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第1話(完)

「鬼ごっことか、どう」 「ワンルームでか」  濡れた髪を乾かす眼鏡が、呆れたように返した。  外は土砂降りの雨。落雷で終電が不通となった運の悪い男は、武田晴己という。家主である嶋田陽介の幼少時からの腐れ縁で、社会人三十年目の今日も、それなりに付き合いがある。 「暇つぶしったら、そんなんじゃねえの」 「ガキか」 「似合わねえなあ、ハルミ。おまえ家では何着てんの、寝巻き」 「パジャマだよ、くまさんの」 「ぶっ」  陽介の渡したTシャツとハーフパンツは、押入れの中でヨレヨレになっていたものだ。所持者はそれで何の違和感もない、五十代のオヤジ顔だが、インテリ臭さのある晴己の生っ白い足には、全くの不似合いだった。  陽介のマンションは、駅から徒歩二分。予算と利便性だけで選んだ終の住処が、晴己の会社の最寄駅と知った時には、腐れ縁も極まれりと思ったものだ。 「ビールもらうぞ」 「おう」  勝手知ったる調子で冷蔵庫に屈む、長く白い晴己の足は、さすがにオヤジ臭かった。学生時代、何度かそれで抜いたと言ったら、物好きだなと顔を顰められた。真面目な優等生ヅラに隠れた、この男の大雑把さに、陽介は何度も救われた。  ゲイであることを自覚したのは、中学一年の夏だった。それまで首を傾げる程度だった性癖の違和感は、バレー部三年の先輩と女子マネージャーの性行為に遭遇し、核心に変わった。 『見てんなよ、嶋田』  先輩の陰に隠れた女子マネでなく、興奮に息を荒げた先輩に、陽介は欲情を覚えた。ごめんなさいと慌てて逃げ帰った翌日。先輩に捕まり、固く口止めされる間も陽介はずっと勃起していた。夕暮れの倉庫の薄暗さと篭った熱気、漂うオスの匂い。憧れだった先輩のあの時の顔は、今でも鮮明に思い出せる。 「このチャーシュー美味いな」 「全部食ってくれ、それもう賞味期限わからんのよ」 「え」  晴己は見た目にそぐわず、呑気なところがある。腐れ縁のゲイの男の家に平気で上がり込み、置きっ放しのゲイ雑誌を見て驚いていたりする。 『おれ、男が好きな』 『は?』 『彼女つくる気ねえから、もう言うな』  晴己のお節介にイライラし、ゲイであることバラしたのは、高校三年のときだ。  晴己は眼鏡のツルッとした顔で、あんぐりと口を開けた。それから、そこそこ利口な頭を十秒ほどで再起動させ、じゃあ彼氏作れよ、と方向を変えた。陽介は晴己のその異常な柔軟さと大らかさに、腹を抱えて爆笑したものだ。 「止みそうにないな」 「雨?」 「復旧作業も大変だろ、これじゃあ」 「まあなあ」  窓の外の雨風は、一足早い台風の様相で荒れ狂っていた。ヒマそうにそれを眺める、気の抜けた顔の中年男は、五十を過ぎてなお、お人好しな面があり、中堅商社の管理職に就いて対外的に無表情を身に付けたが、中身が平和な作りをしていることは話せば一発でわかる。  晴己は、幸福な家庭に生まれ育った、真面目で優しい男だ。  だから陽介は、何も言わないことにしている。 「おまえは明日、仕事だろ?」 「いや、休み」 「休み? 珍しいな、陽介のところは日曜が本番じゃないか。ついにクビか?」 「鋭い」 「おいおい、…………えっ? 冗談だよな」 「もう少ししたら言おうと思ってたんだけどな」  イベント関連の総合業務を扱う会社に勤める陽介は、先週起こした事故の責任問題が決着するまで、長期の謹慎を命じられていた。 『嶋田』 『はい、覚悟はできてます』 『すまんな』  常務は頭を下げてくれた。しかし、それでどうなるわけでもない。 「早けりゃ来月に、四国に引っ越すよ。そっちの会社で受け入れて貰えることになった」 「……急だな」 「おう、悪いな、このマンションも売ることになる。持っててもしょうがねえしな。おまえも、元気でやれよ」  腐れ縁もこれまでと思えば、さすがに名残惜しい思いだ。  晴己は眉間に縦皺を寄せ、小さく口を尖らせた。物言いたげに眼鏡の奥で瞬く白い頬の、どこか拗ねた風情はとても五十代のそれと思えず、相変わらず本性はガキ臭えなと、陽介は卓袱台に肘をついて口の端のシワを深めた。 