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4、雪どけのとき

 それからのこと、少しずつ、けれども明らかな変化が、リシェルノアの態度には見られるようになった。  あの朝以来、リシェルノアはまず、グレンに対してぎこちないながらもちいさく微笑みを向けてくれるようになった。 「おはようございます、殿下」  グレンが挨拶をしても、それまでならば、うん、と、素っ気ない返事しか返ってはこなかった。だが、いまでは違う。 「おはよう、グレン卿」  きちんと顔を上げ、挨拶の言葉を返してくれる。それを聞いたグレンが目を細めて笑むと、彼もまた、ふ、と、口許を綻ばせた。  しばらくすると、一日の終わりに、彼のほうから労(ねぎら)いの言葉すらかけてくれるようになった。 「今日も一日ご苦労だった。ありがとう」 「恐縮です、殿下」 「明日も頼む」 「はい」  そんなやりとりだけで、一日の疲れも吹き飛ぶ気がするのだ。  すこし前までは、執務に集中するリシェルノアをただ見詰めているのは、退屈な仕事だとさえ思っていた。だがいまでは、なぜそんなふうに思っていたのか、過去の自分が信じられなかった。王子の整った顔を一日中眺めていられるなんて、ひどく贅沢な職務である。要するに、いまのグレンはすっかり、第一王子リシェルノアの護衛騎士の仕事にやりがいを見出しているのだった。  そして、リシェルノアの変化は次第に、グレン以外の周囲の者たちへの態度にもあらわれるようになっていった。 「殿下、ご依頼の書類をお持ちいたしました」 「ああ、ありがとう。助かったよ」 「殿下、お茶をお淹れいたしますので、少しご休憩ください」 「うん、そうしよう。気遣いに感謝する」  侍官に、侍女に、リシェルノアは小さく微笑む。まだまだぎこちないが、それは確かにあたたかな笑顔だった。  笑いかけられた最初こそ、みなも目を瞠って驚いていたようだ。が、すぐに馴染み、明るい笑顔を返すようになった。そして、生き生きとした表情で、王子に仕えるようになっていった。 「リシェルノア殿下、最近、お優しくなられたと思わない?」 「あの整ったお顔で微笑みかけられたら、その日は一日しあわせな気分で過ごせるわよね」  侍女たちは嬉しそうに囁き合う。 「雰囲気もずいぶんと柔らかくなられたような」 「素敵な方だわ」  廷臣たちもまた、リシェルノアに対する見方を変え始めたようだ。 「リシェルノア殿下は、なかなかの手腕をお持ちだと聞く」 「わたしは前々から、あの御方は実は優秀だと思っていたさ」 「王太子殿下にも劣らない、ご立派な王子ではないか」  リシェルノアの周りには少しずつ人が集まるようになっていった。グレンにはそれが嬉しかった。朝の庭園で見た王子の寂しげな表情を思い出しながら、心の底から、良かった、と、思っていた。ひそかに、笑みを深めていた。 「グレン、ちょっと一緒に来てくれ」 「はいはい、すぐに、リシェルノア様」  互いの呼び方も、すこし変わった。 「書庫まで行く」 「畏まりました。このグレン、いつでもどこでも殿下にお供し、殿下をお護りいたしますとも」  グレンは軽口を飛ばしながら、リシェルノアに従って部屋を出る。いつものごとく斜め後ろをついて歩くグレンを、リシェルノアは軽く振り向いた。 「嘘をつけ。さすがのおまえも、夜は私の傍にいないじゃないか」  ちいさく笑いながら、そんな軽口が返ってくる。グレンは、くすん、と、肩をすくめた。 「夜もお傍にとおっしゃるなら、俺に夜伽でも命じてみてはどうです、殿下?」 「なっ、よとっ……っ、お、おまえは、なにを……っ!?」 「はは、冗談です」 「と、当然だ。――……からかうな」  うつむいて口を曲げてみせたりする主を、最近では、かわいいな、と、密かにそう思う瞬間がある。  