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「うっわ、まじか。涼太(りょうた)、結婚すんねんて。」 「え?まじ?涼太って、俺が関西行ったときたまたま会ったあの友達だよね?」  そうそう、うわ〜、そうなんや、と、ただひたすらに優太(ゆうた)の感嘆の声が聞こえてくる。分からないでもない。友人の幸や喜びということはあるにもしても、俺達も気づけばアラサー、と年齢の階段を日々登り続けている。そんな中聞こえてきた彼の友人の結婚という、この時期のリアルな出来事は、そうだよなあ、程度では置いておけず、全く気にも止めないわけにもいかない、という独特な空気感を持っていた。 「式するらしいわ。うわー、予定どうやろ。」  そう呟いて、今更手紙?なんて思っていたそれはどうやら結婚式の招待状だったらしく、予定を確認するべくスマホと招待状を何度も見返していた。彼は、いうてそんなに予定もないはずやけど、と言いながら確認した先は、いけるいける、と前向きに参加を検討しているところだった。 「俺、この前後で地元帰ってくるわ。」 「うん。分かった。」 「その間家あけるけど、大丈夫?」 「…何それ、大丈夫だよ。友達呼んだり、広々使わせてもらうから。」  俺が寂しがるとでも思ったのかな、なんて思いながら、いつもの軽いトーンで返事をしただけのつもりだった。しかし、彼は先程の穏やかな表情から一変して、多少の険しさを見せながら、 「輝(あきら)のことは信じてるけど、寂しいからって、知らんやつ家にあげたりすんなよ。」 と、真面目にそう言った。 「しないよ、そんなこと。優太だって、地元の人と沢山会うじゃん。変な気回さないでよ?」 「…ごめん。俺が変なこと言った。」  来て、と俺を手招きして、呼ばれたままに彼の元に向かえば即座に抱きしめられ、 「すぐ帰ってくるから。それまで待ってて。」 と、静かに呟いた。もう何年も同棲をしているようなもので、その中で培ってきた信頼感。それが揺らいでしまった自分を気にしていたのだろう。本当に彼は、人の信用を無碍にするようなことは絶対にしない。素直に伝わってきた温かみをそのまま受け取るように、静かに彼の胸元に顔を埋めた。 「うん。引き出物とかお土産、楽しみにしてる。」 「…え?それって俺のちゃうん?」 「ケチくさいこと言うなよ。どうせ同じとこに住んでるんだから。」          ‘遅くなって悪い’と招待状に書いてあった通り、俺の想像よりも早く、優太が友人の結婚式のために地元へと戻る日はやってきた。不思議と彼は、その日を楽しみに待っている、ということを俺の前で見せることがほとんどなかったからかもしれない。それほどに、日常生活はいつも通りだったということだ。 「優太、時間大丈夫?もうそろそろ出る時間じゃない?」  家を出ると聞いていた時間が刻々と近づく中、彼は部屋と廊下をうろうろしていて、なかなか家を出ようとする気配がない。リビングから適当に、少し大きめの声で彼に伝えた。そうすれば、奥の方から、おう、分かってる、とは聞こえたのち、こちらの方へと戻ってきたのが背中越しに分かった。 「…よし。どう?変じゃない?ちゃんとした格好すんの久々やし、時間かかってもうたわ。」  どう?と聞かれてしまっては、とその声のままに振り返る。…そして俺は、言葉を失ってしまう。    そこに立っていたのは、いつもとは全く違う雰囲気を纏った彼だった。    いつも寝癖は残りがちで、適当に下ろしている髪の毛は丁寧にセットされ、見慣れないセンターパートで分けられている。羽織っているジャケットに、パンツもネクタイも、過去に共に参列した共通の友人の結婚式の時のものとは違ったデザインのものに買い替えられている。どう考えても、彼が選んだとは思えないほどそれは整っていて、酷く似合う様相だった。 