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6、失ったもの
グレンが目を開けた時、まず視界に入ったのは、見慣れない天井だった。一瞬ののちには、それが自分が寝かされている瀟洒な寝台の天蓋部分だと判断する。が、置かれている状況はうまく掴めなかった。
とりあえず身体を起こそうとすると、右腕に痺れに似た鈍い痛みが走った。
「っ」
グレンは眉根を寄せ、思わず低く呻きを漏らす。それでも無理に身体を持ち上げ、右腕を見ると、上半身裸の肩から二の腕にかけてには包帯が巻かれていた。
そういえば襲われたリシェルノアを庇って怪我をしたのだった、と、気を失う直前の記憶が甦る。あいつは無事だよな、と、焦燥めいた思いが胸を過ったそのとき、部屋の扉が静かに開いた。
グレンはそちらに眼差しを向ける。扉を開けた人物は、グレンが身を起こしているのを見ると、はっと息を呑んだ。
「――っ、グレン……!」
リシェルノアはグレンのいる寝台のほうに駆け寄ってきた。顔色は悪く、目の下には隈までできている。ずいぶんと心配をかけてしまったようだ、と、仕えるべき主人の憔悴気味の様子を目に、グレンの胸はすこし痛んだ。
「殿下……御無事で、よかった」
最初に口にしたのがそんな言葉だったのは、もちろん本心から相手の身を案じていた部分もあったが、どこかで主人に心配をかけてしまった気まずさを誤魔化すためだったかもしれない。グレンが、へら、と、笑うと、リシェルノアは目を怒らせた。
「馬鹿ものが。それは私のセリフだ、グレン。――……良かった……本当に」
王子はグレンの左手を取ると、大切そうに両手で包み込む。それから、こちらの手に、そっと頬を寄せた。
相手の長い睫が、重たそうに濡れている。グレンははっと息を呑んだ。
「えっと、あの……リシェルノア様、俺……」
出逢った時ははあんなにも傲慢で無愛想に見えていた人が、いま、グレンの前で眸を涙に濡らしている。その事実を前に、なぜか、どうしていいかわからなくなってしまっていた。
「なんか心配させてしまったみたいで、すみません……俺は大丈夫ですから」
言いながら、グレンは黙って肩をふるわせているリシェルノアを慰めようと、右手を伸ばそうとする。が、先程と同じく、動かそうとした途端に、右の手に鈍い痺れが奔った。右腕全体が、まるで自分のものではないかのように、うまく動いてくれない。
グレンは眉をひそめた。再度力を込めてみるが、結果は同じだ。肘から先を思うように動かすことができなかった。指も、わずかにぎこちなく動くばかりだ。
グレンの顔に困惑が浮かんだのに、リシェルノアも気づいたようだ。
「グレン」
そっと名を呼ばれ、グレンはリシェルノアを見た。王子は眉を寄せ、蒼灰色の眸に痛ましげな色を揺らがせている。
「おまえの腕は……もう、もとのとおりには、動かないのだそうだ」
唇をわななかせたリシェルノアは、意を決したように、ゆっくりとそう告げた。そして、グレンの右腕を静かにさすった。
「すまない、グレン……私のために……矢か、短剣か……私を庇った傷のせいで、お前の腕は……」
グレンの右腕の傷は深く、また、運悪く神経を傷つけていたらしい。治療師が全力を尽くしてくれたが、それでも、どうにもならなかった。
「訓練すれば、いまより多少は動くようになるだろう、と……だが、それでも、完全に前のように動くようになることはない、と……」
リシェルノアは苦しそうに言葉を紡いだ。
「そう、ですか」
グレンは静かに答えた。そして、ちら、と、片頬に皮肉っぽい、あるいは自嘲めいた笑みを浮かべた。
右腕が使えない。利き手を失うこと、それは騎士としては致命的だった。この先は、もう、リシェルノアを護るために剣を振るうことが、満足にはできないのだ。
グレンの胸に冷たいものが広がっていった。
お役御免か、と、ちいさく笑う。
