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第29話 今度は俺が
最初の身辺警護を終えた翌日、真壁修司はいつも通りアトラボへ入っていた。澄川は別の収録に入っているが、今日は移動の少ない局内案件で、身辺警護の配置はない。
勤務場所が戻れば、見るものも戻る。
搬入予定、来館者、地下導線、館内の人の流れ。昨日のように知らない建物を先回りして確認する必要はなく、足の運びも視線の置き方も、身体が覚えている範囲へ戻っていた。
それでも、わずかな疲れは残っていた。
一日中立ち位置を変え、慣れない動線を歩き続けたせいだろう。仕事に支障が出るほどではなく、真壁自身も気にするほどではないと思っていた。
夕方、私用の端末が震える。
《今日終わるの何時です?》
勤務予定を確認する。
《もう少しです》
返事はすぐに来た。
《終わったら来れます?》
続けて送られてきたのは、もう何度も行っている澄川の住所だった。
《構いません》
《じゃあ待ってます》
*
勤務を終え、地下駐車場から車を出した。
道路は帰宅時間と重なって少し混んでいたが、急ぐ理由はない。澄川のマンションへ着く頃には、外はすっかり暗くなっていた。
扉を開けた澄川は、まだ仕事帰りらしい服のままだった。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
真壁が靴を脱ぐ間も、澄川は先へ行かなかった。
視線が一度、肩へ止まる。
「何ですか?」
「別に」
そう答えてリビングへ向かいながら、澄川は一度だけ振り返った。
テーブルには簡単な夕食が二人分用意されている。
向かい合って食べながら、澄川は今日あった撮影の話をした。新しい広告の確認、予定より長引いた収録、次に出す曲の話。
真壁はときどき相槌を返しながら聞いた。
昨日の警護については、どちらからもほとんど触れなかった。
食事を終え、真壁が食器へ手を伸ばすより先に澄川が立つ。
「今日は俺がやります」
「手伝います」
「真壁さんは座っててください」
「二人分ありますよ?」
「真壁さん、昨日ずっと仕事してたでしょう」
「あなたもです」
「俺は撮られてただけなので」
「それも仕事です」
澄川は皿を重ねながら真壁を見る。
「じゃあ今日は、俺の方が先に終わりました」
それで話を切り、そのままキッチンへ運んでいった。
真壁はリビングへ移り、ソファへ身体を預ける。
座ったことで、肩の奥に残っていた重さが少しはっきりした。
気づいていなかったわけではない。
ただ、自分で問題にするほどではないと思っていただけだった。
水音が止まり、澄川が戻ってくる。
真壁の後ろを通りかけ、そのまま足を止めた。
「真壁さん」
「はい」
「肩、固くないです?」
真壁は一度肩を動かした。
「多少は」
「やっぱり」
澄川が正面へ回る。
「ちょっとこっち来てください」
「どこへです?」
「椅子」
真壁はダイニングの方を見る。
「なぜです?」
「真壁さんの状態確認します」
真壁は澄川を見る。
「できるんですか?」
「分かりません」
「分からないんですか?」
「やったことないので」
あまりに普通に返され、真壁は小さく息を漏らした。
澄川が笑う。
「でも真壁さん、俺のはずっと見てるでしょ?」
「仕事でもありますから」
「じゃあ今は俺が見ます」
そう言って、ダイニングの椅子を引いた。
「ほら」
「本当にやるんですか?」
「嫌です?」
「嫌ではありません」
「じゃあ座ってください」
どこかで聞いたようなやり取りだった。
真壁は上着を脱ぎ、言われた通り椅子へ座る。
澄川はその後ろへ回り、両手を肩へ置いた。
最初の一押しは弱く、二度目は少し強かった。
「真壁さん、固いです?」
「私に聞くんですか」
澄川の手が止まる。
「俺、触っても分かんないです」
「では状態確認になっていません」
「今覚えてるところです」
真壁は目を閉じた。
その言葉にも覚えがある。
澄川は気づいていないらしく、肩から首の付け根へ手を移す。今度はさらに力が入った。
「澄川さん」
「はい」
「強いです」
「痛いです?」
「少し」
手がすぐに離れた。
「ごめんなさい」
「大丈夫ですよ」
次に触れた時には、力がずっと弱くなっていた。
不慣れな手だった。
指の位置も、力の入れ方も安定しない。どこへ触れればいいのか探しながら動いているのが分かる。
