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1.宝石に手錠
「たいていの物語は、両思いになったところで終わる」
真面目な顔で言った隣の男に、サイモン・トルーマンは眉を上げた。
「は?」
狂人を見るような目で疑問符を投げつける。ジャック・ロウアンはビールのジョッキを静かにカウンターに置くと、「な?」と言い返した。
「酔ったのか? 会話をしてください」
トルーマンが言うと、ロウアンはうれしそうに「お」と言った。
「美人の冷たい目はたまらないね」
トルーマンはますます狂人を見るような目になる。ジョッキをつかみ、口元に持っていくと中身を飲み干す。もう帰るつもりだったのだ。
店の奥のフロアで、アコーディオン弾きが演奏をはじめた。テンポの速い軽快な曲で、酔客たちから賑やかな野次が飛ぶものの、それもまた演奏と調和していた。暖炉の火が躍り、影をつくって、アコーディオン弾きが大きく見える。猥雑でエネルギッシュな空気がたちこめる土曜日。
隣で鼻歌を歌っている年上の男を見て、トルーマンは淡々と言った。
「暇なんでしょう? 明日は日曜日だから」
「そう、うちは休業」
宝石店従業員のロウアンは、にこにこして機嫌がいい。ジョッキの持ち手をがっしりした手の甲で押して、隣を向く。
「トルーマン君はもちろん仕事か? 刑事さんは忙しいもんな」
ロウアンに「刑事さん」と呼びかけられるたび、トルーマンはおちょくられている気がして眉間に皺が寄るのが常だった。それから、必死で自分に言い聞かせる。いやいや、この人は根はいい人なんだから。
トルーマンの顔が険しいのも気にせず、ロウアンは大きな声でカウンターの向こうに言った。
「この紳士にビールをもう一杯」
トルーマンが横から静かに言う。
「ギムレットだ」
主人が太い指でごそごそしているあいだ、ロウアンはにこやかで、トルーマンは怖い顔をしていた。それから左手の薬指にはめた指輪をちょっといじる。口を開け、尋ねようとした。「いったいなんだって言うんだ? 両思いになったところで物語は終わるって、だからどうしたんです?」
しかしロウアンが先だった。煙草の灰を灰皿に落として、年下の男の青い目をじっと見る。すると、トルーマンの喉で言おうとした言葉はおじけずいて丸くなった。ロウアンの灰色の瞳は妙に輝いている。そばにある、青いタイルばりの小さなランプのせいだろうか? ロウアンは唐突にささやいた。
「奥さんのこと、今でも大事に思ってるんだな」
「は?」
「結婚指輪をはめてる。もう、故人なのに」
これがロウアンじゃなかったらぶん殴ってるところだ、とトルーマンは思った。たしかに、開けっぴろげな性格は美点になる。しかし、トルーマンはふしぎだった。こんな性格で、よく詐欺師や強盗やスリができたものだと。そこで刑事は首を振る。いや、結果的には「できなかった」のだ。だから今は宝石店の従業員。
働いているときはしっとりした格調高い雰囲気に溶けこんでいるくせに、どうしてこっちのほうが素なのか。(トルーマンは店でのロウアンを知っていた、一度職場に行ったことがある)
彼はそっけなくロウアンをあしらおうとした。
「再婚を世話されるのが面倒で、つけてるんです」
「美しい思慕の情が煙幕になってくれるわけか」
「まわりが勝手に勘違いして、遠慮するんですよ。普通はそういうはずなんですが」
トルーマンが冷ややかな目で見ると、ロウアンはうまそうに煙草を吸っているところだった。
「彼女のことはもうなんとも思っていません」ギムレットを飲みながら、トルーマン。「おれを捨てて男と出ていった女だ。『あなたって変。それにおもしろみが全然ないわ』。今でもあの絶望的な顔を覚えてますよ」
「いや、きみはおもしろいよ」
ロウアンが真面目な顔でそう言って、トルーマンの胸はきゅっと締めつけられた。だからぶっきらぼうに言う。
「おれの妻の話はどうでもいいだろう」
