1 / 1
淫魔×サラリーマン
志信《しのぶ》はよろよろとした足取りで、暗い街を歩いていた。目指すのは自分のマンションだった。
彼は都内の会社で働く、ごく普通のサラリーマンだ。まぁ、その会社がブラック企業で、こうして毎終電間際の電車に乗って帰る毎日だったが。運の悪いことに、今日は雨まで降っている。
志信は気だるげに傘を差し、反対の手にはコンビニの袋を持って、重い足取りでマンションへ向かう。切る暇がなく、少し伸びた黒髪と、黒縁メガネの奥にある真っ黒な瞳。目元には隈が刻まれている。
「……あと一日。週末は、ゆっくり寝たい……」
休日出勤があることを思い出して、志信は口を閉ざした。気づけばエレベーターまで辿り着いていて、彼は自分の階のボタンを押す。ようやく辿り着いた部屋の前に——男が、落ちていた。
「……え」
黒いロングコートを着た、長身の男だった。一つに束ねられた艶やかな金髪が、惜しげもなく床に広がっている。顔立ちは整っているどころか、人混みで思わず振り返るほど派手でいて整っており、廊下の蛍光灯の下では妙に現実感がなく映った。
放っておけば、ドアが開けられない。何より、このままでは通報沙汰になる。志信は持っていた傘を壁に立てかけ、恐る恐る肩に触れた。
「あの……大丈夫ですか。……救急車、呼びますか?」
男の瞼が、ゆっくり開いた。ピンクと紫の間にあるような、マゼンタ色の瞳が志信を捕らえる。
(マゼンダ色?)
だが見間違いだったのだろう。志信がパチパチと瞬きすると、男の青い瞳が志信を見上げていた。
「……腹、減った」
「は?」
「腹が、減って……動けねえ。……お前、いい匂いがするな」
呂律は回っているのに、言っていることは支離滅裂だ。酒臭くはない。なのに変な言葉を吐く男に志信は警戒しつつも放っておけなかった。
志信は困った顔のまま男の腕を自分の肩に回した。思ったよりずっと重く、鍛えられた身体が全体重を預けてくる。
「ちょ……待ってください、重……っ」
「ハッ……頼む、しのぶ」
「なんで名前を——」
名刺入れを見られたのか。いや、そもそも表札には苗字しか書いていない。疑問が溢れたが、男の重みに、今はそれどころではないと思いまして、志信は鍵を開け、半ば引きずるように男を自室へ入れた。
玄関先に倒れ込んだ男に水を渡し、コンビニで買った塩おにぎりを差し出す。男は首を振った。
「違う、人間の飯じゃねえ」
男は玄関の扉に背を預けつつ、長い金髪の結び目を解いた。ほどけた髪が肩から背中へ流れ落ちる。それにつられるように視線を向けた志信は見た。
髪の間から覗く、黒い小さな角を。
人より少しだけ尖った、耳を。
マゼンダに色を変えた、瞳を。
そして、ロングコートの裾から這い出した尻尾を。
尻尾の先端はスペードの形に似ていて、ゆらゆらと、まるで生き物のように空を撫でている。
「……コスプレ、ですか?」
「違う、俺は淫魔だ。名は……アッシュ。お前の欲を食わせろ」
志信は数秒、完全に固まった。
「……帰ってください」
「動けねえって言ってるだろ」
「警察、呼びますよ」
「呼べよ。その前に、何て通報するつもりだ?腹ペコ淫魔が目の前に倒れてますってか?」
アッシュはニヤリと笑った。その瞳のマゼンタが揺れる。彼は街を歩く間は魔力で、角も耳も尻尾も隠し、目の色を変えていた。隠す必要もなく曝け出し、魔力の消耗が減ったことで、少しだけ軽口を叩く余裕が出た。けれど、それが長く持たないことも、分かっていた。
「こい、志信」
「——なにを。……ッ」
アッシュの瞳に吸い寄せられるように体が動いた。彼の手が、志信の手を掴む。