リシェルノアの傍に長く仕える者はなく、だから、もしかしたらグレンにも遠からず配置換えの命令が下ったのかもしれない。だが、こうなってしまっては、命令されるよりも早く自ら職を辞すことになりそうだった。
もう、リシェルノアの傍にいられなくなる。そう思うと、胸が詰まる。
きゅう、と、切なく眉根を寄せて、グレンは主たる王子を見た。
リシェルノアの護衛騎士になったばかりのころは、いますぐにでも配置換えになればいいと思っていた。だが、いまとなっては、彼の傍に仕えられなくなるのがこんなにもつらい。
ずっと傍で、自分こそが彼を護ってやりたかった。
けれども、騎士として役に立てなくなってしまった自分には、これからもうリシェルノアの傍にいる理由もなければ、資格もないのだ。
そうである以上、身を引かねばならない。
この人の不器用な笑顔、やさしさ、気高さ。それを護る役目を、誰かに譲らなければならない。
不本意極まりなかった。心残りで仕方がなかった。
それでも、グレンは静かに心を決めた。
「殿下……俺……」
「――グレン」
だが、辞意を告げようとしたグレンの言葉を、リシェルノアは遮った。
「おまえに、聞いてほしいことがある……あの夜のことであり、これからのことだ」
そこで言葉を切り、ふう、と、ひとつ深く息をつくと、リシェルノアは頬を濡らしていた涙を拭う。そして、蒼灰色の眸を真っ直ぐにグレンに向けた。
グレンは相手の見せた強い表情に気圧されたように言葉を呑みこんだ。
話を終えた最後に、リシェルノアのほうからグレンを解任するというのなら、それもいい、と、そう思う。受けとめよう、と、思う。そんな密やかな覚悟とともに、グレンはいまひと時だけはまだ己の主人である人の言葉に耳を傾けた。
「あの夜、私を襲い、お前を傷つけた男は、アシュレイの側近ルーカスに雇われたものだった」
「アシュレイ殿下の……?」
グレンが確かめるように口にすると、リシェルノアは重々しい表情で頷いた。
リシェルノアの告げた名は、グレンにとって、まったくの予想外でもなかった。リシェルノアの命を狙うとすれば、もちろん、そのあたりが第一候補となってくるだろう。側妃腹とはいえ、リシェルノアは第一王子だ。皇位継承に関わる者、あるいはその周囲にいる者たちにとっては、目障りな存在であってもおかしくなかった。
王太子の側近か、と、グレンは先日行き合った青年を思い起こしながら、ちいさく息を吐いた。
「おまえのおかげで、最近、私のまわりにも人が集まるようになってきていただろう。ルーカスはそのことを危ぶんだらしい。今後、私が派閥なりを作って、万が一にもアシュレイの地位を脅かすことになってはと、恐れたのだそうだ」
リシェルノアの声は淡々としていた。
「なるほど……それで、そうなる前に、殿下を亡き者にと考えたわけですか……」
「ああ。だが、おまえが庇ってくれたおかげで、私は無事だった」
リシェルノアは、ほう、と、息を吐いた。
「そりゃあ、それが俺の仕事ですからね。殿下をお護りできて良かったです」
グレンは敢えて軽口めかして言い、くすん、と、肩をすくめた。
だが、浮かべた笑顔とはうらはらに、心は重い。
ここまで事が露見してしまっている以上、ルーカスは、アシュレイは、どう処分されるのだろうか。王太子とその側近とはいえ、王族を暗殺しようと企んだ罪をまったくなかったことにするのは難しい。あるいは、王太子アシュレイの名と立場に傷をつけないことを優先するなら、ルーカスひとりが罪をかぶる形で処刑といったところかもしれない。
リシェルノアは己の複雑な立ち位置をよくよく理解している。だからこそ、弁えた振る舞いを続けてきた。血で血を洗う事態など望まないがゆえだろうに、と、そう思うと、切ない。自分に関わることで血が流れれば、きっとリシェルノアは傷つくだろう。
「――アシュレイが……」
グレンの物思いを断ち切るように、ふと、リシェルノアが言葉を継いだ。
