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第1話
7時間のフライトで凝り固まった首を回しながら、むくんだ足を引きずるようにして歩く。
シンガポール国際空港の入国ゲートまでの道は高級感ある絨毯に覆われ、窓からはさんさんと光が降り注ぐ。未山律(みやま・りつ)はその光の中を、気だるい体で歩いている。
窓の外に目をやると、真冬の東京から自分を運んできたばかりの白い旅客機の胴体が、南国の太陽光を照り返している。
効きすぎたエアコンの冷気。スーツケースを引いて足早に進む人たち。行き交う様々な言語。
ああ、帰ってきたな。
すっかり慣れ親しんだ風景に、律はどこか安心感を感じていた。
不意に、後ろから歩いてきた人のバッグが腕にぶつかる。「Sorry」と短く言って去っていくその人は、邪魔そうにダウンジャケットを抱えている。空港の到着ロビーは、どこの国にも属さない、中間の場所。日本と海外の境界。冬と夏の狭間。束の間の曖昧さが許されるこの空間が、律は好きだ。
アジア屈指の金融都市国家、シンガポール。東京23区ほどの面積のこの島国で、律が証券会社の駐在員として働き始めて半年が過ぎた。年末年始を過ごすために昨日まで一時帰国していた東京では、雪がちらついていたのに。この国の太陽は明るいを通り越して、刺すようにギラつく。まるで同じ地球とは思えない。世界は広くて、いつも不思議だ。ところ変われば、気候も、言語も、常識も変わる。ふるさとから離れるほど、「自由」になれる―――律はそう感じていた。
29歳。望んで勝ち取った赴任だった。半年前にシンガポール行きの辞令が出たときは、大学卒業後に入社して以来の努力が報われたようで嬉しかった。「淡々とクールにこなしているように見えて、ガッツもある。期待してるよ」そう言って引っ張ってもらった時に、過去の自分とはついに決別できたと思ったのだ。自分はもう、小学校のクラスで気が弱くて、いつも周囲に怯えていた男の子じゃない。世界を股にかけ莫大な金を動かす金融マン。ついにそのチケットが手に入った。そんな達成感とともに赴任して半年。律の仕事は順調。キャリアは明るい。
歩き続けると、広々としたホールに出る。駅の改札のように生前と並ぶ自動入国ゲートの前で、ふと足を止めた。そういえば、飛行機を降りてからスマホを確認していなかった。カバンからスマホを取り出し機内モードを解除すると、雪崩のように通知が流れてくる。SNSのくだらない通知、アプリのクーポン、勉強のためにと購読している英語の経済紙の見出し……その中に、スルー出来ないメッセージが一つ。
Ikuo 画像を送信しました。
一瞬、指が止まる。迂飼郁夫(うかい・いくお)は学生時代から付き合い始めて7年の恋人だ。今は日本とシンガポールで遠距離恋愛をしている。二国に離れていても、毎日一通ずつ、欠かさずにメッセージを送りあっている。
つい昨日までの2日間、律は郁夫と久しぶりの再会で一緒に過ごしていた。律がシンガポールに戻る飛行機に乗り、再び遠距離状態に戻ったから、いつものメッセージのルーティンに戻ってくれたようだ。まるで、「あのこと」もなかったみたいに。律の心がずくりと疼く。スマホの画面をタップし、メッセージを開いた。
「……また餅食ってるし」
思わず口に出てしまう。送られてきた画像は、和皿に盛られた二つの醤油餅。照りのある茶色に海苔が巻かれた、おいしそうなそれは甘いものが苦手な郁夫らしいチョイスだ。
つい昨日まで一緒にいた。一時帰国で久しぶりに生身の郁夫とともに過ごした一泊二日。あの日も郁夫は、正月の余りだと言って餅を焼いてくれた。甘いもの苦手だからこれしかなくてさ、と言って出してくれた醤油餅。空気も匂いも違う異国の玄関口で、口の中に蘇ってくるあの味。郁夫の感覚とともに。
彼は今、地元で家族と過ごしているはずだ。この醤油餅も、自分のためだけでなく、両親と、姪っ子にも焼いてあげたはず。彼の周りには家族がいて、かわるがわる近所の人も訪れて……この一枚の画像から、今郁夫が暮らしている田舎町の風景が浮かぶようだった。