「…いいんじゃない。」 と、俺がそう答えれば、彼は、ありがと、ちゃんと用意したかいがあったわ、とリビングでくつろいでいた俺のところへとやってきて、軽く触れるだけのキスをした。その彼のまま、優しく微笑んで、 「あんましてたら触りたくなる、ちょっとだけな。ほな、行ってくる。」 と、リビングを颯爽と後にした。  いってらっしゃい、とも、気をつけて、とも、何一つ言葉を返すことが出来なかった。リビングのドアの奥で、階段を駆け下りる音や、ドアの閉まる音、施錠までしている音だけは、しっかり耳に届いていた。    あんな格好をして、参列するのか―――    正直に、素直に、それは‘かっこよくキメられた’彼の姿だったからだ。出発する直前に、わずかにされたキスにすら、そのちょっとだけ、が、嫌だな、なんて苦く感じられるなんて。  慌ただしく賑やかだった部屋は一気に静まり返る。たった一泊二日程度のこと。今までも仕事で何度も経験したことはある、はずなのに。  酷く長く、深い静けさに取り残されたようだった。  そんな日に限って、何の用事もなく、誰からの連絡もないのだ。いつものようにその日を過ごすには、とにかく違和感が付きまといすぎている。 「あーもう、散歩でも行こうかな。」  俺の頭の中は、優太のことでいっぱいだった。とにかくそこから少しでも離れたい、と軽く用意をしてドアを開けてみる。空を一つ眺めれば、外は曇りがちで、肌感はじとっとしている。雨が降りそうな気配を感じても、そのまま出かけることにした。雨に降られ、濡れたっていい。  どうせ仮に濡れて帰ったとしても、はよシャワー浴びや、と声をかけてくれるその人はいない。  歩いている最中にも、普段見慣れた景色の中で思い出すことは、不覚にも彼の整った姿に動揺してしまったことだった。  もうずっと長い間、二人で暮らして来た。それはお互いに意気投合したからで、友人という関係から恋人と姿は変わっていったけれど、そこに違和感らしい違和感など何一つない、自然な形で変わっていった。  何一つとして彼との生活に不満もなければ、ルームシェアや同棲を解消したい、なんて思うことも一度もなかった。タイミングが合うことがあれば一緒に出勤も出来るし、帰宅も出来る。同じ趣味の話題に花を咲かせることもあれば、お互いに触れ合うことも自然なことだったはずだ。それなのにも関わらず、‘彼も一人の男である’ということを、まざまざと見せつけられてしまい、思い知らされたのだ。  彼もいつか、その友人のように、家庭を持ちたいと思うのかもしれない。偶然今、好きだと言ってくれているだけなのかもしれない。 「…優太。」  無意識にぽつり、と出た彼の名前。歩みを進めていたその足も止まってしまった。もう今日は、何もかもダメみたいだ、と行く当てもなく進めていた道を引き返す。帰りに何か食べるものでも買って、いつもしている自炊もやめて適当に夕食も済まそう、適当に溜まっている仕事でもして気を紛らわそう、とそう決めて、家の近くのスーパーを目指すことにした。    帰宅して間もなくの頃だろうか。帰りに寄ってした買い出しの片付けをしていて、どうやらスマホの通知音に気づかなかったらしい。冷蔵庫へと買っておいた夕食を仕舞い込み、散々飲み慣れたエナジードリンクを片手に自室へと戻ろうとしたときだった。仕事の用意でも、とパソコンに手をかけた時に、何度も鳴っていたのであろうスマホが再び振動した。光る画面に目をやれば、同じアプリの通知が数件並んでいた。  もう癖になっているのだろうままに、仕事の件かもしれないし、と開いたそれは、ちょうど披露宴に参列していた優太からのものだった。友人であり、新郎でもある涼太と二人で並んで撮られた画像や、会場を収めたものが数点届いていた。その姿は間違いなく、出発前に見た彼そのまま。