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第1話

「俺、来月結婚するんだ」 二十年来の友人の結婚報告を聞いたのは、生ぬるい風の吹く三月の終わりのことだった。 「へぇ…おめでとう」 絞り出した声は掠れていて、動揺を隠すかのようにビールを飲んだ。 祝福なんて、できるはずがない。 「ありがとう。お前にはちゃんと言っておきたくてさ」 目の前で嬉しそうに笑う男を恨めしいと思う気持ちと、愛おしいと思う気持ち。相反する2つの思いが、頭の中でグルグルと渦巻いていた。 『好き、…なんだけど』 大学の卒業式の時のことだ。 生まれて初めての告白…のはずだった。 『俺も好きだよ』 『…え?』 『益野は、俺の大事な友達だもん』 『あぁ…そう、だな』 恋愛対象としてであるということは言えなかった。今の関係を壊したくなかったからだ。何十年先も彼の隣で笑っていたいという気持ちの方が強かった。 彼は優しいから、もしかしたら 僕の気持ちを受け止めてくれたのかもしれない。でも、ちゃんと好きになって欲しかった。友人としてじゃなく。 独り占めしたいという気持ちがなかったわけじゃない。彼女ができたという知らせを聞いた日の夜は、涙で枕を濡らしたし、別れたという知らせを聞いた時は 佐々木を可哀想だと思う反面、心のどこかで喜んでいた。 本当の気持ちを伝える勇気もないくせに。 「益野?どうかしたのか?」 「あぁ…ごめん。なんか…こういう風に飲みに行くことも、もうなくなるのかなって思って」 「何言ってんだよ。結婚したくらいで、俺達の仲が変わるわけないだろ?」 佐々木の優しさに、喉の奥が締めつけられるような感覚を覚える。 彼からしたら結婚しようがしまいが、大した変化ではないのかもしれない。でも僕は違う。今まで通りに接しられる自信なんてない。 「…ごめん。トイレ行ってくる」 「あぁ…一人で大丈夫か?」 「平気だよ」 心配性で、少し不器用で、真面目な男。 そんな彼が結婚を決めた相手は一体どんな人なのだろうか。知りたい。でも、男に生まれてきた以上勝ち目なんてない。 そんなことは自分が一番理解していた。 トイレの個室に籠ると、我慢していたものが一気に溢れ出した。 四十を超えた男が失恋したくらいで泣くなんて…本当、どうかしてる。 「っ、…ぅ…うぅ…」 二十年だ。僕はずっと、彼だけを思い続けてきた。 結婚相手よりも僕の方が佐々木のことを知っている。佐々木との思い出の数も負けないだろう。それに、僕の方がきっと何倍も…。 彼を好きになったのがいつのことが、今ではもうハッキリとは思い出せない。 大学で知り合い、気づいた頃には彼が心の大部分を占めていて、恋をしている自分がいた。佐々木のそばにいると 安心できた。 『益野』『おはよう』『またな』 低い声が好きだった。 少し明るい髪が好きだった。 嫌いな煙草の匂いも、彼の匂いだったから許せた。 大きな背中。骨張った手も。僕がどんな目で見ていたかなんて、きっと佐々木は知る由もないのだろう。 どれくらい時間が経ったのか、聞こえてきた笑い声にハッとする。結婚を決めた男になど、本当は顔を合わせたくない。でも、ずっとここに籠っていることもできない。 ワイシャツの袖で涙を拭い、人の気配がなくなるのを待ってから個室を出た。鏡に映った自分の顔はひどく情けないもので、きっと心配されてしまうなと思いながらトイレを後にした。 「遅いから 何かあったのかと思った」 「ごめん。ちょっと混んでて…」 「そっか。まあ、土曜の夜だもんな。…益野は良かったのか?俺と飲みに来たりして」 「どうして?」 「いや、ほら…デートとかさ。そういう話、あんまり聞かないけど…」 「…ははっ。デートする相手なんていないよ」 佐々木から 飲みに行かないか、というメールを貰ったのは、先週のことだった。その時からもう結婚の話をするつもりでいたのだろうけど、僕は1人馬鹿みたいに喜んでいた。好きな人からの誘いほど 嬉しいことはない。 今日まで僕はすっかり浮かれていて、会社でも最近明るくなりましたね、なんて言われたりもした。けれど明日からは…そんな調子でいられる自信はない。 