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七十九、亜樹の失恋
珠生の家を訪れるのは、これが二度目であった。エントランスホールのソファに腰掛けて待っていると、珠生がすっかり身軽になって戻ってきた。チョコレートを置いてきたせいか、えらくすっきりとした顔をしている。
「おまたせ」
「あ、うん」
二人はぶらぶらと道を歩きながら、植物園の方へと向かった。あの辺りは鴨川の河川敷も広く、とても気持ちがいいのだと、珠生は笑顔で亜樹に話している。
みすずが吉良佳史にチョコレートをあげようとしているのだということや、昨日百合子が湊を心配していたことなどを話しながら歩いていると、思いの外早く鴨川へ出た。亜樹は京都に住んで長い割に、こういう場所に来たことがなかったため、珠生とともにここへ来れたことが、純粋に嬉しかった。
たたっと階段を降りて河川敷へと急ぎ足で向かう亜樹の後ろから、珠生が笑顔を浮かべてついてくる。
「へぇ、ええなぁ。めっちゃ落ち着く」
「だろ? あっちにベンチもあるし……あ、そうだ、これ」
珠生は制服のジャケットを脱いで、コートを着込んでいる。そのポケットから缶の紅茶を差し出し、亜樹に差し出した。亜樹は照れ臭さを隠しながら、 「気がきくやん」と言った。
「そうだろ」
と、珠生は反対側のポケットから缶コーヒーを取り出し、にっこりと笑う。
二人はベンチに腰掛けて、穏やかに流れる川の流れを眺めた。
ここのところ雨は降っておらず、川の水はいつもよりも少ない。夏ならばぼうぼうと生えている草も、今は元気の無い黄土色で、川べりはどことなくうすら寂しい印象すらあった。
しかし、土手を上がれば常緑樹の木々が規則正しく並んでいるため、青々した木々の息吹を感じることもできる。厚着をして犬の散歩をしている老夫婦、ジョギングをする大学生風の男、自転車でさっそうと走り抜けていく人。ほどよく河川敷には人の気配があり、落ち着いた。
「……そこで、初めて舜平さんと会ったんだ」
しばらく黙り込んでいた珠生が、街路樹の並びから大きく河川敷へとせり出した桜の木を見つめながらそう言った。ほんの数メートル離れた場所を見つめているだけなのに、えらく遠くを見ているような目をしている。
「……そうなんや。いつ?」
「高校の入学式の数日前、だったかな。俺はまだ京都に来たばかりで、父親に植物園を案内してもらった後、桜が見たくてここへ来たんだ」
「へぇ」
「あの木……五分咲きくらいだったのに、ふと気づくと満開に咲いてた。桜の花びらが雪みたいに舞ってて……。その下に、幻みたいに、前世の自分が立ってたんだ」
「え?」
亜樹は身を乗り出して、珠生の向こうに見える桜の木を見た。今は枯葉一枚すらついていない茶色い幹だ。
「ものすごく頭が痛んで……俺はあのへんでちょっと倒れかけてたんだ。そしたら、大丈夫かって、舜平さんが……」
珠生は河の方へ視線を移し、静かに淡々と続けた。
想いを整理するように言葉を選ぶ珠生の横顔を、亜樹はじっと見つめていた。
「会ったこともない人なのに、ものすごく懐かしい感じがした。苦しくなるくらい、舜平さんのことを欲しいと思った。舜平さんの目の色も、一瞬変わって……」
「ほ、欲しい……?」
「えっ……いや、その……」
つい、一人語りになっていたせいで、余計なことまで言ってしまった。珠生は慌てて口を閉じる。
そして珠生は気を取り直すように目を閉じて、ふうと息を吐いた。
「前世からの付き合いだってことが分かって……それ以来ずっと、あの人は俺のそばに居て当り前だった。だから、舜平さんがアメリカに行くって言った時は、だいぶ俺も動揺してしまって……今振り返ると恥ずかしいんだけど」
あの時は、湊や彰にずいぶん心配と迷惑をかけた。
こうして話をしているうち、あの頃の自分も、今の自分も、同じように情けないことに気づく。
舜平のことで、湊や彰だって動揺しているはずだ。そこに追い打ちをかけるように、珠生は舜平を突っぱねた。自分にとっての舜平のことしか、考えていなかった。
思い返せば、湊も彰も自分と変わらず、舜平とは前世の頃から付き合いは濃かった。あの二人だって、ずいぶんと舜平のことを頼りにしていたはずだというのに……。
――俺は、変わらなきゃいけない。
無言で、身じろぎもせずに話を聞いていた亜樹が、ふと息を吐いた。その気配に、珠生は亜樹を見る。
「舜兄とは……あれから会ってへんの?」
「……俺、舜平さんにひどいこと言ったんだ。だから、自分からは会いづらくて。一人になって、考えたいこともあるって言ってたし、さ」