周りに写る同性の数人は、おそらく同郷の友人なのであろう。贔屓目もあるだろうが、彼は一際輝いているように見えた。悔しい、悔しい。こんなにも、彼にしか目がいかない自分が。こんな時ばかり、カッコつけやがって。  そして、スクロールした先にあった、最後の一枚。集合写真だったのだろうか。    彼の近くに並ぶように映り込んでいた女性から、目が離せなかった。    彼が新郎の友人なら、新婦側にも友人はいるはずで。偶然写り込んだだけなのかもしれない。はたまた、ただの異性の友人だったのかもしれない。俺にだって数は少なくても異性の友達くらいはいる。何もそうであったとしても、何ら気にする必要はなかったはずなのに。  勝手にそこだけ切り取られてしまった世界に、絶望の未来を見た。 『涼太に、俺のこと覚えてるか分からんけど、おめでとうって伝えといて』  そう彼に返事を返すのがやっとだった。スマホをベッドへと放り投げて、自らも身体を投げ出した。ベッドの上で小さくうずくまって、ため息をつくのがやっとだった。  俺達の未来について、どうやら本気で考えないといけないらしい、と脳内が叫び続けている。先のことは考えない、楽観主義。そのままで生きてきた俺にとっての酷く重々しい課題のようだ。それは、ずっと答えの出す必要などない、と思ってきたこと達。…何にせよ、今は無理だ、と考えることをやめて目を閉じる。その数分後に、気づけば眠りに落ちていたようで、無の世界へと潜り込んでいた。       「本日は、誠におめでとうございます!」  昼時を過ぎ、式後の夕刻のその時。本当に華やかで、めでたい空間。司会の進行に合わせて、会場は拍手と祝いや喜びといった神聖な場そのものだった。本当にこういった場に参列するのは久しぶりで、旧友との再会もそこそこに、俺は友人である涼太への場へと向かう。すると、すぐに気づいてくれたようで、 「おお、糸川やん。わざわざ帰ってきてもらってまで来てくれてありがとな。忙しいやろ。」 と、労いの声をかけてくれた。 「いやあ、そうでもないで。ほんまにおめでとう。よかったな。」  俺がそう祝福の言葉をかけると、隣で新婦さんも静かに頭を下げた。それにつられて俺も軽く会釈を返す。  そしてその流れで、写真撮ってもええ?と彼に声をかけると、ええで!、と快く答えてくれて、近くにいた参列者へと撮影をお願いする。すると、それは俺と同じように彼へと声をかけようとしていた旧友達で、俺らも入れろー、と賑やかに沸く。二人で写真を撮ったり、仲間内で集まって撮ったりと、その再会を改めて味わっていた。そして、その輪は自然と広まり、専属のカメラマンから、 「では、折角ですのでこのまま集合写真を撮りましょうか。」 と、新郎新婦に向けて声をかけた。そのひと言にその場は沸き、ぞろぞろと人は自然に集まった。ちょうど預けていた俺のスマホはカメラマンの手に渡っていたようで、そのスマホでも撮影をしてくれた。ラッキー、と思いながら、そのスマホを受け取り、その画像を眺めていた。…なんとなく、輝にも送ったろうかな、と適当に何枚か画像を送りつけた。しばらくして輝から返信が来たところで、撮影後の参列者達が自席へと向かっていく中、俺は改めて彼に声をかけることにする。 「…そういやさ、昔ちょっとだけ会ったことある輝って呼ばれてた奴覚えてない?」 「ああ、あのこっちに働きに来てた人?」 「そう。覚えてんねや。輝も涼太のこと覚えてて、おめでとうって言ってたで。んで今、そいつと東京でルームシェアしてんねん。」 「へぇ。まじか。そんなことあるんやな。よろしく伝えといてよ。」  めっちゃ偶然やってんけどな、と俺は何の違和感もなく、報告のつもりでそう言っただけだった。しかし、彼は不思議な表情を浮かべながら、 「でもさあ、それってずっとってわけでもないやろ?