それでも真壁は身体の力を抜いた。
上手いからではない。
澄川が自分を見ようとしている。
そのことの方が大きかった。
「昨日、疲れました?」
後ろから声がする。
「普段と大きくは変わりません」
「でも今、固いんですよね?」
「多少は」
澄川の指が肩の上で少し止まる。
「じゃあ、昨日の残ってるってことでいいです?」
真壁は目を開けた。
「触って分かるんですか?」
「分かりません」
「また分からないんですか」
「でも、真壁さんがいつも俺にやってるみたいに見てます」
「何をです?」
「今の真壁さん」
答えは簡単だった。
澄川の手はまた動き始める。
上手くはない。
それでも、さっきより慎重だった。
「真壁さん、俺のことばっか見てるから、自分のこと気づくの遅いんじゃないですか?」
「警護ですから」
「今日は警護じゃないでしょう?」
「はい」
「じゃあ、今は俺が見ます」
また同じ言葉だった。
真壁は目を閉じ直す。
肩へ置かれた手の温度が、少しずつ馴染んでいく。
力の入れ方はまだ不安定なのに、指が離れるたび、次にどこへ触れるのかを待っている自分に気づいた。
技術で緩んでいるわけではない。
それでも澄川の手が離れると、肩に残った温度の方が気になる。
真壁は椅子の背へ身体を預けすぎないよう少しだけ姿勢を整え、ゆっくり息を吐いた。
「そこ、どうです?」
「悪くありません」
「さっきより?」
「いいです」
「じゃあ合ってる?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
澄川が笑いながら、今度は首の付け根へ触れる。
力は控えめだった。
先ほどより慎重で、その慎重さまで分かる。
真壁は目を閉じたまま、澄川の指が移るたびに身体の奥が少しずつ緩むのを感じていた。
触られること自体には慣れているはずだった。
仕事柄、身体を扱うことも、誰かの手が触れることも珍しくない。
けれど今は違う。
澄川がどこを見て、何を確かめようとしているのかまで分かる。
それが妙に意識へ残った。
「真壁さん」
「はい」
「眠いです?」
「そこまでは」
「目閉じてるから」
「閉じた方が楽です」
「じゃあそのままで」
澄川の声が後ろから近く落ちる。
肩へ置かれていた手が、少しずつ外側へ位置を変える。真壁の呼吸がわずかに深くなったところで、澄川の動きが止まった。
「今のよかった?」
「はい」
「気持ちいい?」
嬉しそうな声だった。
真壁は目を開けずに、わずかに口元を緩める。
「気持ちいいです」
「今、笑いました?」
「少し」
「なんで?」
「上達が早いので」
澄川の手が一瞬止まり、それから少し得意そうに動き直した。
「じゃあ、もっと覚えます」
澄川の手がまた肩へ戻ってくる。
真壁は目を閉じたまま、それを待った。
「どうです?」
真壁は一度肩を動かした。
「少し楽です」
「本当です?」
「はい」
「俺、上手い?」
真壁は肩の感覚を確かめる。
「まだ何とも言えません」
「厳しいな」
澄川が笑う。
真壁も椅子から立ち上がった。
完全に軽くなったわけではない。それでも来た時より余計な力は抜けていて、肩に残っているのは重さよりも澄川の手の温度だった。
澄川も一歩下がる。
「真壁さん」
「はい」
「俺、これ練習した方がいいです?」
「なぜです?」
「また疲れるでしょう」
真壁は澄川を見る。
冗談を言っている顔ではなかった。
「私のために?」
「はい」
迷いのない返事だった。
真壁は澄川の手を見る。
昨日は一日、澄川の周囲を見ていた。
今はその手が、自分へ向いている。
「では、力加減から覚えてください」
澄川が笑う。
「教えてくれるんです?」
「痛いのは困ります」
「そこ?」
「大事です」
まだ笑っている澄川の手を、真壁はもう一度見た。
不慣れなまま、自分の身体を知ろうとしていた手だった。
真壁は椅子をもう一度引き、腰を下ろす。
「もう一度やりますか」
澄川がこちらを見る。
「いいんです?」
「力加減からでしょう」
澄川の表情が少し緩む。
すぐに真壁の後ろへ回り、今度は先ほどより迷いなく肩へ手を置いた。
触れられた瞬間、真壁は目を閉じた。
今度は、どこを見られているのか分かっていた。
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