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第40話 仕事では
帰国便の前夜は、予定より早くホテルへ戻ることができた。
勤務を終えた真壁が自室で荷物をまとめている頃、澄川も自分の部屋で開いたスーツケースを前にしていた。
入っている服は半分ほどで、ベッドの上にはまだ持ち帰るものが残っている。
一度手を止め、端末を取った。
《起きてます?》
返事はすぐに来た。
《起きています》
《少しだけいいです?》
数分もしないうちにノックが鳴る。
扉を開けると、真壁が立っていた。
「終わらないです」
澄川が床のスーツケースを指す。
「荷造りですか」
「はい」
真壁は中を見た。
「まだ時間はあります」
「そうなんですけど」
澄川はベッドの端へ座った。
本当に困っているのは荷造りだけではない。
明日の朝には空港へ向かい、日本へ戻る。帰れば、今度はそれぞれの仕事が待っている。
「帰ったら、しばらく国内です」
「そうですか」
「仕事は多いですけど」
「休めそうですか?」
「少しは」
真壁は床に散っている服を避け、椅子へ腰を下ろした。
澄川は端末を手に取り、今日届いた予定表を開く。
「あと、全国ツアー決まりました」
真壁の視線が画面へ向いた。
「全国?」
「はい。少し先です。まだ全部は出てないですけど」
画面には東京、横浜、大阪、福岡、仙台、札幌、そのほかにもいくつかの都市名が並んでいる。公演の間にも別の仕事が入る予定だった。
「かなり動きますね」
「そうですね」
澄川は画面を見ながら笑った。
疲れより先に楽しみが来る。
この海外で、もっと行きたいという気持ちはさらに強くなっていた。
「行くんですね」
「行きます」
返事に迷う理由はなかった。
少しして、澄川は顔を上げる。
「真壁さん、東京の方は来ます?」
警備会社側の配置はまだ決まっていない。地方公演なら、現地側のスタッフが中心になる可能性もある。
「まだ分かりません」
「そうですよね」
それ以上は聞かなかった。
真壁でなければ行かないわけではない。海外へ出る前にも、自分でそう言った。
「地方は、たぶん別の人ですよね」
「そうなる可能性は高いと思います」
「分かりました」
真壁がこちらを見る。
「大丈夫ですか」
澄川は首を傾けた。
「何がです?」
「いえ」
何を気にしたのかは分かった。
澄川は端末を伏せる。
「真壁さんじゃなくても行くって言ったでしょう」
「そうでしたね」
「行きますよ。俺の仕事なので」
一緒なら嬉しい。
いなくても行く。
その二つは、澄川の中で矛盾しなかった。
澄川は床のスーツケースへ視線を落とす。
「それより、これ閉まります?」
真壁も中を見る。
「入れ方を変えれば」
「お願いします」
「私がですか?」
「前もできたでしょう?」
真壁は澄川を見たあと、椅子から立った。
床へしゃがみ、中身を一度取り出す。
澄川も隣へ座る。
服が畳み直され、空いた場所へ順に収まっていく。
出発前夜にも見た手だった。
あの時は、これから海外へ向かうために荷物を詰めていた。今は帰るために、同じ手が服を整えている。
数分後、真壁が蓋を閉じた。
ファスナーも無理なく動く。
「入りました」
澄川は閉じたスーツケースを見る。
「やっぱり真壁さんに頼んでよかったです」
真壁は返事の代わりに、床へ落ちているものがないか周囲を確認した。
澄川はスーツケースへ手を置く。
本当に帰るのだと思った。
「帰りますね」
「はい」
十日あまり、同じ国にいて、同じホテルへ戻り、仕事が終われば会える夜もあった。
日本へ戻れば、また別の現場へ行く。
そのこと自体は分かっていたのに、今になって少しだけ惜しくなる。
澄川は真壁を見る。
「また離れます?」
真壁の視線がこちらへ戻る。
「仕事では」
澄川の表情が緩む。
それだけで十分だった。
仕事では離れる。
それ以外まで離れるとは、真壁は言わなかった。
真壁の手が、スーツケースの上に置かれていた澄川の手へ重なる。
澄川も指を返す。
「帰ったら、会えます?」
「時間が合えば」
「そこは絶対って言わないんですね」
「仕事がありますから」
「知ってます」
それでも、重なった手は離れなかった。
澄川は真壁の肩へ少しだけ寄る。
真壁も避けない。
しばらくそのままでいると、帰国後の予定が並んだ画面も、閉じたスーツケースも、さっきより遠く見えた。
「今は?」
澄川が小さく聞く。
真壁がこちらを見る。
「離れる理由がありません」
澄川は笑い、真壁の肩へもう少し身体を預ける。
真壁の腕が背中へ回った。
強く抱くわけではない。
それでも、帰る前の夜には十分だった。
明日の朝になれば、日本へ戻る。
その先でどれだけ仕事が増えても、行きたい場所へは行く。
真壁も必要な時には、仕事の距離へ戻る。
それでも今は、離れていなかった。
閉じたスーツケースの横で、澄川はしばらくそのまま真壁へ身体を預けていた。
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