お互いにやりにくいこともあるやんか。不便ちゃう?俺等もうこの歳やで?」 と、そう言った。まあ…それはそうやねんけど、と言葉の出たままに答えたけれど、彼がそう軽く言ってのけた雰囲気で、俺はその言葉を受け取れなかった。俺が次の言葉が出ないでいると、その間を見計らったように、俺の知らない彼の友人たちが次々におめでとう!と声をかけに俺達の間に入った。丁度良かったのかもしれない。じゃあまたあとで、と軽く声をかけて、自席へと向かった。  用意された普段食べ慣れない料理達も、美味しいはずだった。彼のその言葉を聞くまでは。悪気があったわけでもないのだろうし、俺と輝の関係性も知っているわけでもない。次々に入れ替わる皿達に見合わないスピードで食事を進めてはいたが、同じテーブルに座っていた友人達に、食わへんの?いらんねやったら食うたるで?と声をかけられるほどであったらしい。…ええで。なんか腹いっぱいになってきたわ、と笑えば、元々少食やし、もうこの空気感で腹いっぱいなんやろ、と笑い飛ばしてくれる友人達の存在が、今はただありがたかった。  …輝の作った、適当だよ、優太の方が上手いんだから、って笑いながら出される、いわゆる男飯が頭に浮かんでしまったら、もうダメだった。     「糸川君…だよね?」  それでも、こんな華やかな場で辛気臭い顔をしているわけにもいかない、とドリンクを飲みながら、友人達と過去の思い出話に花を咲かせていた。そんな時に背後から、聞き慣れない女性の声が一つ耳に届く。そのままに振り返れば、どうやら新婦側の友人で参列していた同郷であったらしい人が立っていた。周りの友人が、高宮じゃん、と覚えているあたり、間違いでもないのだろう。 「そうやけど、何?」 「突然ごめん、久しぶり。覚えてる?中学最後、同じクラスやってん。ちょっと、いいかな?」 「…ごめん、あんまり覚えてないけど。」  はっきり言って、その要望に応えるのも面倒であった。しかし、これだけ周りの人たちがいて、新婦の友人であるとするなら、彼女の顔に泥を塗るわけにもいかないと、彼女の言うままに席を立ち、この会場の外へと向かった。     「何?はよ終わらしてほしいねんけど。」 「あ、うん、ほんまにごめん。一つだけお願いがあって。よかったら、連絡先、交換してもらえないかな?卒業するときにも聞きたかったんやけど、出来ひんかったから…。」 「…今さら?何のために?久しぶり会ったし、とりあえず繋がっとこう、みたいな?」  俺がそう伝えれば、彼女は、違うよ、そういうわけじゃ…、と眉尻を下げて俺の方を見上げていた。なら、尚更何のためにそんなことをしなければならないのか。こんなタイミングで連絡先を聞き出そうとするなんて、ろくでもない、としか俺の脳内は言わない。俺には何の興味も必要性も、全く感じないのだから。 「悪いけど、俺そういうのもういいねん。遠くから諸々応援してくれたら、それはありがたいかな。」  じゃあね、と彼女の何の返答も聞かずに彼女に背を向けた。そしてそのまま披露宴会場へは向かわず、ホテルのエントランスへと向かった。    ホテルの自動ドアを抜けて、すぐ横の壁に背を預けて空を見上げる。夕刻から始められた結婚式、披露宴を経て、空の色はもう暗く染まろうとしている。  友人の結婚、おめでたい、華やかな世界に呼ばれただけだと思っていた。年にそう何度とない、異空間のような場。そんな場に飛び込んでもなお、頭に浮かぶのは輝のことばかりだ。おもむろにスラックスのポケットからスマホを取り出す。彼からはあのメッセージ以来、何一つ届いていない。…輝の声が聞きたい、その意のままに、通話ボタンを押した。  しかし、そのまま彼に通ずることはなかった。改めてスマホの画面を眺めて映った時刻に、まあ微妙な時間帯といえばそうだ、出かけているのかもしれないし、と諦めて、俺は披露宴会場へと戻った。    