律は、スマホをポケットにしまい、スーツケースを引いて空港のホールを進んだ。何のストレスも感じさせない自動ゲートにパスポートをかざし、顔認証で通り過ぎる。
あまりに隔てられている。今の自分の居場所は、あの醤油餅の世界からは遠く隔てられている。
その実感とともに、律の意識は、郁夫との久しぶりの再会の日に戻って行った――。
*****
「……さっむ」
駅のホームに降り立った律は、思わずぎゅっと身を縮こまらせた。九州は熊本県。その南部にある、古い城下町と温泉が有名な町。正月休暇の終わり。律はこの町に、恋人の郁夫を訪ねてきた。「もっと実家でゆっくりしなさいよ」と小言を言う母親を東京の実家に残し、「どうしても会いたい友達がいる」とかなんとか言って、羽田から飛行機に乗った。
しかし、なんだここは。東京よりまた一段階上の、刺すような寒さに震える。
「おーい、りっちゃん!」
単線の小さな駅の改札を抜けると、迎えに来ていた郁夫が勢いよく手をあげた。ちょっと熊っぽい大柄。太眉の人の好さそうな顔立ち。半年前とちっとも変わらない。
「久しぶり。迷わなかった?」
「迷うかよ、路線一本しかねえじゃん」
思わず笑顔になって、ダウンジャケットでもこもこになっている胸元にゴツンと拳をぶつけた。
こうしていると、自分と郁夫は仲良しの同年代の友達同士にしか見えないだろう。実際は、時間と欲を一番持て余す大学時代をみっちり一緒に過ごして、ヤることはヤってる恋人同士なのだが。
学生時代と違うのは、律は海外赴任でシンガポールに行き、郁夫は東京での仕事を辞めて地元の温泉宿に戻ったことだ。
たわいもない話をしながら、駅前に郁夫が停めている車に乗り込んだ。
「どう?シンガポールは」
エンジンをかけながら郁夫が言う。サイドブレーキの隣のホルダーにさしてあったペットボトルを渡される。未開封で、まだあたたかい。どうやら買っておいてくれたらしい。郁夫はこういうところが気が利く。
「どうって、すげえいいよ。東京本社と違って堅苦しくないし、給料もいいしさ。お前、早く遊びに来ればいいのに」
律はペットボトルのふたを開けて口をつけながら答えた。
「はは、行きたいんだけどなぁ。すぐにでも…」
曖昧な返事にちくりと胸が痛む。
「郁夫こそ、どうなんだよ、こっちの生活は」
水を向けると、「んー……」と濁したあと、変わらぬ笑顔で答える。
「だいぶ落ち着いてきたよ。家族も元気になってきた。一応家もあって仕事もさせてもらって生活に困ってないしね。それに穏やかで空気もうまくて、案外良いもんだよ田舎も」
律には、郁夫の言葉が本心なのか強がりなのか、わからない。
東京の大学に通っていた頃の郁夫も、卒業後IT企業でエンジニアとして働いていた頃の郁夫も、都会の暮らしを楽しんでいたはずだ。忙しく都心で働く若い恋人同士だった二人は、同棲こそしていなかったものの、金曜日には二人で飲みに行き、土日はどちらかの家で過ごしていた。
そんな郁夫を九州の地元に引き戻しのは、姉の訃報だった。シングルマザーだった郁夫の姉は、幼い娘を残して病気で他界したと聞いた。
娘に先立たれた両親と、母を亡くした姪を支えるため、東京を離れると郁夫に告げられたのは、律のシンガポール赴任が決まった直後だった。
『今まで、男ってだけで随分自由にやらせてもらってきたから。姉ちゃんの分も家族支えないと、今は』
そう言った郁夫は、あまり深刻そうな表情ではなく、いつものように穏やかな顔だった。当たり前のことを選んだだけだ、とそう言われているような気がした。
「別れる」という選択肢は二人にはなかった。
律は海外へ。郁夫は地元へ。互いに東京を離れるなら、一周回って何も変わらないのでは、という気さえした。それぞれの仕事や家庭の事情で二人とも東京を離れるなら、ある意味対等というか、どちらかが「残される」のという状況とは違う。
そして約束をした。会えない間、毎日少なくとも1回ずつ、写真つきのメッセージを送りあおう、と。
律は南国の景色を、郁夫は自然豊かな温泉街の風景を、電波に乗せて送りあってきた。シンガポールの観光名所マーライオン象を送ると、返信に実家の旅館。きらびやかな夜景を送ると、美しい星空が。同僚たちとのパーティを送ると、地元の祭りの写真が。
