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第36話 守る距離

空港へ着いた頃には、まだ朝の光が低かった。 車寄せには出発客を降ろす車が途切れず入り、入口の向こうでは旅行客がカートを押して行き交っている。 澄川律は車を降りる前に、一度だけ窓の外を見た。 少し離れたところに真壁修司がいる。 昨夜まで自分の部屋でシャツを畳み、茎わかめをスーツケースの端へ収めていた男とは、もう立ち方が違っていた。 黒いジャケットに必要なものだけを持ち、入口から車寄せまでの流れを見ている。 担当者が先に降り、澄川もバッグを持って車外へ出た。 真壁はこちらへ寄ってこない。 自然に進行方向へ位置を取り、澄川より少しだけ前へ出る。 その距離を見ただけで分かった。 もう勤務が始まっていた。      * 空港内へ入ると、思っていたより早く視線が集まった。 最初に気づいたのは、通路の脇にいた若い女性だった。 澄川を見て一度立ち止まり、少し離れた場所ではスマートフォンが上がる。そこから名前を呼ぶ声が続いた。 澄川はそちらへ軽く頭を下げる。 足は止めない。 真壁も振り返らず、周囲の流れに合わせて位置だけを変えた。 前から来る旅行客、横を抜けるカート、少し後ろから近づく人。 真壁はその流れを見ながら、澄川が通れる場所を残していく。 一人の女性がスマートフォンを構えたまま、少しだけ通路へ出た。 真壁が一歩動く。 「通路を空けるようお願いします」 声は静かだった。 女性はすぐに足を止め、澄川もその横を通る。 見つけてもらえることは、今でも嬉しい。 名前を呼ばれることも、自分の音が誰かの中に残っていることも。 人が増え、警備が必要になったからといって、その気持ちまで変わったわけではない。 だから足は止めない。 真壁も、誰かを押し退けるためではなく、進める場所を残すために前へいる。 澄川はそのまま歩いた。      * 手続きを終え、保安検査へ向かう。 途中の大型モニターに広告が流れ、数秒だけ自分の顔が現れた。 桂木有が撮った写真だった。 黒を基調にした服で、少しだけ視線を外している。 以前なら、街の大きな画面へ自分が映ること自体が珍しかった。 今は空港にもいる。 澄川は歩きながら画面を見て、少しだけ笑った。 今回行く都市の中には、まだ自分の音を持っていったことのない場所もある。 そこへ行けば、また別の人に音が届く。 その先もあるかもしれない。 もっと遠くまで行きたい。 忙しくなるほど、その気持ちははっきりしていた。      * 保安検査を抜けた先で、担当者が予定を確認した。 このあとラウンジへ寄り、搭乗時刻になればそのままゲートへ向かう。 澄川は聞きながら頷く。 少し離れた位置に真壁がいた。 周囲には人がいるが、さっきまでより流れは落ち着いている。 一瞬だけ、二人の間から人が途切れた。 「真壁さん」 「はい」 返ってきた声は、昨夜とは違う。 仕事の声だった。 「ここからも勤務ですよね」 「はい」 「現地まで?」 「その予定です」 澄川が笑う。 「長いですね」 「そうですね」 真壁はまた周囲へ視線を戻した。 澄川も近づかない。 昨夜なら、同じ距離にいれば手を伸ばしていた。 玄関では自分からシャツを掴んだ。 今はしない。 真壁が仕事の顔で周囲を見ている。それだけで、澄川にも今の距離が分かった。      * 搭乗時刻が近づき、周囲の人が少しずつ動き始めた。 担当者が資料を閉じ、澄川もバッグを持ち直す。 ガラスの向こうには、これから乗る機体が見える。 その先には、まだ行ったことのない場所がある。 澄川は一度だけ真壁を見た。 「行きますね」 真壁もこちらを見る。 ほんの一瞬だった。 「はい」 澄川は前を向く。 少しして、真壁の声が届いた。 「行きましょう」 澄川は頷く。 「はい」 搭乗口へ向かって歩き出す。 真壁は自然に半歩前へ出た。 澄川もそのあとを進む。 同じ場所へ向かいながら、二人の間には半歩だけ距離があった。

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