佐々木は僕の返答に少し困っているようだった。 方やデートの相手すら見つかっておらず、方や来月には結婚。同い歳の割に随分違う道を歩んでいると思う。 「僕のことより、佐々木の…結婚相手の話が聞きたいな」 自分の話をするのは得意じゃない。だからといってこの話題を振ったのは良くなかった。 「…俺の話でいいのか?」 「今日はそのために呼んだんだろ?」 「俺はただ…っ。…まぁ、そうだな」 「で、どんな人なの?」 知りたくない。こんな話、本当は聞きたくない。 「…優しい人だよ。穏やかで、一緒にいると…安心する」 「へぇ…君とならいい家庭を築けそうだ」 「益野にそう言ってもらえると…嬉しいよ」 そう言って笑う男に、僕もそっと笑い返した。 ちゃんと笑えているだろうか。少し不安になる。 「…仕事は、何をやってる人なんだ?」 「介護士だよ。家事もこなして、ちゃんと仕事もして…本当尊敬するよ」 「それは…立派だな」 「だろ?少し頑張りすぎるところがあるから、たまに心配になるんだけど…」 「結婚したら…お互い支えあっていかないとだね」 「あぁ」 結婚相手の話をする時の彼の顔は どこか穏やかで、悔しいけど佐々木が彼女に惚れていることは認めざるを得なかった。そりゃあ結婚を考えるほどの相手だから、それが当たり前だ。でも、少しくらい僕が入る隙間があるんじゃないのかと期待している自分がいた。 「…あのさ」 この後どこかで飲み直さないか という誘いは、彼の携帯の着信音によって妨げられた。 画面を見つめ バツが悪そうな顔をする男は、携帯を鞄の中へ仕舞おうとする。 「いいよ、出て。大事な用かもしれないし」 「あ…悪いな」 彼が部屋を出ていく際に聞こえた“メグミ”という名前。恋人からの電話の内容なんて、大抵同じだ。 どうやら今日はここでお別れらしい。 …そういえば、今日は煙草を吸っていなかった。 そのメグミという女性のために禁煙でもしているのだろうか。嫌だな。僕の知っている佐々木はいつでも煙草の匂いがするというのに。 「ごめん。彼女からだった」 「もう帰って来いって?」 「いや…あんまり遅くならないようにって」 「ははっ。分かってないなぁ。それは間接的に、早く帰ってきてって言ってるようなものだろ?」 「…それもそうだな」 これでいい。 最後までいい友人のままでいれれば、それでいい。 「帰ろうか」 「あ…そういえば、さっき何か言おうとしてなかったか?」 「いや。大したことじゃ…ないよ。すみません、お会計」 「…なんか、ごめんな。俺ばっかり話しちゃって」 「いいんだよ。楽しかったし」 会計を済ませて店を出ると、外では雨が降っていた。 「雨降るなんて予報だった?」 「…いや。でも、しばらく止みそうにないね」 「今日 傘ないし…」 「折りたたみ傘で良ければ、一緒に入っていく?君も駅までだろう?」 いい歳したおじさん2人で相合傘なんて、きっと傍から見たら不自然極まりない光景なのだろう。でも雨の日くらい、許してくれないだろうか。 「それに、僕だけが傘をさしているのも…申し訳ないし」 「…益野は優しいな」 「行こう。早く帰らないと、彼女が心配するだろう?」 距離が縮まり、右腕が触れる。柔軟剤の香りに混じった、懐かしい煙草の香り。微かなその匂いに、胸が熱くなった。 「また、飲みに行こう」 「そうだな。…また、いつか」 「あ、結婚式ではスピーチしてくれよ?」 「…そんな大役、僕には無理だよ」 「俺のこと一番よく知ってるのは、益野だろ?」 「そうかな。そう…だな。考えておくよ」 雨足が強くなる。打ちつける雨の音は大きく、今なら何を言っても気づかれないような気がした。 「…好き」 抑えきれない思いがふと零れた。 とても小さな声で、それでも気持ちのこもった一言だった。 「俺も…好きだよ」 驚いて佐々木の顔を見上げると、そこにはあの日と変わらない男がいた。 「益野は、俺の大事な友達だもん」 降りしきる雨の中、僕は笑っていた。 胸の痛みを感じながら、口を開く。 「君の幸せを願ってるよ。…ずっと、ずっと」 左肩を濡らす雨は、不思議と温かく感じた。 【優しい雨】

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