もうその頃には、宴も酣へと向かっていて、もう披露宴のテンプレとも言っていい、新郎新婦の両親と、この場のゲストたちへの感謝の言葉。その間に強く視界に映る、その彼女を横から支えている涼太の姿。周りでは涙ぐみながら拍手を送った人達も沢山いたけれど、俺はただ、そんな二人の姿を視界に収めることだけで精一杯だったのだ。  嫌でも考えさせられてしまう。俺は輝が隣にいてくれる日々だけで、それだけでよかった。そうであるのに、こうしてまざまざと、俺たちとは違った‘幸せの形’を見せつけられて、俺の心情は平常なんて保っていられなかったのだから。    その後、会場を後にするときに涼太から、 「今日はほんまにありがとう。二次会来れそう?実家寄るんか?」 と、固い握手と共に、そう問われた。 「…ごめん。明日も仕事やねん。二次会も行かれへんし、そのまま東京戻ろうと思ってる。」 「まじか。最後までほんまありがとう。仕事頑張ってな、応援してるわ!」 「ありがとう。涼太も、幸せにな。」  せめてもの祝の言葉。隣に並ぶ新婦も、彼と一緒に頭を下げた。  本当は、明日は仕事なんてない。二次会まで参加して、実家に潜り込んで眠りほうけるつもりだった。 『急遽仕事が入ったから、そのまま帰るわ』 と、実家で俺が戻ってくると思い込んでいたであろう母親にそう連絡をした。すぐに返ってきた返事には少しの寂しさが滲んでいるのが感じられはしたけれど、それどころじゃなかった。    とにかく、輝に会いたい    彼らの幸せそうな姿が胸に響いたとも言える。その反面、あの涼太の一言から、かけがえのない存在である彼との未来を、なんとなく今、描かなければいけない気がして。  その一心が、関西から東京へと向かう原動力になって、慌てて呼びつけたタクシーに乗り込んで、新幹線の予約を即座に変更した。そわそわと落ち着かない、それほどに、彼の存在が俺をそうさせた。何が余裕だ、安心だ、永遠だ。そんな確信など、何一つなかったのだと、どうしようもないくらいに大きくなってしまっていた彼の存在に、今さらになって気づくなんて。     「…うわ、やっべ、今何時だ?」  まさかそのままベッドに飛び込んだまま寝てしまっているとは思わなかった。まともにしまっていないカーテンの方へ目を向ければ、もう辺りは真っ暗に染まり切ろうかという頃だった。…ぐぅ、となる腹の音は、そういえば晩飯はまだ食ってないし、冷蔵庫に入れたままだ、という確かな証拠だ。持ってきたエナジードリンクの缶についていた水滴はなくなり、仕事を進めようとパソコンの電源も入れるだけ入れて、結局そのままスクリーンセーバーが様々な画像を、薄暗いモニターに流し続けているだけだった。 「…あかんな、俺。」  どんな嫌なことも、寝たら忘れられる。そんな生まれ持った特性も、今は発揮をしてくれなかった。しっかりと、あの暗く沈んだ気持ちはそのまま残り続けている。しかし、とりあえず腹が減ったと鳴り続ける腹の音には逆らえそうになくて、ひとまず遅くなってしまった夕食を摂ることにする。部屋の醜態もそのままに、俺はリビングへと向かった。  リビングに入った途端、しん、とした静かな空気が肌を撫でた。普段なら、そこにはいなくても、ドアを隔てて彼が部屋にいれば、雰囲気を感じることは出来ていた。それがものの見事に、今は皆無なのだ。その空気感にため息をつきながらも、俺は冷蔵庫へとたどり着く。電子レンジでさっと温め直して、リビングテーブルへと座った。目の前には湯気を立て、美味そうな飯が並んでいる。腹が減っている、という事実だけは俺を救ってくれた。味わうということもそこそこに、さらっと全て平らげてしまった。  いよいよ本当に、仕事に取り掛からなければ、と一つ気合いを入れる。