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柚子side
「柚子 くん」
「ん……?」
「あのね、」
俺の頬に優しく指先で触れ、それから口角をあげて柔らかく笑う津森 さんに、つられて俺の頬も緩む。
彼の手に自分の手を重ね、少しだけカサカサした甲をなぞり指を絡めた。甘える俺に彼は呆れているのか困っているのか、何とも言えない表情を見せ、ふふっと息を漏らす。
そんなふうにゆっくりと流れていくこの時間に幸せを噛みしめた時、その流れを壊すかのように彼が、コホンと強めの咳を一つこぼした。
「……僕ね、結婚するんだ」
じっと俺を見つめる彼の視線と、発せられた言葉に温度差があったからか、何を言われたのか理解するのに時間がかかり、すぐに言葉を返せなかった。
何度も何度も確かめた後、遅れて頭に入ってきた結婚という二文字は、たったそれだけの言葉なのに俺の心臓をぐしゃりと潰してしまったようだった。
胸の奥がたまらなく痛くて、その痛みに顔が歪むのを必死に堪える。頬の筋肉が強張り、口角をあげてほんのり笑うことも叶わない。
「……そ、う、なんだ……」
絞り出したその自分の声が、今にも泣き出しそうなくらいに震えている。声の輪郭が歪み、湿った音として、耳から、身体の内側から響いてくる。
彼からこの話を聞かされるまでは、いつもと同じように笑い合って楽しく過ごしていたというのに、それも今日のこの瞬間で終わりかと思うと、じゃあ出会ってからこれまで過ごしてきたこの時間は何だったのかと、自分の中が急に空っぽになるような感覚がする。
「びっくりさせちゃったかな?」
「そりゃあ……、びっくりもするよ」
出会ってからある日までは、彼が俺の家に来ることもあったし、俺が彼の家に行くこともあったけれど、会えるのは仕事終わりの夜だけで、彼はいつもスーツ姿だった。
明らかに年の差があって、スーツ姿の彼とともに家族でもなさそうな俺が一緒にいることについて違和感を持たれるかもしれないとお互いに考え、やはりホテルで会うのが安心だとそういう結論に至ってずっとそうしてきたけれど。
それでもどこか、付き合っているのにどうして、お互いの家でゆっくりすることも叶わないのだろうと悲しい気持ちもあった。
けれど彼は、そんな俺とは違って、こそりとしか会うことのできないこの関係を嘆いているようには思えなかったし、今思えば家に連れて行ってくれなくなったのは、お互いのためという理由だけではなかったのかもしれない。
仕事終わりの平日の夜にしか会えないことも、冷静になって考えてみればおかしなことだった。
今の俺とは反対に、照れたようにへへっと笑う彼に意識がぼんやりとしてきて、その後で何か言ったようだけれど、俺の耳には彼の言葉が入ってこなかった。
遠退いていく意識の中で、ばらばらと窓ガラスを叩く雨の音だけははっきりと聞こえて。このタイミングで雨が降るなんてまるで……と思ったところで考えるのをやめた。
考えたところで何も変わらないのだ。俺が結婚をやめてほしいと願ったところで彼は「困るよ」と言って、この場に似合わない顔で笑うだけなのだろう。
「僕もさ、ほら、いい歳だから」
そうして少しだけ冷静さを取り戻してきた俺に、彼はまた平気で傷をつけていく。
何が面白いのだろう。彼のことが分からない。
顔を見られなくて窓を眺めている俺には想像しかできないけれど、彼は今、指で頬をかきながら笑っているのだろう。
不思議だ。俺にとって宝物のようだったこれまで時間は、彼にとって、こんなに呆気なく壊すことができて、笑って済ますことができるものだったのだから。
長い間一緒にいて、俺は彼のことも、彼との関係のことも、何も分かっていなかったんだね。
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