じっと川面を見つめて、亜樹は珠生と同じくらい神妙な顔をしている。
「ごめん、なんか暗い話になっちゃって……」
「ううん、いいねん。あんたがいったいどう思ってここ一ヶ月をやり過ごしてきたんかなって、ずっと気になってたし」
「……そうなんだ」
「深春がな、舜兄に会いに行ったことがあって」
「え」
「京都駅で会ってんて。いつも通りには見えたけど、何の言葉もかけられんで、随分歯がゆい思いしたらしいねん。その時、珠生は元気かって、あんたのこと心配しとったらしいよ」
「……」
久しぶりに、舜平の笑顔を思い出す。
今まで珠生が思い出す舜平の顔は、あの病院で言い合いをしたときの痛ましい顔ばかりだった。ひどいことを言った後悔と、舜平があんなに弱気になっている姿がショックで、心にずっと、あの表情がこびりついていて離れなかったのだ。
「うちも会いたいけど、確かに、なんて言ったらいいか分からへんしな……って思ったりしてさ」
「そっか……」
「あんたは? 落ち着いてきたんなら、また会いに行ったらいいのに」
「うーん……。……あ、俺今さ、自分で妖気と霊気をコントロールできるように、比叡山で修行してんだ」
「あ、そうなん? 知らんかった。すごいやん」
「いや、今までやらなかったのが駄目だったんだ。もっと早くこういうことしてりゃ、舜平さんにあんなこと言わなくて済んだのに……」
「何を言ったかは聞かへんけど、あんたと舜兄って、前世からえらい濃い関係やねんな」
「……舜平さんは、俺の霊気を高める能力があるんだ。前世でも、今世でも、俺はそれに甘えすぎてて、ずっと修業を怠ってた。だから、心細くなっちゃって要らないこと言ったってわけ」
「そっか……。ん? ……高めるって、どうやるん」
「それは……」
珠生は一瞬迷った。
が、考えてみると、ここまで話を聞いてもらっておいて、舜平との関係のことだけを伏せるのは不自然なような気がした。
少し迷ったが、亜樹に隠す必要などもうないような気もしていた。珠生は少しためらいながら、こう言った。
「ええと……口移しとか、身体の交わりで……とか、なんだ」
「…………えっ!? それって、……え?」
亜樹は、呆然として珠生を見つめている。
いきなりこんなことを言っているのだから無理もないだろうが、珠生は慌てて「あ……ごめん。気持ち悪いよな、こんなの」と、付け加えた。
「い、いや……いいねん。ちょ、ちょいびっくりしただけ……。……え、え……その、てか、大丈夫なん……? あんたは、そういうことされても、ええと……」
「うん……。俺、舜平さんのことが好きなんだ。千珠だった頃から、ずっと、今でも」
「……へ」
呆然とした表情を浮かべていた亜樹が、のろのろと視線を川面へと戻していく。
そして、ぎゅっとスカートを握り締めつつ、つぶやくような声でこう言った。
「そ、そうやったんや……。そっか、舜兄のこと……。仲良いなって思ってたけど、……そっか……うん……へぇ……」
ざあ、と強い風が吹いた。ぶる、と身を震わせる亜樹を見て、珠生は気遣わしげに言った。
「寒い?」
「え……っ? あー……まぁ、ちょっとは」
「そんなスカート短かったら、脚も寒そうだね」
「ど、どどど、どこ見てんねん! スケベ!!」
短いスカートから覗いていた太腿を鞄でばばっと隠すと、亜樹は真っ赤な顔をしてそっぽを向いた。
「見たくて見てるわけじゃないじゃん。てかそんなスカート短かったら、見たくなくても眼に入るだろ」
と、珠生もむすっとした声でそう言う。
「これはファッションや。てか見たくなくてもって、どういう意味やねん。女子高生の脚がどんだけ貴重なもんか分かれへんのか」
「貴重って、自分で言うなよ。てか見えてんだからしょうがないじゃん」
久々の言い合いに、亜樹は気が抜けてちょっと笑ってしまった。そんな亜樹の表情を見て、珠生も毒気を抜かれたように少し笑った。
「アホらし」
「ほんとだな」
湊や舜平、彰や深春とぎゃあぎゃあと言い合いをしていたときのことを、懐かしく思った。賑やかな高校生たちを、舜平はいつも笑って見守っていた。舜平がいるから、皆安心してはしゃいでいられた。
「……俺、もうちょっと修行を頑張るよ。それで、舜平さんの力を借りなくても、自分で何とか出来るようになったら……ちゃんと謝りに行く」
「そっか。じゃあうち、明日会いに行こっかなー」
「え!? 何でそうなるんだよ!」
「だってほら、バレンタインやし。舜兄にもチョコ作ったんやで」
「え? 天道さんが? チョコとか作るの?」