リシェルノアとの距離は確実に縮まっていた。その実感は、グレンの胸をあたたかく、否、むしろほんのりと熱くさせていた。 *  やがて季節は巡り、晩夏のある夜、王城では盛大な舞踏会が催されていた。  大広間は豪華なシャンデリアの光に照らされている。楽団の奏でる優雅な音楽が絶え間なく流れ、人々はグラスを傾けて語り、また、華やかに踊っていた。きらびやかな衣装、アクセサリー。散りばめられたビジューや宝石がきらきらと輝いている。  グレンは大広間の片隅にいた。もちろん、そこに主人のリシェルノアがいるからだ。  リシェルノアはあまり華やかな場を好まないらしく、積極的に動き回ることもない。彼に付き従う護衛官としては、楽ではあった。  その点、社交的な第二王子付きなら、状況はまるで違ったのかもしれない。グレンはそんなことを考えつつ、広間の中央の明るい場所で、いつもどおりの人懐っこい笑顔を振りまいているアシュレイ王子と、その側近ルーカスのほうへとちらりと視線をやったりした。  それから、自分の隣で、賑やかな舞踏会場を眺めつつ時折グラスを傾けているばかりのリシェルノアを見た。 「誰かと踊ってきてもいいんですよ、殿下。何してたって、俺はちゃんとあんたのことだけ見てるから」 「え?」 「殿下の護衛騎士ですからね。信頼してるでしょ、俺のこと?」 「ああ、うん、もちろん……でもあまり、こういう場は得意ではなくて」  リシェルノアはちいさく苦笑してみせた。  聞けば、これまでのリシェルノアは、貴族の屋敷で行われる夜会などに招かれることもなかったらしい。出るのは王家主催の、公式行事としての祝賀会や舞踏会のみ。そのうえ、そうした場に出席しても、ほとんど誰とも会話をせず、それこそ壁の花になっていることが多かったようだ。 「つかれた。早く帰りたい」  そっと溜め息をつくリシェルノアに、はは、と、グレンは軽く笑った。いろいろな表情を、ほんとうに、自然とさらしてくれるようになったな、と、思う。  ひとたび鉄面皮が外れてしまうと、リシェルノアは意外と感情豊かだった。表現の仕方は派手ではない。目に、頬に、くちびるに。ほんのちいさな感情をのぞかせる。いつもリシェルノアの隣に立つグレンは、いままでずっと浮かび上がる前に抑え込まれてしまっていた、そうした彼の感情の機微に、いちばん近いところで、一番最初に、触れさせてもらっているのだった。  だが、今宵は、グレンはリシェルノアを独り占めはできないようだ。  若い伯爵がひとり、ゆったりとした足取りでこちらへと近づいてくると、リシェルノアの目の前で立ち止まった。そして、恭しく一礼してきた。 「リシェルノア殿下、ご機嫌麗しゅう」 「ああ、グラナダ伯爵。あなたも楽しまれているだろうか」  リシェルノアは軽く頷き、穏やかに微笑んだ。 「わたくしをご存知で? ご挨拶させていただくのは、今宵が初めてだと思いますが」 「ああ、その……あなたのもとから上がってくる資料が、いつも、とてもよく出来ているものだから。それで印象に残っていたんだ。すまない、不躾に」 「いいえ、不躾だなどと、とんでもない! 光栄です」  若くして爵位を継いだらしいグラナダ伯爵は、リシェルノアの言葉に嬉しそうにしながら、その後は、自領の経営の話などを続ける。リシェルノアは時に相槌を打ちつつ、丁寧な態度で相手の話を聞いていた。興を引かれると、ひとこと、ふたこと、短く言葉を挟むこともあった。  やがて、その様子を見ていた他の貴族たちも、次々と挨拶にやってくる。 「殿下、お噂はかねがね」 「ぜひ今度ゆっくりお話を」 「我が家で催す夜会にも、機会があればご出席いただければ」  リシェルノアは戸惑いつつも、その一つ一つに、控えめながらも丁寧な応対をしていた。  