「会ってみたかったなと」
「あなたと知り合う二年前に、妻は死んだ。指輪は誰とも結婚しないという意思表示。だからあなたがそれについてあれこれ考える必要はない。わかりますか?」
そう言ってトルーマンはギムレットを飲み、洞窟の中で燃える松明を思わせる、明るさを放つ奥のホール――たしかに洞窟の中のように蒸し暑い――のほうを向いて、歓声と音楽が賑やかに、複雑に絡みあうのを聴いていた。ロウアンはビールを飲み、ぼんやりしている。
トルーマンは急に彼のほうを振り向いた。
「だからどうだというんだ? 両思いになったところで物語は終わる、っていうのは?」
眉間を揉みながら、ロウアンは「うーん」と唸った。ランプで照らされる横顔は、トルーマンの目にはっとするほどハンサムに見える。やればできるのに、どうしてしないんだろう。若い刑事はとてもふしぎな気分になる。かつて詐欺師だったころ、如才なさと洗練された優雅な物腰で、用心深い貴婦人たちすら進んで彼に宝飾品を預けていたのは、嘘でも誇張でもないのに。
それに今だって……その気になれば供給する側として信頼を勝ち得て、うまくやっている。
ロウアンは「ほら」と歌うように言った。
「両思いになったら物語は終わる。だいたいそうじゃないか?」
「たしかにそうかもしれない。おとぎ話でも……」
「恋愛小説でも」
ロウアンはまるで恋愛小説を愛読している若い娘のようにうなずいた。
「それは当然だ」とトルーマン。「恋愛小説なら、起承転結の結は絶対に『二人はデキました』で終わるはずだ。話の筋がそういう流れなんだから」
「その通り。二人は困難を乗り越えて結ばれた。だからその先に、さらなる困難があってはならない。だけど現実は、『二人は結ばれました。めでたし、めでたし』で人生に幕が引かれるわけじゃない。ほんとはみんな気がついてる。本当はなにひとつ変わったものはなくて、現実世界は続いていく。残酷で、いかようにも。奥さんに捨てられたり。再婚防止のために、今ではなんとも思っていない女とかつて誓った愛の指輪をはめ続けてるみたいに」
「おれの指輪の話はもういいでしょう。それはそうと、恋愛小説は夢を描くものだ。みっともなくて、しょぼくれた現実なんて描かない。惰性でいっしょにいる夫。もう飽きてしまった。手のかかる子どもたちを追いかける毎日に気が滅入って狂いそう、なんて」
「それに、思うんだ」ロウアンはビールを飲み干して言った。
「カップルになった途端馴れ合いがはじまって、なんだかどっちも似てきちゃって、つまらないなあって」
トルーマンはシガレット・ケースから取り出した煙草をくわえて火をつけた。
「恋人たちはあなたを愉しませるためにカップルになるんじゃない。ということですよ、ロウアンさん」
「あんまりお互いに隙があるのもな、だらしないというか。この人なら甘えても許してくれる、っていう安心感も大切だとは思うけど、いつもそれじゃあだらしないよ。やっぱり、恋人同士であっても、互いに謎が残っていなければ。多少の緊迫感がないと」
「ロウアンさん」トルーマンは静かに言った。「からみ酒ですか?」
「きみには絡んでないだろ」
「そのセリフは聞き飽きた。だからなんだって言うんだ?」
そう言いながら椅子から腰を浮かすが、ロウアンは止めようとしなかった。
「おれの美学」
さらりと言った年上の男に、トルーマンは腰を浮かせた姿勢でしばし固まる。癪だと思いながら、結局椅子に腰を下ろした。吸い殻のたまった汚い灰皿を横に押しやり、改めて隣の男を見る。「非情で厳しいリアリスト」。ロウアンが現役の犯罪者だったとき、そうささやかれていた。どこがだ、とトルーマンは思う。彼の目に、隣の男は夢見がちに映る。変なところで潔癖だ。カップルたちが馴れ合おうと、風紀と法を乱さないならなにをしてもいいし、どうあってもいいとトルーマンは思う。
そこで胸が苦しくなった。彼は法を犯していた。
逞しい体をやや丸め、灰色の目をぼんやりさせて、ロウアンは煙草を吸っている。煙が緩やかに波打つ黒い髪を撫でる。
