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【短編】オメガの青年が、初めて抑制剤を飲まなかった夜

もうすぐ夏至を迎える、日の長い六月。 窓の外の風景が暗くなり始めた新幹線の中で、東京駅で購入したビジネス誌を開く。 お堅い雑誌だから、隣の席の人に見られたって少しも恥ずかしくないはずなのに、ページを捲るたびに僕の顔は赤く染まってしまい、結局読まずにリュックへ仕舞う。 今日は、花材の展示会があって、店を休みにし、東京の湾岸エリアまで出かけた。 めずらしいドライフラワーを扱っているブースには、サンプルを送ってもらうために、「ドライフラワー・スワッグ専門店『グニー』店主・正田ケイ」と記載した名刺を置いてきた。 けれど、そのうちいくつかの業者には、相手にしてもらえないだろう。 ネットで検索すれば、避暑地・清岳沢の外れで営む僕の店が、とても小さな店舗だと一目で分かってしまうから。 しかし、二十四歳の僕にとって、これが今の精一杯。 大好きな土地で毎月やりくりしながら、店舗家賃を払えているだけでも、夢への一歩は踏み出せている。 隣の席の人がウトウトと眠り始めたので、僕は、再びビジネス誌をリュックから取り出した。 そして、雑誌の巻頭に載っている初恋の人・魚住カズアキさんの記事を開く。 カズアキさんは三十二歳にして、都心にいくつものレストランを経営している。 その手腕が評価されての特集記事だったのだが、長文インタビュー以外にも、撮り下ろしたと思われるグラビアが載っていた。 撮影のクレジットには、著名な女性カメラマンの名前がある。 彼女の希望だったのか、なぜかタンクトップに短パン姿で、ジムマシーンでトレーニングしている写真も載っていた。 そのスタイルの良さは一流モデルのようだ。 もちろん、インタビュー記事も熟読する。 見出しには『大胆な判断力を持つ、憧れるに相応しいアルファの実業家』と書かれていた。 ――そりゃ憧れちゃうよ。 僕なんて八年も前から、恋焦がれ続けているもん。 車内アナウンスが流れ、ビジネス誌をリュックに仕舞い、清岳沢駅で新幹線を降りる。 夜八時、暗くなった駅周辺には、観光客は出歩いておらず閑散としていた。 店舗兼自宅まで徒歩で帰ろうと、歩き始めたときだ。 「おっ、ケイ!どっか行ってきたのか?」 「あっ、キイチ。うん。東京の展示会を見てきたんだ」 「あぁ、そういえばそんなこと言ってたな。今日だったんだ。俺、これから『たぬ吉』行くんだけど、一緒にどう?」 たぬ吉とは僕らがよく行く駅前の居酒屋だ。 「いいね!お腹空いてたんだよ」 僕はあっさりとキイチの誘いに乗り、たぬ吉へと吸い込まれていった。 これが、運命の分かれ目だとは、少しも思わずに……。 — カフェのパティシエをしているキイチは朝が早いので、飲み過ぎたりしないし、僕もベロベロになるまで酔っぱらうことはない。 けれど、僕らは二人とも一人暮らしだから、寂しさを紛らわすように、ダラダラ食べダラダラ飲み続けてしまうのが常だ。 今晩も三時間も『たぬ吉』で過ごしてしまった。 「じゃあ、またな」 「うん。おやすみー」 心地よい夜風に吹かれながら、土産物屋が並ぶ寝静まった商店街を歩く。 途中でキイチと別れ、街の外れにある店舗兼自宅の「グニー」まで歩いて帰った。 僕は気分が良く、足取りも軽い。 展示会では色々な刺激をもらえたし、地元と呼んでもいい清岳沢へ帰ってくれば、兄のように慕っているキイチがいて、お腹も満たされて……。 店舗の鍵を開け、スワッグとドライフラワーが壁にも、床にも、天井にも飾られた店内へ入った。 そして、店とプライベートゾーンを跨ぐように置かれたソファへ、ダイブをする。 ちょっと休むだけのつもりだった僕は、結局そのまま着替えもせず、ウトウトと眠り込んでしまった。 トイレに行きたくて目が覚めたとき、時計を見上げると、まだ夜中の二時だった。 僕は、歯も磨かずに眠ってしまったことを後悔し、水を一杯飲んでから改めて寝支度を始める。 ――実はそのとき、気が付いていたんだ。 夜の抑制剤を飲み忘れていたことに。 第二次性徴後の血液検査でオメガだと診断されて以来、僕は一日二回・朝と夜に、抑制剤を飲み続けている。 効果が確かな抑制剤が世界中に行き渡っている昨今、ひと昔前のように、オメガだからといって困ることも、差別されることも、恥ずかしい思いをすることもない。 だから僕にとって抑制剤はただの習慣で「飲まなければ大変なことになる!」という危機感は持ち合わせていなかった。 それでも生真面目な僕は、一回飲めば効き目が十二時間続くという抑制剤を、今まで一度も、飲み忘れたことがないのだけれど。 「ま、いっか。今夜くらい飲まなくても。