「そういう顔すると、やっぱ童顔だな、ハルミ」 「童顔はないな、もう五二だぞ」 「童顔だよ、おまえは。老けねえな」 「そうか?」  真面目ぶって顔を揉む、晴己の頬にも目尻にも、深い溝が刻まれている。  確かに歳はとったよなと思う。お互いに。 「いやに見るなと思ったんだ、今日は」 「なにをだ」 「俺をだよ。やっと俺に目覚めたかと思ったら、そういうことか」 「ふははっ!」  目覚めたって言うわけがない。晴己にだけは、手を出さないと決めている。  この男の幸福を願うことが、陽介の唯一の趣味とも言えた。 「好きだ」 「ん?」  音にならないつぶやきに、不思議そうに眼鏡が瞬いた。  すっかり力の抜けた晴己の顔の、ガラスの奥の瞳が、陽介にはなぜか幼げに見える。 「まあ、にらめっこでもするか」 「なんで」 「ヒマだからさ」 「ガキか」 「スタート」 「!」  一斉に変顔をした。晴己は基本的にノリのいい、負けず嫌いな男だ。二人で顔を見合わせ、必死に笑いをこらえた。顔のたるみは、五二歳の二人ともに一日の長があった。 「わひゃえひょおひゃへ」 「ぶふっ!」  謎の言語に負け、噴き出したのは陽介だ。卑怯だぞ、と笑いに咽ぶ幼馴染に、晴己はシワの残る白い頬を叩いて自慢げに眦を引いた。 「俺に勝とうなんて十年早いね。おまえは笑い上戸だ」 「ははははっ!」  可笑しい。自分の前にいる晴己は、すっかり中年になった今でも屈託がない。昔から無邪気で、怖いもの知らずで、嘘が嫌いで女好きだった。結婚してからは家族を心底大事にし、至極真っ当な人生を歩んでいた男だった。だから去年、さっぱりした顔で離婚したと告げられた時には驚いたものだ。 「そういやカコちゃん、今年成人式じゃないか?」 「なんだ突然。カコの成人式は去年やったよ」 「去年だっけ」 「写真見るか?」 「持ってんのかよ」  いそいそと鞄からスマートフォンを取り出す晴己の顔は、親バカそのものだ。素早い操作で映し出された晴れ着の彼女は、父親そっくりのつるりとした顔で、澄まして笑っている。 「ははっ、可愛いじゃねえか」 「可愛いんだよ。こればっかりは」  目尻に蕩けたシワを寄せ、光る液晶を見つめる晴己の顔には、寂しそうな、嬉しそうな、複雑な思いがにじんでいた。  晴己は今は一人、郊外の一戸建てで暮らしている。 「成人したならもういいだろ、おまえ再婚しろよ」 「その気ないよ」 「あの家に一人じゃ、年取ってからつまんねえぞ」 「そうでもない、たまにカコが顔だしてくれるしな。それにおまえもいる」 「おれはもう当てにすんなって」  晴己はこれで、寂しがりな男だ。離婚を受け入れたことが不思議に思えるほど家族にべったりで、その片手間で、陽介の暮らしにも関わり続けた。 「そっちは相変わらず若いの探してるんだろ?」 「まあな」  さすがに未成年とはいかないが、二十歳ソコソコの青臭い男に、陽介は欲を覚える。憧れの先輩のあの日の顔は、それだけ強烈なインパクトがあった。 「年寄りもイケるなら、俺が相手してやるんだけどな」 「バカ言え。つうか、そっちはあんまり詮索すんなって」  ぐっと押し黙って拗ねた顔に、顎をしゃくってビールを勧めた。晴己はわりに好奇心の強い男で、ひとの部屋をひっくり返して玩具を見つけては、ニマニマと説明を求めてくるので厄介だ。 「おれも飲むかね」 「陽介、別のつまみないのか」 「おまえは図々しいよな、ほんと」  晴己は従来の無邪気さと、中年の太々しさの混在する顔で白い顎を突き出した。 「図々しいよ、俺は。俺の退職後の予定聞けよ、さっき決まった」 「なに」 「四国でお遍路さん」 「ははっ!」  台所に立ち、冷凍のほうれん草としめじを適当に炒めて皿に盛った。 「老いらくの楽しみってのもないとな」 「いいんじゃねえの。新しい奥さんと二人で廻れよ」 「…………」  卓袱台から見上げる視線に、ほら、と皿を置いた。いつからか晴己は時折、眼鏡の奥で物言いたげな視線を閃かせるようになった。  それに知らんふりで、陽介は座布団に尻を落ち着かせた。 「陽介」 「んー」 「チャーシュー片せよ」 「おまえが食えよ」  缶ビールにチーズ。体型を崩さないため、夜は極力食わないようにしているが、今日だけは特別だ。 