「おれは美学で生きてる」
そう言って、年上の男は煙を吐いてにっこりした。
油断するとむさくるしくなる四十三歳のくせに、なにを言ってるんだ。トルーマンはそう思った。そしてそんな隣の男を愛おしく思った。
「もう帰るのか?」
よく見ると、そう言ったロウアンの顔は緩んでいる。だいぶ酒が回ってきたらしい。ざるのトルーマンは一瞬、ためらった。家に送り届けたほうがよくはないか? しかし、すぐに大丈夫だろうと思い直す。下宿はこの近くだ。雪で地面が凍った一九〇五年の十二月。滑って頭を打たなければ、明日もこの男は元気だろう。
「帰るよ」
椅子から立ち上がって、トルーマンはそっけなく言った。
「おやすみ、ロウアン」
「おやすみ」
ジョッキを傾け、中が空だということに気がついて、ロウアンは首を振った。それからトルーマンの背中に視線をすべらせる。刑事は視線に気がついて振り向いた。酔った目が左手の薬指に注がれていることに気がついて、トルーマンはその手をそっとコートのポケットに滑りこませた。灰色の目を見て言った。
「わかってる。明日は外しておく」
ロウアンはうなずかなかった。笑いもせず、そばにパブの主人がいても動じず、「それがいい」と言った。
「じゃあ、また」
そう言って、手を伸ばして衣服越しにトルーマンの腰に触れた。彼はおとなしく、二本の指に押されるように店から出ていった。
凍った道を、白い息を吐きながら歩く。ざくざくと音がして、馬車の轍で固くなった真っ黒な道を壊すように歩いた。
「男同士でつきあったら、罰せられるんだぞ」
そう言った自分の口調がいかに滑稽だったか、トルーマンは今でも思いだす。ロウアンはいつも通りだった。
「でも、好きになったから。それに経験上、法を犯すのは別にたいしたことじゃない」
警官をおちょくってるのか、とトルーマンは思った。しかしその傍若無人さに、心はどうしようもなく惹きつけられた。燃える目で見ていると、ロウアンは言った。
「肉体関係をもったら罰せられるんだな、たしか? なら、つきあっても、別に……」
「それをせずにいられるなんて、信じられない」
仏頂面で言った刑事に、ロウアンは笑った。
「やっぱりきみはおもしろいよ、サイモン・トルーマン君」
そんな要素はどこにもなかった、とトルーマンは今でも思っている。
そして思う。あんたのほうが謎だらけだよ、と。まるで殺人現場の血の海の中に落ちていた、一粒の宝石のように。
ロンドンの街は黒々としている。まるで月が空から落ちてきたかのようだ。闇は深く、空気は凍てついている。それでも澄んだ匂いはしない。寒さのせいで、誰もいなかった。あまりに暗く、そのために影のない世界だった。その中を、トルーマンは音を立てながら歩いていく。
ポケットから手を出して、薬指の指輪を外した。指輪を持った右手をポケットに、左手を反対側のポケットにつっこむ。
白い息を吐きながら、トルーマンは今夜の会話について考えてみた。
一、恋が成就しても現実は終わらない。
二、恋人同士になっても多少の緊迫感は大事だ。
三、ジャック・ロウアンはロマンチスト。
四、惚れたほうが負け。
この若い刑事は、いつだって冷静だ。
ロウアンのことを考えた。トルーマンは胸を引き裂かれそうな狂おしい感情に、ときどき激しく襲われる。そのうえ、常になにかと困らせてくる相手。だからだろうか? 離れると視界がクリアになったように感じる。空気に酸素が戻ってくる。影さえなく誰もいない世界で、トルーマンはつかのま自由だった。
角を曲がって、日曜日のことを考える。明日になったら。彼の言う美学を多少は聞いてもいい。
宝石に手錠をかけようとするみたいに、おれの力はあの人の前ではなんの役にも立たない。そのきらめきさえ縛れないことを、トルーマンは知っていた。
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