もう寝るだけだし」 僕はシャワーを浴び、歯を磨いてさっぱりし、再びベッド代わりのソファへ横になる。 そして、枕元に置いているランプをつけ、リュックからビジネス誌を取り出した。 カズアキさんが載っている巻頭部分を、一ページ一ページ、捲っていく。 カメラ目線で、微かに口角を上げている写真が特に気に入って、思わず指で紙の上を撫でてしまった。 「カズアキさん。どうかまた、お会いできる日が来ますように……」 祈るような気持ちでそう呟き、雑誌を閉じて棚へ置く。 そうして、再び眠ろうと目を閉じたけれど、すっかり頭が冴えてしまっていて、なかなか寝付けなかった。 ――こんなとき、僕はいつも股間に手を伸ばしてしまう。 出すものを出してスッキリすると、すぐに眠気がやってくるから。 狭いソファの上で、僕は短パンと下着をずり下ろす。 露わになった自分自身を右手で握り、ゆっくりとしごけば、柔らかいそれは芯を持ち始め頭をもたげてくる。 少し呼吸を乱し「ふっ、ふっ」と小さく声を上げ、その行為を続けると、どんどんと硬く形を変えていくが、正直それほど気持ち良さは感じない。 毎回、僕にとってこれは、ただ吐精するための作業でしかなかった。 ただ今日はなぜか、お尻の辺りが熱く、ムズムズするように感じる。 僕は勃ち上がったものを左手に持ち替え、右手をお尻へと伸ばしてみた。 後孔に指が触れると、どうしてかそこがしっとりと潤っている。 僕は今、開けてはいけないドアを開けそうになっている……。 心拍数は知らぬ間に跳ね上がっていたが、引き返すなら今だという自覚もあった。 それでも、昂ってしまった気持ちはもう収まらない。 僕は短パンと下着を脱ぎ捨て、おそるおそる中指を、後孔へと差し込んだ。 「んぁっ」 自分から出たとは思えない高い声が漏れてしまう。 だっていつもは硬く閉じている孔が、柔らかく綻んで、僕の指を飲み込んでいったから。 中は熱く、熟れていた。 そして、指を動かすと、ヌルヌルとした粘液が溢れ出してくる。 僕はもう夢中になり、指を奥へ奥へと押し込んでいった。 中の壁を触ると、とんでもない気持ち良さが全身を駆け巡り、つま先がピンと伸びてしまう。 前を触るときに得られる快楽とは、比べ物にもならなかった。 「もっと、もっと」と欲望が膨らみ、挿入する指の数を増やす。 「あっ、あっ、いい。あっ、き、気持ち、いい」 二本の指を出し挿れし、ヌルヌルとした粘液を溢れさせていると、中がビクビクと収縮し始めた。 「あっ、な、なに、これ?ダ、ダメっ、あっ」 怖いくらいの快感が波のようにザブンと、僕に襲い掛かる。 「カ、カズアキ、さぁん……」 思わず初恋の人の名前を呼んだあと、頭の中が真っ白になり、二本の指を強く喰い締めながら吐精した。 「はぁ、はぁ……」 僕はなんとかティッシュへ手を伸ばし、おざなりに股間を拭いたことまでは覚えているけれど、意識を失うように眠ってしまった。 — 六月は陽が上るのも早い。 鳥が囀る声がそこらじゅうから聞こえ、窓から陽射しが差し込み、店内が明るく照らされている。 僕は目を覚ましてギョッとした。 ソファの上で、下半身丸出しで、ティッシュを片手に握りしめたまま、眠っていたようだ……。 そんな自分が酷く恥ずかしく、僕は慌てて脱ぎ散らしていた下着と短パンを身に纏った。 朝のコーヒーを淹れながら、昨日のアレはなんだったのかと考えるが、思い当たることはない。 ただ信じられないくらい気持ち良かったことだけは、確かだ。 トーストにバターをたっぷりと塗り、昨日は飲むのをサボった抑制剤も、忘れずに飲む。 そして、毎朝のルーティンである近くの別荘の庭の手入れにいき、十時には店を開店させる。 いつもと同じ一日が始まったが、ときどき昨晩のことを思い出しボーッとしてしまう。 とはいえ平日はあまり客が来ないので、支障はなかった。 夜の六時に店を閉め、事務仕事を少ししてから、夕飯にアスパラとベーコンのパスタを作る。 もちろん、食後には抑制剤も忘れずに飲んだ。 僕はソワソワと夜が更けていくのを待つ。 シャワーを浴び、またカズアキさんが載っているビジネス誌を眺め、スマホでどうでもいい動画を見て時間を潰す。 こんな日に限って、どうしてか時間が経つのは遅く、なかなか就寝時間にならない。 結局、我慢できず、僕はいつも寝る時刻より一時間も早く消灯し、ソファに寝転んだ。 ――端的に言ってしまえば、今夜の僕の後孔はきつく閉じたままで、もちろん濡れてもおらず、指一本も入らなかった……。 もしかして、昨日の行為は夢だったのだろうか。 僕は本当にがっかりし、どうしたらあの気持ち良さをもう一度味わえるだろうと考えながら、ふて寝した。 — 展示会があった日から、一週間。 