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六、壁

 夏休みに入る前日、珠生は楪正武とともにキャンパス内を歩いていた。じりじりと肌を焦がす真夏の日差しで、珠生の肌にもうっすらと汗が浮かんでいる。校舎の陰を選んで歩いていても、肌にまとわりつく熱気からは逃れられない。 「でさ、優征が旅行行こうって言ってんねんな」 「ああ……、免許合宿はトランプしかしてないもんね」  正武は暑そうにぱたぱたとクリアファイルで顔を扇ぎながら、昨日の部活で話題に登った旅行のことを、珠生に報告しているのである。免許をとったら行こう、ということになっていた旅行のことだ。  莉央らを始め、大人たちは祓い人の動向について調査すべく色々と動いているが、それらのことは、まだ珠生ら大学生には何一つ伝えられない。  春から夏にかけては、「今は動くべき時ではない」という莉央と藤原のきっぱりとした態度に、若者たちは従うことしか出来ないでいた。同時に、「やれることをやっておくべし」という莉央からの命令により、皆の修行時間がかなり増えた。珠生など、何度比叡山に篭ったかわからないほどだ。  授業の合間をぬってアルバイトへは行っていたが、友人たちと飲んだり遊んだりといった学生らしいことはあまりできていない状態だ。  修行に励む時間が増えた分、昔を思い出すことも増え、夜な夜な前世の夢をみる日々。  それにすら慣れてしまった時、珠生は自分が今どちらの世界で本当に息をしているのかということが、分からなくなってしまうのだ。  その状態が意識の混乱によるものなのか、それともそうあることが正しい状態なのかすら、珠生には分からないでいた。  そんな時いつも舜平が手を引いてくれた。  こっちが現実だと、引っ張りあげてくれた。  舜平に抱かれることでようやく、現実を感じる。  力のコントロールは出来るようになってきたものの、結局、舜平に頼りきり。珠生はそんな自分に、歯がゆさも感じている。 「珠生? 聞いてるか?」 「あっ!? あ、うん、また細かいこと決めないとね」  珠生がそう言って微笑むと、正武は咥えていたブリックパックのコーヒーを啜って頷く。 「夏やしなぁ。やっぱ海かな。うまいもんも食いに行きたいけど」 「また湊に調べておいてもら……って、湊だ」  ぶるぶる震えるスマートフォンをポケットから取り出すと、湊からの着信だった。ようやく使いこなせるようになってきたスマートフォンを操作して電話にでると、湊の落ち着いた声が聞こえてくる。 『これから時間あるか。比叡山に来て欲しいって連絡あってんけど』 「あるけど……なんかあった?」 『分からへん。舜平が迎えに来るらしいから、とりあえず正門前で落ち合おう』 「分かった」  短い会話で電話を切ると、珠生は正武に笑顔を見せてこう言った。 「じゃあ俺、バイトあるから帰るね」 「おお。俺も部活行くわ。また明日な」 「うん、おつかれ」  軽く手を上げて正武の大きな背中を見送ったあと、珠生は早足に正門へと向かった。  何故だか急に、激しい胸騒ぎを感じた。   +  その日の夕方に京都へ戻ってきた舜平は、言葉少なに講義終わりの珠生と湊を誘い出し、比叡山の麓へとやって来た。舜平と彰には事の詳細が伝えられていたが、珠生と湊にはまだ話すことが出来ないまま、道場へと到着してしまう。  道場の近辺には黒いスーツの職員がうろうろしており、緊迫した空気に満ちている。皆の表情が硬く、そして珠生を見る目もどこか余所余所しい。それがさらに、珠生の不安を煽った。 「これは……どういう事ですか……!?」  珠生は愕然とした。道場の奥の一室に、深春が捕らえられている。金色に光る手枷と足枷をはめられた状態で、冷えた板張りの床に座らされているのだ。  うなだれて目を閉じ、ぐったりとしている様子の深春を見た途端、珠生は血相を変えて深春に駆け寄り、その傍らに膝をついた。  舜平と彰は、硬い表情で目を見合わせる。 「一体何でこんなことに……すぐ外してやるから」  珠生が手枷に触れると、深春はぴくっと体を揺らして顔をゆるゆると上げた。そして、力なく首を振る。 「……俺が頼んだんだ、こうしてくれって」 「何でだよ!?」 「じゃないと俺……何しでかすか分かんねぇから」 「深春……どうしたっていうんだよ」 「珠生くん……俺……駄目だわ。やっぱ、幸せそうなやつ見てると、憎らしくなってしょうがねぇんだ。何で俺ばかりが、こんな目に遭うんだって、どうしても思っちまう……」 「……違う。お前は今、修行中だったから、心が揺らぎ易くなってただけだ。いつものお前は、そんなこと思わないよ」 「駄目だ。俺はやっぱ……まともにはなれねぇよ。もうここにもいられない……」 「深春……」  打ちひしがれ、涙も枯れ果てたような表情を浮かべる深春に、珠生は指すら触れることが出来ない。  珠生の後ろで、舜平と湊は何も言えぬまま佇むことしか出来ないでいる。  それぞれの胸に、深春の立場は悪い方向へと向かうに違いないという、不吉な確信があった。それ故、どんな慰めの言葉も、思い浮かんでこないのだ。 「……悪いけど、一人にしてくんねぇか。今は誰にも、会いたくないんだ……」 「でも」 「頼むよ」  食い下がろうとする珠生の声を遮って、深春は強い口調でそう言った。  舜平の手が、珠生の肩に触れる。促されて顔を上げた珠生は、舜平の目線に従ってのろのろと立ち上がった。三人は、何も言わずにその部屋を出た。

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