「食ったら寝ろよ」 「陽介」 「なんだよ」 「にらめっこするか」 「やだよ」  晴己が子供のようなことを言う時は、危険な予兆だ。 「負けた方が勝った方の言うこと」 「断る」 「スタート」 「!」  畜生。  慌てて作った変顔に晴己が吹き出した。 「おまえ……っ、なんか出てるぞ!」 「急に始めるからだろが!」  頬を押したせいでビールもしめじも台無しだ。さすがに年甲斐なかったなと、赤い耳で足元のティッシュを引き抜く。 「くそっ……初めて負けた」 「なに聞いてもらうかね」 「断るって言わなかったか?」 「記憶にないね」  晴己はぐしゃぐしゃになった中年の赤い顔を叩き、余韻に震えていた。人生のほぼ全てを共にしてきた腐れ縁の男の、未だ無邪気な姿に、陽介のシワ深い顔が綻んだ。 「幸せでいろよ、ハルミ」 「なんだ? 俺は幸せだぞ。おまえもしかして、離婚のこと気にしてたのか」 「そうじゃねえよ、終わったことはいいんだよ、これからのことだ」 「平気だけどね、俺は」 「どうだかね」  これからは、この寂しがりになにもしてやれない。同じ日本といったって、東京と四国ではだいぶ距離がある。 「なに言うつもりだったんだ、ハルミ」 「ん?」 「にらめっこ、勝ったらさ。聞けることなら聞いてやるよ、餞別だ」  晴己は得意げに頬を引き上げ、無邪気な中年の顔で、太々しく眉を釣り上げた。 「おまえは口が固いからな。いいかげん、本音吐け、ってな。言ってやるつもりだったよ」 「……」 「まあ、負けた」  晴己は澄ました顔で、缶ビールを傾けた。 「はっきりしないんだよな、おまえはさ。その強面で」 「うるせえ」 「もう俺は、おまえの感情なのか俺の願望なのか、わからんようになったよ」  陽介は言葉に詰まった。  晴己は眼鏡の奥の瞳を細めて笑っていた。  昔から、妙なところで潔く、懐深い男だった。 「もう再婚はしないよ、いい歳だ。無理に勧められることもないしな」 「好きにしろよ」 「次の旅行先は四国にするよ。案内頼むぞ」 「はいよ」 「こっちに来ることがあったら早めに声かけてくれ、予定あけるから」 「しつこいなおまえ、そこまでする必要ねえだろ」 「会いたいんだよ、俺は」  ちくしょう。 「諦めついたら言えよ、陽介」 「……五十も過ぎて、なに言うんだって」  陽介は色の濃いオヤジ顔を顰め、ガリガリとこめかみを掻いた。小っ恥ずかしくてアチコチ痒い。尻の据わりも悪い。  気づいていたのか、気づかれていたのか。どっちが先かはもうわからない。 「俺の人生、半分は全うしたよ。自慢できる人生だった。おまえのおかげだ」 「おれはなにもしてねえよ」 「してただろ、ずっと————」  晴己は不意に、眼鏡の下の顔を真っ赤にさせて俯き、頭を掻いた。 「ダメだ、悪い、限界だ、五十過ぎの男二人でやることじゃないよな、これは」 「気づくのが遅えんだよ」  こっちだって恥ずかしい。白髪混じりの頭の端の、真っ赤な耳を眺め、陽介は分厚い頬を擦って冷えた缶を煽った。  結婚しようが、子供を作ろうが、この男の根っこにある真っ直ぐさは変わらない。 「だからな?」 「無理すんなって。おまえが今のままでいてくれたほうが、おれは助かるね」 「おまえのそういうところは昔から腹が立つよ。ひとの気持ちを平然と」 「おれはなにも知らんって」  憮然とした眼鏡に睨まれ、陽介はホッと頬を緩めた。この関係を一から再構築する情熱も気概も陽介にはなかった。互いにもう、そういう齢ではないだろうと思う。これも一つの、にらめっこだ。  人生をかけ、顔色を変えず、じっと幸福を見守り続ける。そんな想いがあってもいい。  恍け通した陽介に、晴己は目元に深いシワを刻んで缶を煽り、諦めた顔で太々しく笑った。 「じゃあ、まあ……泊まることも滅多にないしな」 「ん?」 「この部屋も最後かもしれんから、一緒に寝るか」 「っ! 勘弁しろ」  彫りの深い顔をしわくちゃに歪め、気持ち悪そうにドン引きした陽介に、晴己は満更でもなく頬を引き上げ眼鏡の顔を差し出した。 「今度こそ勝負だ」 「イヤだって!」 「にらめっこしましょ?」  自信満々の無邪気な中年に、陽介は最初っから、笑いっぱなしだ。

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