部屋に置いてきたエナジードリンクも飲むしかないな、と立ち上がった、その時だった。  奥の方からドアを解錠する音がガチャガチャと聞こえて、俺は一瞬フリーズした。え?今日は優太、帰ってこないはずだよな?と少し疑いながら玄関口を覗けば、出かけた時より少し大きな紙袋が増えただけの、そのままの彼が立っていた。 「…ただいま。」  そう呟いた彼の少し疲労の見える彼の表情が、目が合った瞬間に少し微笑まれたように見えた。安心した、とでも目で語るように。 「おかえり。早いやん、明日帰るはずだったよね?…どうだった?いい式だった…?」  まずはこの長旅の疲れを労うように、そう声をかけようとしたところだったのに。彼は持っていた荷物を全て手放し、一目散に俺を抱きしめた。 「…輝に会いたくなった。それしかなかった。二次会も実家寄るんも全部蹴って、帰ってきた。」  そう静かに呟かれて、思い浮かぶのは聞きたいことばかりだ。人生にそう何度とないイベントも、わざわざ帰りもしない実家への帰省も、何もかも蹴ったというのだ。あれだけ楽しみにこの家を出たというのに。 「俺は、輝を離す気なんかない、これからも、ずっと。」  そう言って、彼は、俺を強く強く抱きしめるけれど、今の俺は。    いつもなら、むず痒く感じていたような言葉でも、今だけは、俺の心を揺さぶる言葉にしかなり得なかった。   「…本当に、優太がそう言ってくれるの、嬉しいんだよ、俺。…だけどさ、」  どうしよう、この先は今言うべきなのか、はたまた言うべきでないのか、と脳内でせめぎ合っている。震えそうになる声をどこまでごまかせるか、賭けのようなものだった。 「俺達、本当に、いつまでこうして一緒にいられると思う…?」  自分で言ったのに、いつか訪れるかもしれない終わりを想像して怖くなった。しかし、それは嘘でも何でもない、本音の部分であったことも確かだ。はたまた、どこまでも一緒に生きていけるかもしれない、という想いも隣り合わせで。  彼は驚いたように俺から離れた。何を言っている?とでも言わんばかりの表情を浮かべて。しかし、俺も普段は口達者なところもあって、言葉を止めるにはもう遅かったようだ。選んでしまったのは、その恐れの道。噤めそうにない。  「優太、すげぇカッコいいよ。…俺、思っちゃって。優太だって一人の男で…優太のこといいって言ってくれる人なんて他にもいるよ、沢山。…結婚とか、家庭を持ちたいっていつか思ったって、当たり前なんだよなって。」 「…ふざけんなよ。俺がいつそんなこと言うたんや。」 「そうだけどさ!…送られてきた写真…見たよ。隣に女性が写ってた。別に誰だっていいけど…っ!優太の隣に誰かがいたって、なんらおかしくないんだよ。そんな未来がやってくるわけないって、誰が決められんの?俺達がずっとこうしていられるって、誰が約束して…っ、」 「輝!!」  普段から聞き慣れない彼の大きな声が響く。俺は驚いて、びく、と肩が震えて、ゆっくりと顔を上げた。 「いくら輝でも、それ以上は言いすぎや。」 「…っ、優太は、分かってない…それがどれだけ自然なことで、いくらでもあり得ることだって…!」 「輝やって、何を知ってんねん。俺、今日そんなんを散々見せられてきてんで。周りから祝福されるのが当たり前の世界で。…それでも、どんな女に声かけられても、興味もない。あの写真はたまたまその場の勢いでそうなっただけや。誰かは知らん。いくら綺麗な女性だったとしても…どんなに豪華で美味い飯出されても、輝の作った飯のほうが何倍もいいってなって、あんまり食えへんかって。…輝がおらん世界なんか、俺には何の意味もないねん…。」  普段は言葉多くは語らない彼が、これでもか、と言わんばかりに、俺への優しい言葉をくれる。怖がりで意地っ張りな自分が、その言葉を素直に受け取ることを拒もうとしている。その真っ直ぐな想いは今の俺にとっては眩しすぎる。