「じゃあ、行ってきます」 「あ……ちょっと待ってくれ、冴香」 玄関でヒールの高い靴を履き、颯爽と背筋を伸ばして出掛けようとする冴香に、薫は急いで声を掛けた。 くるっと振り返る冴香の笑顔は、もう既に仕事に向かう時の凛々しさと自信を纏っている。 薫が思わず苦笑すると、冴香は眉をあげて 「なあに？その笑い方。私の顔に何かついてる？」 薫は笑いを噛み殺しながら 「いや。君は相変わらずだな、って思ってね」 「ふーん？貴方もそういうところ、相変わらずだわ。言いたいことがあるなら言って？」 くすくす笑いながら腰に手を当てる冴香に、薫は靴を引っ掛けて歩み寄ると 「綺麗だよ、奥さん。でも今朝はひとつ忘れ物してるよ」 「忘れ物？」 薫は冴香の腰を抱き寄せると、そっと口付けを落とした。 「朝、出がけに行ってきますのキスをされる人間は、出世が早い。前に君から聞いた言葉だよ」 冴香は目を細めて笑って 「ふふ。それは男性の場合でしょ。さ、手を離して。早く出ないと渋滞に巻き込まれちゃうから」 冴香は薫にお返しのキスを素早くすると、背を向けて出て行った。 薫は何とはなしに軽くため息をついて、ドアに鍵を掛け、リビングに引き返す。 大学卒業後、今の事務所に勤めて５年が経っていた。冴香とよりを戻し、半年間の同棲の後、結婚して今日で丸２年になる。 彼女は何も言わなかったから忘れているのかもしれないが、今日は結婚記念日なのだ。 「仕事帰りに迎えに行って、何処かで食事でもするか……」 ２週間ぶりにもぎ取った、貴重な連休初日だ。明日は冴香も仕事は休みだから、今日１日は１人でのんびり過ごすつもりだった。 薫は書斎に行って自分専用のパソコンを起動させると、冴香の仕事場近くの店を検索してみた。 このところ、自分も彼女も仕事がかなり忙しくて、外食やデリカショップで買ってきた物で適当に夕食を済ませていた。本当は自宅で冴香の手作りの夕食が食べたいところなのだが、彼女も残業続きで疲れている。かといって、薫自身は料理はまったくやらない。何処か上手い和食の創作料理が食べられる店で、冴香と２人ゆっくりと記念日を祝う方がいいだろう。 ２、３軒めぼしい店をピックアップして、クチコミをチェックしてみる。 ふと、以前、事務所の社長から教わった和食の美味い店のことを思い出した。冴香の職場からは少し離れているから、仕事帰りの彼女を拾って車で行ってみてもいいかもしれない。酒が飲めなくなるのはちょっと残念だが、晩酌なら自宅に戻ってからでもいい。 「よし。そうするか」 薫は立ち上がって自分の鞄から財布を取り出した。もらった名刺はたしか財布の何処かに入れたはずだ。 『ピンポーン』 玄関のベルが鳴る。薫は首を傾げ財布をポケットに入れると、書斎から出た。