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Nightmare Drop 第5話

 情けないが、今日はこれが限界か――  何とか理由をつけてフロアーを抜け、非常階段のある踊り場へと腰を下ろす。人の目から離れられたことでホッと息をついたのも束の間、街の喧騒と真夏の夜の作り出す生暖かい風が頬を撫でれば、堪え切れずに涙が滲んだ。  こんな時にいつも脳裏に浮かぶのは、幼い頃に身寄りを亡くした自分を拾って育ててくれた、一人の老人の姿だった。 『泣くんじゃない、(ひょう)。男の子だろう?』 『でも……じいちゃん……』 『笑っていなさい。いつでも愉快に楽しく! 笑う門には福来たる――だぞ』  そう言って豪快に笑った、皺くちゃな笑顔と明るい声が頭の中で巡りめぐる。 「……っ、つぅ……じいちゃん……じ……いちゃん!」  (はばか)ることも忘れ、ひとしきり――声を上げて波濤は泣いた。  踊り場の下には煌めくネオンに彩られた華やかな大都会の夜景が広がっている。すべてを呑み込むように広がっている。  いっそのこと、楽しいことも苦しいことも、嬉しさも辛さもすべてを包み込んでくれたなら、どんなにか――  泣き濡れた波濤の瞳の中に、雅な都会の灯がユラユラと揺れていた。まるで元気を出せと勇気づけてくれているようでもあり、それとは真逆に悲しみをより一層(あお)ってくるようでもあり――止め処なく流れる涙の雫は、しばし()むことなく波濤の頬を流れて伝った。 ◇    ◇    ◇  その数日後、club-xuanwuの事務所ではオーナーの粟津帝斗が(いぶか)しげな表情で、とある書類に目を通していた。  革張りのソファの対面には精悍な面立ちの男が、眼鏡のブリッジをクイと押し上げながら生真面目な顔で彼を見つめている。一通り手元の書類を見終えた帝斗は、目の前の男に向かって小さな溜め息を漏らしてみせた。 「ご苦労だった。短期間によくここまで調べてくれたね。支払いは現金でいいかい?」 「はい。恐縮です」 「しかし……この報告書にあることが本当だとすれば、頭の痛い話だな」 「――ええ。私も少々驚きました。今時、こんな奇特な方がいらっしゃるとは」 「奇特……ねぇ」  帝斗は今一度溜め息を落としながら眉をしかめた。  報告書というのは、自らがオーナーを務めるホストクラブでナンバーワンを張っている”波濤”についての素行調書である。帝斗が依頼した結果を報告しに、興信所の男が訪ねてきていたのだ。xuanwu(シェンウー)には専属の弁護士がいるが、今回のことは極々秘密裏にしたかった為、敢えて興信所を頼ったのだった。 「この件は例えうちの店の者であっても知られてはならないので。くれぐれも内密に願いますよ」 「承知しております」  現金で支払いを終え、男が帰った部屋で一人、デスクからシガレットケースを引っ張り出して煙草に火を点ける。渡された調書をもう一度手に取り眺めながら、オーナー・帝斗は深く吸い込んだ紫煙をゆっくりと吐き出した。

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