何も言い返すことすら出来ないでいて、彼ももう俺の方を見ることはなく、持ち帰ったキャリーケースや荷物を引っ掴んで自室へ戻ろうとしている。 「…でも、輝がそうじゃないなら、考え直さなあかんのかもな、色々と…今日はもう疲れたし、寝るわ。」 「っ、優太、」 「しばらく普通に過ごそ、友達みたいに。…ゆっくり考えたい。」  そう言って、彼はその世界を経験した証である引き出物という大きな紙袋をリビングテーブルに置いて、そのまま自分の部屋へと戻ってしまった。   酷く揺れた気持ちの裏で、その引き出物の袋がただ視界に入った。それをぼんやり眺めながら、二人で彼らの幸せのお裾分けをもらいながら、何が入っているんだろう?と、今頃一緒に開けているはずだったかもしれないのに、と、ふと脳を過った。白く無機質なそれは、ただそこに、ぽつん、と置かれたままだった。    それを横目に見ながら、俺もそのまま自室へと戻った。その場に立ち尽くせば、俺が夕食を摂りに出たときと、何一つとして状況は変わっていない。しかし、今俺達の置かれている状況は、想像していたより遥かに違っている、といったところだろうか。  彼の言ってくれた言葉は本物だと思う。それは、長年生活を共にしてきて、偽りようのない事実そのものだ。彼は嘘をつく、言葉を飾るということをしない。それなのに。その彼の経験した、ある意味強烈な意味を持ったそれは、想いを強めるものになっていたのかもしれない。ただ俺はそれほどの彼の熱に圧倒されて、追いつけそうにもなかったのもまた事実だった。  その共に歩んできた道すら覆されてしまうような、彼の最後の言葉には、大きな空洞のど真ん中に放り出されて、孤独、空虚といった感覚に苛ませられる。置いていかれるのか、と。  ゆっくり考えるって、何を。考え直すって、何を。普通に過ごすって、どうやって。俺の中には、楽しく彼と過ごして来た日々しか残ってないのに。  俺がもう少し、その言葉の意味に気づいていたら。歩み寄ろうとしていれば、…素直に受け取ることが出来ていたのなら。彼からそんな言葉を引き出すなんてこともなかったかもしれないのに。どんなことでも、笑い飛ばしてきた。そんな俺でも、今だけは口元を噛み締めて、手を握りしめるしかなかった。      閉じたドアの音がバン!と思いの外大きく鳴り響いたことに一瞬の戸惑いを覚える。息苦しく感じるネクタイを力任せに緩めて、ジャケットはベッドへと投げ捨てた。もともと苦手で、なんとかしたヘアセットも晩まで保たれてはいたけれど、もうどうでもいい、とガシガシとこの髪型を崩した。  輝の抱いていたその気持ちに気づいてやれず、なぜそんな風に思うのだ、と問うこともせず、自分の気持ちを押し付けるような形になってしまった。…伝わらなかったのだろう。  疲れもあったのかもしれないが、何一つとして彼の言葉も上手く汲み取れない。彼は普段から口達者であり、俺が聞き正すことをしなくとも、話はクリアに伝わってくるのに。あんなに苦しそうに、感情が先行する。そんな風に話す彼は、この長い付き合いの中であまり見たことがない。それほどに感情が高まり、制御の利かなかったままの言葉だったのであろう。彼もまた俺と同じように、お互いのこれからの‘関係’に何か揺れることがあったとしか思えなかった。…だけれど、今の俺には理解し得るものとは到底思えない。  …もう今日は、とにかく感情がジェットコースターのように動いた、普段自ら動くことを嫌う俺が、彼という存在に動かされる、そんな日だった。もう何もしたくない、とベッドへ寝そべって目を閉じる。そのまま寝落ちてしまいそうだ、と思うままに、数時間ほど眠っていたようだった。  

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