「私が真相を知ったのは、弟が自ら、私のところへそれを告げに来たからなんだ。ルーカスの企みには、アシュレイ自身は関与していなかったらしい。が、それでも、側近のやったことである以上、責任は免れない、と……」
「そうですか」
「……私は……弟とルーカスを、許したんだ。なあ、グレン……おまえは、怒るか?」
窺うように問い掛けられ、グレンは焦げ茶色の眸を瞬いた。
「は? なんで、俺? 狙われたのはあんたでしょ。そのあんたが許すってんなら、俺は……」
「でも……実際、傷ついたのは、おまえじゃないか……!」
「ああ……」
珍しく声を荒らげるように言われて、グレンは嘆息するように息をもらした。それから、左手でがしがしと頭を掻く。
「俺はあんたの護衛騎士で、身命を擲 ってあんたを護るのが仕事なんだ。最初に誓ったろ? 俺の身も心もあんたのものなの。あんたが良いってんなら、それこそ、俺が怒る筋合いなんかありませんよ、殿下」
グレンがそっと笑うと、リシェルノアはほっとしたように肩から力を抜いた。
「すまない、グレン」
「いいえ」
「おまえを……おまえが傷つけられたことを、蔑 ろにしたわけじゃないんだ。でも」
「わかってますって、殿下。大丈夫。怒ったりしません」
「……うん」
ちいさく頷いたリシェルノアは、寝台の縁に腰掛けると、グレンに身を寄せてきた。その甘えるような仕草に戸惑い、躊躇ったすえ、それでもグレンはリシェルノアの肩を左手で静かに抱いてみた。
「――……ただ、な」
ますますグレンに身を添わせたリシェルノアが言う。
「事を荒立てない代わりに、ひとつ、私も条件を出したんだ」
「条件、ですか……?」
「そう。国にとって火種になるというのなら、私は王子の身分を捨ててもいい、と。だが、皇位継承権を放棄するかわりに、公爵位と国王領の一部を領地として賜ることができるよう計らってくれと要求した」
「それは……」
グレンは息を呑んだ。
リシェルノアが皇位継承権を正式に放棄するというのは、王太子側としても憂慮がひとつ減るわけで、願ってもない申し出だろう。向こうの悪事を表沙汰にしないかわりがそれでは、あまりにも、相手にとっての利が大き過ぎるのではないだろうか。
グレンは刹那そう思ったが、すぐに、ふぅ、と、苦笑して息をつく。常に弁えていたリシェルノアらしいといえば、そうなのかもしれない。あるいは、そうしてはじめて、リシェルノアはこれから自由に、楽に、振る舞えるようになるのかもしれない。
「最初からそうしておけば……おまえを危険な目に遭わせることもなかった。すまない」
「だから、俺のは仕事なんだから、気にしないでくださいって。それに、あんたがもうちょっと早くその選択してたら、俺があんたの護衛騎士に任じられることもなくて、俺たちは、出逢えてなかったかもしれない。――それは……俺は、いやだな」
そう言うと、リシェルノアがはっとした顔を見せた。
それから、ふ、と、笑い、グレンを見上げる。
「そう、だな……たしかに」
「でしょ?」
グレンも笑った。
「とにかく、だ。私の申し出を断る理由などなかったとみえて、さっそくさっき、父王から正式に宣言があったよ。だから、グレン。実は私は、もう王子ではなくなったんだ。公爵になった。王族にゆかりのある一貴族に、な。今後は基本的には領地のほうで暮らそうと思っている」
「そうですか」
窮屈な第一王子という立場から解放されたこの人が、この先、肩の力を抜いて、幸せに生きてくれればいい。騎士としての役を果たせなくなった自分は、もう彼の傍にはいられないけれど、遠くから彼の幸せを願おう。グレンが切なさ半分、そんなことを考えた時だった。
「――グレン」
リシェルノアはグレンの背に腕をまわした。
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