「っ、触るな——」
触れられたところから、ゾワリと何かが這った。それは不快でなく、むしろ快感に似ていて——その感覚から逃げたいのに、体が言うことを聞かない。
「……っ、俺に、触るな」
志信の声は、震えていた。
手首を掴まれているだけだというのに、熱が腕を伝って、肩へ、胸へ、じわじわと広がっていく。心臓が煩いほど脈打ち、指先が小さく痺れた。それを全部見透かしたように、アッシュが喉で笑った。
「ハッ。触るなって言いながら、手が離れねえな」
「……あ、あなたの、せいで……」
「そうだよ。俺の魔力だ。——でも、相性は良いみたいだな」
アッシュの親指が、志信の手首の内側をゆっくり撫でた。たったそれだけで、志信の膝から力が抜けそうになる。
「や、……っ」
「何年溜め込んでるんだ、お前。人間ってのは欲を食い物にする生き物じゃねえのに、ここまで溜めたら苦しいだろう?」
「溜めて、……っ、ない、です……」
「仕事ばっかで、抜く暇もなかったか。寝落ちして、朝が来て、また仕事。——可哀想に」
同情するような言葉だったのに、声にはからかう色しかなかった。志信が睨もうと顔を上げた瞬間、アッシュのもう片方の手が伸びて、メガネのつるに掛かる。
「あ……っ、やめ、それは——」
「邪魔だ」
メガネが、外された。
途端に、世界が滲んだ。壁も、床も、アッシュ以外の輪郭が甘く溶けていく。近すぎる顔だけが、不思議なくらい近くにあった。金髪が頬を撫で、マゼンタの瞳が、志信の真っ黒な瞳を真っ直ぐに覗き込む。
「返して、ください……見え、ない……」
「見えなくていい。俺だけを感じてりゃいい」
「……っ、無茶苦茶な……」
アッシュの尻尾が、音もなく志信の足首に巻きついた。
「ひっ……!」
スペード型の先端が、ズボンの裾から忍び込み、素足の肌をすりと撫でる。ふくらはぎ、膝の裏、太腿の内側へ。尻尾は生き物のように器用で、志信が身をよじるたび、先回りして逃げ道を塞いで、チロリとその先から舌を伸ばす。志信の中に快楽が溜め込まれていく。
「尻尾、……どかして、ください……っ」
「嫌がってる割に、腰が震えてるぞ」
「震えてなんか……あっ……!」
首筋に、アッシュの唇が落ちた。吸い付くようなキスだった。舌先が耳の下から喉元へ、ゆっくり舐め下ろす。誰にも触れられていなかった場所が、淫魔の唇ひとつで易々と目を覚ます。疲れ切って、自分の欲の扱い方すら忘れていた体が、正直に反応してしまうのが悔しかった。
「ん、……っ、アッシュ、さん……」
「さん付けすんな」
「……アッシュ……っ」
呼び直した途端、アッシュの瞳の色が深くなった。
「——いいじゃねえか、その声」
ワイシャツのボタンが、上から順に外されていく。志信は止めようと手を伸ばしたが、その手はアッシュの胸に押し当たっただけで、押し返す力にならなかった。鍛えられた体躯。濡れたロングコートの下は、びっくりするほど熱かった。
「力、入ってねえぞ、志信」
「……入れて、ます……っ」
「ハッ、体は正直だな」
シャツが開かれ、冷えた空気が肌を撫でたのも束の間、アッシュの掌が脇腹から胸の中央へ滑り上がった。乳首に指の腹が触れた瞬間、志信の背が玄関の壁にぶつかる。
「あ……っ!」
「ここもイイのか」
「……っ、普段は、そんなとこ……感じない、です……」
「なら、俺が、覚えさせてやるよ」
指先が小さな突起を転がし、摘み、爪の先で軽く引っかく。魔力が指先から染み込むように、触れるたびに感度が跳ね上がった。もう片方の乳首には、いつの間にか足から戻った尻尾の先端が嬲っていた。シャツの上から形をなぞり、押して、離して、また潰す。直接と間接の責めに挟まれて、志信の呼吸はあっという間に乱れた。
