた装いのヴィンスにそんなことをされて、そわそわとしたものが指先から首すじまでを通り抜けた。 「今日、ロイが御領地領主だって紹介されたとき、すごくたくさんの人の、目の色が変わったんだ」 「……え?」  指先を口元に持ち上げたまま、ヴィンスはこちらをじっと見つめていた。 「俺が護衛騎士として、それから婚約者として紹介されたときに、残念そうな顔をした奴らと、俺のことを値踏みした奴らもいた」  そう言ったヴィンスは、もう一度指先に唇を寄せた。 「男も、女も。——ロイの価値を肩書きだけで見るような奴らに、ロイのこと見せたくなかった」  そう言ったヴィンスの目が力強くて、思わず指先を引きそうになると、ヴィンスは反対の手をアロイスの腰に回した。 「——っ、ヴィンス」 「全部」  引き寄せられて、ヴィンスの腕の中に閉じ込められた。 「ロイのこと。……全部俺のものにできたらいいのに」  二人きりの馬車の中、そんな格好で、そんなことを言うのは、反則だと思った。 「ダメとか……、言えないじゃ——、っん」  全てを言い終わる前に、声を奪われて、背中をかき抱かれた。  礼装の胸元を飾る勲章と、領主の護衛騎士であることを示す記章。  その上に指を這わせて、——胸の中が熱くなった。  この男は、自分のものになった。  その指先にヴィンスも自分の指をそわせて、耳元でささやく。 「そう。俺、——ロイのものだよ」    その言葉が、アロイスの独占欲をたまらなくくすぐったのだと言ったら、  二人の屋敷に戻っても、しばらく馬車から降りられなかったかもしれない。 「——ぁ、ま……って」  屋敷に到着した途端に、アロイスはヴィンスに抱き上げられて馬車から降ろされた。  それからヴィンスは出迎えた使用人の挨拶もそこそこに、アロイスを部屋の寝台へと運び込んだ。 「待てない」  口付けの合間になんとか口にした懇願は、ヴィンスにすげなく断られた。  またすぐ唇をふさがれて、そのままクラバットを緩められる。 「——っふ、ぅ……っ」  頬をなぞり、耳元から首すじを辿ったヴィンスの唇に、わけもわからないまま追い詰められて、声が抑えきれなかった。 「——だめ」  ヴィンスの指に下唇を押さえられて、少し下に引っ張られる。 「唇かんじゃだめだよ、ロイ」 「っ、——だ……っふ、ぁ」  抗議しかけた口の中にヴィンスの硬い指が入ってきて、舌の側面をぞろりとなぞられた。 「だめ。噛むなら俺の指にして」  そんなの、噛めない——。  歯を当てないように、その指に吸い付くように舌を絡めると、ヴィンスが喉の奥で小さく笑った。 「んっ、——ん、ぅ」 「かわいい、……ロイ」  指先をゆるゆると抜き差しされて、その指先を必死に追いかけると、体にかかるヴィンスの体重がぐっと重くなった。 「んん……」 「やばい。……ちょっと触るだけのつもりだったのに、止まれる気しない」  いつもの。  ——かすれた、ヴィンスの声。  もっと近くで聞きたくて。  背中に腕を回して、指先に力を入れて、ぎゅっと引き寄せた。 「ふ……、ぁ、ゔぃん……」 「うん」  引き抜かれた指を舌先で追いかけると、またヴィンスの笑い声。 「ロイ、それエロいよ」  口の中がさみしくて指先を目で追うと、指の代わりに、噛みつかれるようにキスをされた。  その勢いに引っ込みかけた舌を差し出して、ヴィンスのそれに絡めてみる。  ちょっとじゃ、足りない。  そう伝えたかった。  伝わって欲しくて、ヴィンスの首に腕を絡める。  しがみつくように引き寄せると、ヴィンスが喉の奥で唸り声をあげた。    それが、お互いの理性がつぶれる音だったのかもしれない。  たくしあげられたシャツの下、ヴィンスの指が背中をなぞり上げる。  自己主張し始めたアロイスの昂りは、ヴィンスの指の背であやされた。 「……っあ、——っ!」 「うん、……気持ちいいね」  逃げ場のない腰をよじる。  するとヴィンスがそこに自分の昂りを押し当て、少し揺らした。  その刺激に体が跳ねると、ヴィンスは器用にアロイスのジャケットを脱がせ、ベルトを外し、そのたび顕わになる肌に舌を這わせていった。    気づけば、中途半端にはだけたシャツ以外、アロイスの服は全て剥ぎ取られていた。  ヴィンスはあの騎士服のまま、痛いほど強く、アロイスの肌のあちこちに痕を残していた。    その、合間にも。  それから、キスと、キスの合間にも。  ヴィンスに、もっと、とせがんだ気がする。  窄まりに怯んだアロイスに、息を詰めて体を引こうとしたヴィンスの腕を引き寄せた時。  ゆっくりと顔を覗き込んできたヴィンスの目はギラついていて、  ——求められていることが、震えるほど嬉しかった。  だから、目を合わせたまま、自らの脚の間に、ヴィンスの手を導き直した。   「——っ、ぁ……、ん、……っ、ん、……っ……、ん」 「ロイ……っ、かわいい」  ゆさゆさと。    揺れる世界と。  お腹の中の熱。  背骨をかけ上がる、震えるほどの痺れ。  禁欲的な騎士の礼装を、着崩したヴィンス。  はだけた胸元を伝う汗。——アロイスの腹に触れて濡れた裾。  ゆすり上げられる中で、その礼装に縋り付いたアロイスの指先。  それをヴィンスの手のひらが捉えて、寝台に縫い止めた。    ぜんぶ。  ぜんぶ全部。 「も……、っや……」  騎士服のボタンが、ひんやりとアロイスのみぞおちをなでる。    ヴィンスの全部。 「うん……、っ、ロイ。——ごめん、まだ……」  腰を押し付けたヴィンスがそのまま腰をこねて、お腹の奥で昂りがうごめく。  自分の全て。 「ひぅ、…………っ、ぁ、ぁ……、あ!」  じわり。  しびれるような感覚がうごめきと共に湧いて、あっという間に腰の奥へと広がった。  痙攣するように引き攣れた窄まりと、ヴィンスの呻き声。 「——っ、ロイっ……!」    全部ぜんぶ。  一つになる。 「好き、だよ……」  ◇ ◇ ◇  妃殿下への報告  整理番号:八四五の三  件名:ヴィンセント・クロウ/キール・ヌガレ組み合わせ  当該組み合わせについて、以下の通り報告いたします。  一.交渉経過  七月十三日 ヌガレ氏組み合わせ打診、内諾  同日    クロウ氏組み合わせ打診、辞退  七月十五日 クロウ氏への組み合わせ再打診、辞退  二.譲渡状況  開始前解消のため該当なし  三.健康状態  該当なし    以上をもって、当該組み合わせは制度上の手続きを停止する。    魔力資源管理課  歴八四五年 七月十六日  リュナス・バークレイ

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