僕は諦めきれず、毎夜、自慰をしては後孔を触ってみるが、あの現象は起きないままだ。 では、あの日の夜をなぞってみるのはどうだろうと、思いつく。 それで無理なら、あれは夢だったということにして、もうキッパリとあきらめよう。 東京へ行って新幹線で戻ってくるという部分は、費用的に難しく、再現できない。 でも、夜八時にたぬ吉へ行くことは、試せるだろう。 僕はキイチにメッセージを送り、飲みに行こうと誘った。 『じゃ、夜八時にたぬ吉でね』 『了解!』 店を片付け、明日の朝のゴミ回収に備え、出掛ける前にゴミ袋をまとめる。 帰りには肌寒いかもしれないと、ウインドブレーカーもリュックへ仕舞う。 そして、当たり前のこととして、夜の分の抑制剤を飲むためにピルケースへ手をかけた。 ――そのとき、ようやく思い出したんだ。 そういえばあの夜、抑制剤を飲むのをサボったということに……。 僕は、錠剤を取り出さず、ピルケースを閉じて棚へ仕舞った。 「ケイ、何食べたい?」 もう因果関係は判明してしまった気がするけれど、それでも確率を上げるために、あの夜をなぞろうと、できるだけ同じ食べ物を注文する。 キイチはそんなことに気が付かず、「いいよ、それ美味かったもんな」と言ってくれ、「すいません!」と手を上げアルバイト店員を呼んだ。 「ごめん、ちょっとトイレ」 しばらく飲み食いしたあと、僕は席を立った。 トイレの個室で、そっと下着を脱ぐ。 濡れてはいない……。 抑制剤を飲まないからといって、常にそういう状態になるわけではないと判明し、安心して席へ戻る。 もちろん頭の中に自慰のことはあったけれど、この一週間そればかり考えていたわけじゃない。 店の売上や、夏に向けての新しいスワッグのデザインや、仕入れについても色々考えていた。 だから二歳年上のキイチと、将来の夢について熱く語る。 「俺の夢はさ、大きなパーティのデザートとか担当することかな」 「へー。ちょっと意外。ホテルとかで働きたいの?」 「そういうわけじゃないんだけど。大勢がさ、俺の作ったケーキを同時に口にして、隣の席の人と『美味しいね』『私はこっちのケーキが好きー』とかその場で盛り上がってくれるのを、体験してみたいんだ」 「それいいね。すごくいい」 「そのときはさ、会場のデザインはケイのスワッグで彩ってよ」 「パーティでドライフラワーってあんまりイメージないけどね。でも、もしも『会場全部をスワッグで飾ってください』って機会に恵まれたら最高だろうな」 結局僕らはこの前と同じく、三時間もたぬ吉でお喋りし、同じように帰路についた。 — シャワーも浴び、歯を磨き、あくまで前回の再現だと、カズアキさんが載ったビジネス誌も捲って眺める。 もう、開かなくても思い出せるくらい、何度も読んだくせに……。 そして照明を落とし、ソファへと寝転んだ。 まず、後孔に触れてみるけれど、今のところ変化はない。 それでも、今夜は成功するはずだと胸はドキドキと高鳴っている。 下着と短パンを脱ぎ捨て、まだ柔らかいものを握り、ゆっくりとしごいていく。 徐々に硬くなっていくとともに、お尻がムズムズとしてきた。 これだ、これ! 僕が待っていたのはこの感覚だ。 すっかり股間が勃ち上がってから、満を持してお尻へと手を伸ばす。 もう、ヌルヌルした液体で、ぐっしょりと濡れていた……。 後孔に中指を入れれば、中は熱く熟れていた。 やっぱり、前を触るより、ずっとずっと気持ちがよく、指を奥へ奥へと入れたくなる。 しかし僕は、「んぁっ」と嬌声を溢しながらも、急に怖さを感じた。 この自慰を知ってしまった以上、僕はまた「したい」と思ってしまうだろう。 そしたら再び抑制剤を意図的に飲まず、夜を迎えようとするはずだ。 今はまだ、なんとも言えない罪悪感がある。 でも、どんどんと慣れていき、週に何度もするようになって、これが日常になってしまっても大丈夫だろうか……。 そんなことが頭をよぎっても、止めることはできない。 「もっと、もっと」と指を増やし、あの大きな大きな快楽を得たいと、行為を続けた。 ソファの周りには、今日サンプルとして届いたドライフラワーが置かれていて、振動でカサカサと揺れている。 「あぁぁっ、き、気持ち、いい。もう、もう、ダ、ダメっ」 快楽が全身を巡り、後孔は指を喰い締め、僕は達する。 指の先までも痺れるような気持ち良さの中を揺蕩いながら、これは大変なことを覚えてしまったと少しだけ後悔した。 (完) — お読みくださりありがとうございました。 ここから三ヶ月後。カズアキとケイは再会をします。 そんな二人のお話『ドライフラワーに恋の匂いを宿すオメガと、彼だけを感じるアルファ』は「Kindle 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