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intro — 眠る魂
もう――あれから何年経つのだろうか、とふと思う時がある。
当たり前のようにただ日々が過ぎてゆく。その間に俺の周りで色んなことが擦り抜けていった。
総てが有り触れているのかそうじゃないのかは解らないが、止め処なく溢れるものは大なり小なりあって然るべきだし、またなければないで味気ない。
あらゆる事象を受け流して淡々と遣り過ごすのも、個人の生き方の範疇であれば恐らく何の問題もない。
――何の問題もないはずなのに、ふと思い出すことがある。
……泳ぎきれない白い布。揺蕩うような余韻。正確な音を立てる秒針と夜の深さに似つかわしくない外の明るさ。カーテンの向こうは雪景色やカクテル光線……本当に、色とりどりだった。
切り取られた場所でただふたりきりでいた時間。――総てを、憶えている。今でも思い出さないと言えば嘘言になってしまう。
波濤の中で頼りなく揺らされる俺の縁は、彼の腕と体温だった。
肌の上で汗が滴り混ざり合ったそれが甘い匂いを放つ。絡めた腕に感じるのは優しい獣の柔らかい鼓動だ。
けれど、握った手を離してはならなかった。譬え離してしまったとしても彼は必ず俺を見つけ出してくれるのはもう当たり前だった。背中を預けて闘ってきた盤石の安心感に身を委ねた。
そうして大きな身体に包まれて至福と共に上り詰めてゆく。声を押し殺して呼吸を合わせていずれ訪れる解放の瞬間を待ち詫びた。
夢現の中で、肩口に瞼を預けた時の囁きが今でも思い出せない。彼の髪を撫でながら気怠さに流されて俺が眺めていたのは生まれ変わる月の影だったから。
濃密でゆったりとした時間だった。闘う前提があるとは言えルーチンワークのような変哲のなさに満ちた日々だったが、それだけ密度の高い思い入れとして残っているのだろう。
想い出さない夜も重ねた歳の数と反比例して数は減ったがその分想い入れとして強く刻まれる。
――眠れない時に彼の顔を覗き込んだことがあった。蓄積した疲れが溢れた、穏やかとも言えない寝顔。余りにも無防備過ぎてこっちが辛くならないわけがない。
何となく居心地が悪くなり、背中に絡んだ腕を解くと逃げるようにベッドを降りて窓際のソファに腰を下ろす。
持て余した気持ちを握り締めたままタバコに火を点ける。カーテンをほんの少しだけ開けて生まれ変わった月を眺めた。
手荒く吸殻を灰皿に押し付けても燻ったものは当然燃え尽きてくれない。
数時間前の爪痕がそこかしこに滲んでいる。それをひとつ指先でなぞると漸くクールダウンしたようなものが遅ればせながらやって来る。
突然の手持ち無沙汰を埋めるものは何もない。ソファに身体を預けて膝を抱え、少し彼の寝顔を眺める。遠くで見る『主観』と近い場所の『俯瞰』ではまた違うのかな、などと考えてみた。
第一印象はとにかく声がデカい――だった気がする。その場でどんな言葉を交わしたのかは憶えていないが、取り敢えず観察するには面白いかなとさえ思える人物像が強く残った。
この男は一体どういう人物なのかと興味が湧いたのが、そもそものきっかけだった。どこか生真面目なところが放っておけなかった。
正式に入社してからはいくら代表選出といえども当然下っ端なわけで、雑用係をさせられていた。その大きな役目の洗濯を手伝いながらいろいろと話をした。粉石鹸と柔軟剤の匂いにまみれて取り留めのない会話を交わした。
一応お互いの名誉の為にも記憶にない……と言っておく。
飽きることなく毎年毎年、年の半分は遠いところに行ってしまう彼を見送るのにも慣れっこになっていた。
一度冗談めかして「土産くらい買ってこいよ」と何かの拍子に勢いで口走ったらしい――酒の上での戯言のつもりだったと思う――が、それを真に受けてくれたようで、帰って来るまでの間、別に頼んだわけでもないのに絵葉書が折に触れて送られて来るようになった。そこには、ただ『元気です』と色気も素っ気もなく書かれていた。
意外なマメさに感心しつつ、さて、どうしたものか……素直に喜んでいいのかどうかを迷った。多分、誰にでも暑中見舞い代わりにしているのだろうから気にするまいと受け流すつもりだった。だが他の連中にはそんな酔狂な真似をしていないのを知ってからは、ほんの少しだけ嬉しくなった。
暫くあったえげつない程の喪失感とやらの憂鬱は少しずつ消え失せて、今度はそれを待っている自分がいた。
それこそ轆轤首にでもなりそうな程に焦がれている自分をどことなく恥じた。誰にも知られるわけにはいかなかった。
その頃になると周囲から暗黙の了解として承認されていた。遠征や合宿でも同じ部屋になるという有り難いんだかどうなのかという状況になってしまった。
ほんの少しの距離越しに眼が合って微笑んだオマエにぎこちなく笑った。俺を見る優しい視線に胸が痛いくらいに高鳴る。周りはそんな俺を生温く見守っていてくれているのに、小娘のように喜怒哀楽を震わせているのを覆い隠していた。
そう考えると俺は相当にひねくれている。素直に喜べばいいのに……とあの頃の『俺』に言ったところで解ってはくれないだろう。いや、理解を得る以前に文句タラタラでボコボコに逆襲されるのがオチだ。
そういう意味ではまだどこかガキだったのかなということにしておこう。
――ありとあらゆる物に対してドライにしていたつもりが、実は割り切れていないことに今更気付いてももう遅いのだから。
遠い彼方に叫んでも届かない声に心が軋む。引き絞られる切ない痛みに無意味にひと頻り酔う独り遊びをもう何度繰り返しただろうか。
今でもどこかに募る想いが積もりながら日々に押し流されてゆく。
それは護るべきものを持っても変わらないでいた。愛でるべき花を蔑ろにしてでも自分に嘘言は吐けなかった。
貫き通したい筈のものは何だったのだろう……。
俺がその場を去って間もなく彼も誰もいなくなってしまった。対外的な理由は何であれそこにあったものは彼しか知らない。
寧ろ、知りたくない。
今更知っても傷痕に残る痛みしか感じない気がするから。
幾何的な文字列が並ぶディスプレイを眺める。
気が乗らない。――集めた数字も解析したデータも頭に入らない。
溜め息と共に画面を切り替えて動画サイトに飛ぶとアルゴリズムがひとつの曲を弾き出して表示してきた。
何も考えずにその曲のタイトルを読み、マウスを叩く。
クリアなギターの音の後に囁くような女性ヴォーカルの声がそれを追いかける。
その音に微かな懐かしさすら感じてリリースされた年を見ると、思わずひとつ声が零れた。
ノーパソを閉じて背凭れに身を沈める。まるであの夜のようだと気付く。
――ダウンライトの下で静寂に深く溺れてゆく。
流れてゆく記憶。覆い隠してきたものが何故か溢れてきた。
繋いだ手の感触が不意に浮かぶ。その温もりが今更のように囁きかける。
――そうだ、俺は彼の夢で睡りたかったんだ。俺はオマエを追い駆けていたかったんだ。
込み上げる何かは俺が遠い昔に置き去りにしてきたものだ。
彼に渡した筈の想いが氾濫する。黄昏に似た光の中で何かが零れた。
たったいち度だけ泣いた日のことを憶えているだろうか?
あの時オマエが浮かべた表情。
どうしようもない罪悪感が未だに残っている。
帰りたいって泣いている。
愛してるって叫んでいる。
もう二度と戻れないのに、帰りたいって泣いている。
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