心底以外だったのか珠生は大きな目を更にまん丸くして、亜樹を見た。その素直すぎる反応に、亜樹はまたぴきりと青筋を作ったが、ちょうどいいので珠生にも今、チョコレートを渡すことにした。
鞄からごそごそと、白い包みにブルーのリボンを巻いたものを取り出すと、亜樹は無言で珠生に押し付けた。
珠生は目をぱちくりとして、それを受け取る。
「……え」
「あげる。どうせ家に帰ったら山盛りあるんやろうけど、一応あんたのも作ったったから」
「うそ、俺に?」
「あんた以外、ここに誰がおんねん」
「うわ、ありがとう。嬉しいよ」
珠生は驚愕の表情から、後光がさすほどに神々しくも美しい笑顔を浮かべた。あ、本当に嬉しいんだなと分かる表情に、亜樹はまた思わず赤面する。
――失恋したばっかやのに……うち、何やってんねやろ……。
しかし、不思議と黒い感情はなかった。
二人の間に恋愛以上の絆があることを、薄々どこか察してはいた。
こうして珠生が、自分から亜樹に話してくれたことが、良かったのかもしれない。恋愛感情は望めなくとも、珠生から信頼されているのだろうと思うことができたから。
早速リボンをほどいて包みを空けている珠生が、中に入っていたトリュフチョコレートを見ておお、と声を上げる。そんな珠生の姿を見て、亜樹は気が抜けたように微笑む。
「美味しそう。食べてもいい?」
「い、いいけど……。あんた家でも食べなあかんやろ」
「あれはまぁ、父さんと分けてぼちぼちね。いただきまーす」
ぱく、と一口で丸いトリュフを食べた珠生は、もぐもぐしながらまた微笑んだ。
「おいしい」
「そら……良かった」
「天道さんって意外と料理できるんだね」
「だからいちいち意外ととかいらんねん」
「でも、嬉しいな。天道さんがこんなことしてくれるなんて」
嬉しそうにチョコレートを食べ、コーヒーを飲んでいる珠生はまるで小さな子どものようだった。素直で、思ったことはすぐに顔に出るし口にも出る珠生を、側で見ているとやっぱり好きだなと思う。
――好きやけど……でも。
今は、珠生のことも大事だが舜平のことも気がかりだ。みんなが元気で笑っていて欲しいと願うのは、贅沢なのだろうか。
珠生と舜平がすれ違っているのは、自分の失恋以上に悲しいことのように思え、亜樹は敢えて明るい口調でこう言った。
「舜兄、会ってくれるかな。せっかくチョコ作ったんやし」
「天道さんのことは妹みたいに思ってるみたいだから、きっと会えるよ」
「あんたも意地はらんと、早う会えばいいやん」
「今は、だめだ。もっと強くなってからじゃないと、意味ないし」
「ふうん……。そっか」
「ま、よろしく言っといてよ」
「うん……」
珠生は微笑んで、すっかり食べてしまったチョコレートの包みを丁寧に畳み、ポケットに仕舞いこんだ。缶コーヒーを飲み干して空を見上げながら息を吐く珠生は、ここへ来た時よりも軽い表情になっているように見えた。
「ありがとう、天道さん」
「え?」
顔を上げると、珠生の美しい顔が間近にある。珠生はいい顔をしていた。今までずっと曇っていたものが、すっきりと晴れたような精悍な表情を浮かべて微笑んでいる。
その顔はいつになく男らしく見えて、亜樹は呆然と珠生に見惚れてしまった。
「話を聞いてくれて、ありがと」
「……あ、そう……」
「ずっと、もやもや弱い気持ちばかりが頭にあって、全然駄目だったんだ。でも、天道さんと口喧嘩したり、手作りのチョコ食べたりしてさ、なんかすごく……元気でたよ」
「……」
珠生のきらきらした胡桃色の瞳に、吸い込まれそうだった。亜樹はぼんやりとしたまま、こくりと頷く。
「俺、頑張って修行する。これからは、俺がみんなを引っ張っていけるくらい、しっかりしなきゃ」
「……う、うん」
顔を赤くして呆然としている亜樹を見て、珠生はまた微笑んだ。そして、すっとベンチから立ち上がる。
「帰ろうか。これ以上冷えたら良くないね」
ゆっくりと歩きながら、珠生は亜樹を見下ろしてにっこりと笑った。その優しい笑みの中に、亜樹はいつもよりずっと強い意志を湛えた珠生の表情を、確かに見て取っていた。
学校で一緒に帰って欲しいと言っていたときは、あんなに情けない顔をしていたというのに、今はえらくすっきりとして男らしい顔をしている。
――ちくしょう。かっこいいな……やっぱ。
認めたくはないが、そう思わずにはいられなかった。珠生が一段回成長した姿を目の当たりにして、そんな彼を、もっともっと見ていたいと思った。
――そばで見てるくらいなら、許される、かな……。
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