「あ、……っ、やめ、……アッシュ、……っ」
「やめる理由がねえ。俺は腹ペコで、お前は溜め込んでる。——利害が一致してる」
「して、ない……っ、俺は、……あぁっ……!」
アッシュに引き起こされ、志信はいつの間にか玄関の床に押し倒されていた。僅かな配慮だろうか、アッシュのロングコートが背中の下に敷かれている。
ぼんやりと熱に浮かされたように彼を見る志信に、アッシュは覆いかぶさり解けた長い金髪をカーテンのように落とした。志信の視界が金とマゼンタに支配される。
膝が、脚の間に割り入った。
「……っ! そこは……」
「ここも、正直だな」
ズボンの上から、形を変え始めた場所へ、膝がゆっくり擦りつけられた。志信は咄嗟に逃げようとしたが、アッシュに押さえつけられていて、叶わない。
「違う、……これは……っ」
「ハッ、何を隠すことがある。気持ちいいだろ、志信?」
「……っ」
アッシュの手がズボンの前を開き、下着の中へ滑り込んだ。熱い掌が志信のものを直接包み込んだ瞬間、情けないほど大きな声が出た。
「あぁっ……!」
「イイ声だな」
「う、……っ、やめ……ぁ」
アッシュの指が、根元から先端へ、ねっとりとしごいた。親指の腹が先端を擦り、溢れ始めた透明な雫を全体に塗り広げる。焦らすでもなく、確実に志信をイかせるために追い上げていく。自分の手で雑に済ませてきた行為が、他人の手でされると、こんなにも快楽を生むなんて知らなかった。
「はぁ、……っ、待って、……本当に、……っ」
「本当に、なんだ。言えよ」
「気持ち、……いい、です……けど、……だめ、で……あっ、あぁっ……!」
しごく手に合わせて、尻尾の先端が口を開き、乳首を舐めて、吸った。反対の胸はアッシュに弄ばれている。3箇所から流し込まれる快感に、志信の真っ黒な瞳が潤んで、焦点を失っていく。
「アッシュ、……っ、やめ、もう、……っ」
「出すなら出せ。お前の欲は、俺の飯だ」
耳元で囁かれて、志信は小さく首を振った。もう限界だった。腰を自分からアッシュの掌に擦りつくように動かしてしまう。
「イく、……っ、イきます……あぁっ……!」
白いものがアッシュの掌と志信自身の腹を汚し、全身が小さく痙攣した。その瞬間、部屋の空気が甘く震えた気がした。志信から溢れた欲情と快感が、目に見えない熱のようにアッシュへ吸い込まれていく。
アッシュのマゼンタの瞳が、鮮やかに発色した。
「……ハッ。やっぱり、美味い」
彼は汚れた指を自分の唇へ運び、舌で舐め取った。玄関で倒れていた男の弱々しさはもうどこにもなく、代わりに、捕食者のような余裕が戻っていた。
志信は玄関の床で荒く息をつき、滲んだ視界で天井を見上げた。
「……もう、帰って、ください……」
「断る」
アッシュは当然のように隣に腰を下ろし、長い金髪をひとつに束ね直した。彼の尻尾は満足そうに、ゆらゆらと揺れていた。
「一口でここまで回復する餌、そうそういないからな」
「餌じゃ、ないです……」
「志信」
名を呼ばれ、志信はゆるく瞬いた。
アッシュは彼の開いたままのシャツを直さず、その首元にキスをした。不意打ちのキスは優しい。
「しばらく、ここに置いてもらう。お前の溜め込んだ欲、全部食わせろ」
志信は、メガネもなく、ぼんやりとした視界で、隣に居座る淫魔を見た。
明日も、仕事がある。
この男を拾ったことは、絶対に後悔する。
それなのに、体に残った熱は正直で。断ることができないまま、志信は夢に落ちていった。
ともだちにシェアしよう!