グレンは、リシェルノアの傍らに影のように控えつつ、そんな光景を見ていた。 リシェルノアが、人々に受け入れられていく。以前とは違って、たくさんの人に取り囲まれている。それはもちろん嬉しい。  彼が抑え込むことなく誰かに微笑みかけられるようになったのだって、喜ばしいことだと思う。  それはグレンの本音だ。けれども、同時に、なぜか胸が締め付けられるような気持ちにもなっていた。自分以外のたくさんの人々がリシェルノアの魅力に気づいていくことが、なぜかなんとなくさびしいような、残念なような、そんな複雑な気分だった。  王子にとっては良いことでしかないのに、と、グレンが自分の中に生じている歪(いびつな)な感情に自嘲を浮かべたときだ。 「――殿下」  やわらかく澄んだ声がリシェルノアを呼んだ。  繊細なレースに彩られた、薄紅色の美しいドレスを纏ったうら若き令嬢が、リシェルノアの前に立っている。侯爵家の末娘のエリアナだった。  少女ははにかむような表情でリシェルノアを見詰めている。 「あの、殿下……もしよろしければ、一曲、わたくしのお相手をしてはいただけませんか?」  エリアナは頬を染めつつ、躊躇いがちに口にした。 「いや、私は……」  リシェルノアは一瞬、戸惑ったような表情を見せると、まるで助けを求めるようにグレンを見た。グレンは苦笑する。 「できるでしょ、ダンス。ご令嬢が勇気を奮ってお誘いくださっているのですから、無碍になさってはいけませんよ、殿下。さあ、一曲、踊っていらしてください」  グレンは努めて明るく言った。 「お前は……」  リシェルノアは何かを言いかけ、そのまましばらくグレンを見つめていた。が、やがて諦めたようにすこしうつむくと、エリアナのほうへと視線を向ける。 「……私で良ければ、一曲、お付き合いください」  そう言って、少女に手を差し伸べた。  エリアナが嬉しそうに頬を紅潮させ、リシェルノアの手を取る。リシェルノアは優雅な仕草で彼女をエスコートし、ふたりは煌びやかなシャンデリアの下の、ダンスフロアへと向かっていった。  音楽が変わる。それに合わせ、二人は踊り始める。  リシェルノアの動きは洗練されていて美しかった。エリアナはうっとりとした表情でリシェルノアを見詰めつつ、その腕に身を任せている。 「なんてすてきなの」 「とてもお似合いね」  憧れるように、あるいは羨ましそうに、誰かが呟くのが聴こえた。  グレンは胸の奥に妙な感覚が湧き上がってくるのを感じた。  リシェルノアが妙齢の女性と踊っている。ただそれだけのことではないか。独身で、婚約者もいない王子なのだ。別に珍しいことではない。むしろ、当たり前の光景だ――……それなのになぜ、自分はこんなにも落ち着かない気分になっているのだろう。胸が痛いだなとど、出来れば見ていたくないだなどと、思ってしまっているのだろうか。  やがて曲が終わり、ふたりは互いに礼を交わす。その後まもなく、リシェルノアはグレンのもとに戻ってきた。 「お疲れさまです、殿下」  グレンは――先程、自分の中に生じた奇妙な思いを誤魔化し、推し隠しでもするかのように――強いて笑顔を作って言った。 「あんなに素晴らしいダンスを見せてしまって、きっとこれから、ご令嬢がたから引く手あまたですね」 「お前は……」  冗談を口にするグレンを、リシェルノアは軽く睨んだ。が、すぐに、はあ、と、大きな溜め息をつく。慣れないことをして、疲れてしまったようだった。 「すこし、お休みになられますか」  グレンが気遣うように声をかけると、うん、と、素直に頷く。 「外の空気を吸いたい」  人酔いもあるのか、リシェルノアがそう言うので、グレンは彼と共に、人気のない静かな庭へと向かった。

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