互いに言葉を送るよりも、そうやって写真を交換することでつながりを保っていた。きらびやかな赴任生活の中での、細くつながり続ける恋人との糸。律はその状態を寂しいとも思わなかった。
そんな日々の延長で、年末年始の休暇で一時帰国するから、郁夫に会いに熊本までやってきたのだった。
東京で一緒にいたころと何も変わらないで楽しく過ごせる。そう信じて。
実際、田舎道でのドライブも、一緒に名物を買い食いした時も、郁夫の実家の温泉宿の離れで飲みながら食事をした時も、自分たちでも驚くほど「いつも通り」だった。
異変はその日の夜だった。
「りっちゃん」
郁夫の熱を帯びた声は聞き慣れたもののはずだった。
湯上りの良い匂いがする、律よりも大きな男の体。学生の頃からの付き合いだから、セックスの回数なんてもう数えられない。
そのよく知ったはずの体が、旅館の部屋に敷いた布団の上で覆いかぶさってくる。
正直、シンガポールにいる間も郁夫のあたたかい体を何度も恋しく思った。久しぶりの再会には、セックスへの期待ももちろん織り込まれていた。
だからいつもと変わらない、東京で過ごしていた時の日常のふれあいと同じものに、この日も戻れると思っていた。
でもダメだった。
「……っ待って!」
強めに胸を押し返された郁夫は、ビックリした顔をしていた。
「………悪い」
思わず律が謝った。何に対してかよくわからないけど。
「あ、いや…」
「………ごめん、その」
気まずい沈黙。
説明しようと思っても言葉が出てこなかった。
自分でもわからない。さっきまでたわいもなく話しながらドライブして、旅館に行ってごはんを食べて温泉に入って、昔と何も変わらなかったのに。
セックスに及ぼうとした瞬間、大好きな郁夫のことが、「知らない男」に思えたなんて。
「……やめとこか」
そう言った郁夫のイントネーションに、聞き慣れないものが混ざっていた。方言だ、と思った。東京にいた頃は聞いたことがない訛りで、それはこの土地に帰ってきた郁夫は日常的に発している本当の声なのかもしれない。
律は何故か、この日郁夫とセックスできなかった。よく知っているはずの大きな体。何度も自分に触れた手が、浴衣の合わせから入り込み、自分の肌を撫でるのを……受け入れることができなかった。
その夜は気まずい雰囲気で、互いに背中を向けて眠った。
翌朝、郁夫はいつも通りだった。だから律もいつも通りに振る舞い、彼の家族にも友人としてあいさつをして、少し観光地を回ったあと、郁夫に駅まで送ってもらい電車に乗ったのだった。
駅の改札前で、郁夫は人目も気にせず、ふわりと律を抱きしめた。
「会えてよかった…りっちゃん、来てくれてありがとな」
「………ああ」
またすぐに会おう、とも、言えなかった。ただなるべくいつも通りを装って手を振り、改札をくぐった。
その後は何も考えないようにしながら、翌日、成田からシンガポール行きの飛行機に乗った。
たかがセックス。
されどセックスである。
もやもやした気持ちを迎えたまま南国の空港に降り立ち、スマホの電源を入れたところで、郁夫のメッセージを受け取った。
いつも通り、一日一通ずつの、やりとり。
律は思い立ち、空港の慣れた道を歩く。隣接のショッピングエリアに入り、高級ブティックやレストランの並ぶ道を通り抜けると…
4階建てを吹き抜けるように、屋内の滝が現れる。シンガポール空港の象徴とも言えるきらびやかだ。
そのままスマホを取り出し、パシャリ。写真を撮り、郁夫に送信した。「着いたよ」とメッセージを添えて。
『お、無事についたんだ。お疲れー』
すぐに返信が来た。それは、まるで先日のことなんてなかったように呑気に見える。
でも、律には、「今までと同じ」とは思えなかった。
遠距離恋愛なんて、何の問題もないと思っていた。自分たちはまだ20代で、将来のビジョンなんてなくたって一緒にいられるはずだ、と。
だけど何かが少しずつ、違っていったのかもしれない。
真冬の日本の田舎と、この常夏の都会で、自分たちは気づかぬうちに少しずつ、別の生き物になっていっているのかもしれない。
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