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悠一郎の頼みごと〈1〉

   とある秋の日。  なかなか紅色に染まる気配を見せなかった木々が、突然見事な紅葉を枝に飾るようになったある日のこと。  珠生はいつもの喫茶店で悠一郎と向かい合ってコーヒーを飲んでいた。「頼みたいことがあんねん」と、突然呼び出されたのである。  職場である結婚式場での仕事が忙しくなった悠一郎と、こうしてのんびりコーヒーを飲むなど久しぶりのことだ。  一時期は自信を失っていた悠一郎だが、今はある程度の場数をこなしてきたおかげもあって、見違えるようにはつらつと仕事に励んでいた。そんな今でも時折、珠生は悠一郎のカメラに映り込むこともある。今でも悠一郎は、自身のプライベートな作品として、珠生の写真を撮り続けていた。  日常という喧騒から離れ、自然の中に分け入って、珠生とカメラとだけ向き合う時間というものは、悠一郎に多くのインスピレーションをもたらすものでもあり、癒しでもあるらしい。 「頼みって何?」 「ええと……あのさ、結婚式場のポスターのモデル、やってくれへんかなと思ってな」 「け、結婚式場のポスター?」 「そうやねん。頼んでたモデルさんが急に盲腸炎になってしもて、来られへんようにならはってな。撮影日も迫ってるし、急な代役を頼めるようなモデルさんがいいひんくて」 「盲腸かぁ……じゃあ、無理だね。うん、いいよ」 「ほんまか!! ……ぁあ、ありがとうな、めっちゃ助かる!!  「あっ……一応聞いておきたいんだけど。それ、式場に貼るだけ? ネットとかで公開したりするの?」 「一応HPにはアップさせてもらいたいし、広告にも使いたいねんけど……あ、大丈夫やで。顔がバーンとでるもんとちゃうねん。俺、式場の雰囲気の方を大事にしたいと思ってるし、式場側もモデルメインの写真を目立たせるんじゃなくて、自慢の式場を美しく引き立てるような写真にして欲しいって言ってはるし!」 「そっかぁ。うん、ならいいよ。いつ?」  悠一郎の撮る写真であるならばきっとそういうものであろうと、珠生は薄々分かっていた。が、念のため確認をしたのである。悠一郎はアイスコーヒーをずずっとすすった後、少し申し訳なさそうな顔でこう言った。 「そんでな、その撮影日が明日やねん。……スケジュール、空いてる?」 「明日!? ……ええと、うん大丈夫。部活は休めるし」 「ごめんなぁ、ほんっまに助かる! ありがとうな!!」 「うん。どこに行けばいい?」 「南禅寺の近くにな、京瑠璃庵っていう結婚式場があるんやけど、知ってる?」 「知らない」 「せやんな。ええとな、場所は京都市美術館のそばやねんけど……」 「あ、住所教えてくれたら直接行くよ?」 「そう? ほな、後でメールしとくな」 「うん」  珠生がそう言って微笑むと、悠一郎は心底ホッとしたような表情でソファにもたれた。そして、いつものようにカツサンドをオーダーしている。安心したら腹が減ったのだろうか。 「時間、どれくらいかかるかなぁ」 「せやなぁ……着替えなんかも含めてまぁ……四、五時間位みといてくれたら嬉しいんやけど。何かその後用事あるん?」 「ううん、大丈夫だよ」 「はぁ、ほんまに助かるわ。さ、いっぱい食べや!」 「あ、うん。ありがとう」  そうして二人はカツサンドを食べながら、しばし芸術について語り合ったのだった。  +  +  その日の晩、珠生の家に舜平がやって来た。その日催されたゼミ飲み会で酔いつぶれてしまった健介を、舜平が送って来たのである。  いつものように健介を寝室に寝かせた後、舜平は珠生の待つリビングへとやって来た。差し出された水を一気飲みし、舜平はぷはぁと息を吐く。そして、珍しくこんなことを言い出した。 「珠生、明日空いてへん?」 「え? なんで?」 「いや……別にこれといって何ってわけじゃないねんけど……。最近お互い忙しかったしさ、たまにはゆっくりどっか行かへんかな……と思って」 「あー……ええと……」  これはデートの誘いだろうか。舜平が面と向かってこんなことを言い出すのは、至極珍しいことだ。  だから、すごく嬉しい。でも、間の悪いことに明日は大事な用事がある。  珠生は複雑な思いを抱えつつ、明日のポスター撮影の予定について、どう説明しようかと逡巡した。 「……明日は、ちょっと」 「あ、そ、そうか……部活?」 「ううん……あのさ。悠さんに頼まれて……」 「また北崎か、あの野郎……。またどっか行くん?」 「結婚式場のポスターのモデルをやってくれって、頼まれたんだ。モデルさんが急に盲腸炎になって、来られなくなったからって」 「あ……そうなんや。ふうん……」  事情が事情だと言うことを理解したのか、舜平は不意におとなしくなった。それでも、どことなく拗ねているような雰囲気である。酔っているせいか、いつもより感情表現がストレートで子どもっぽい舜平を見ていると、珠生はついつい笑えてきてしまった。 「なんや」 「ううん、拗ねてんだ。舜平さん、かわいいね」 「すっ……拗ねてへんわ!! そんなわけあるかい!」 「ははっ、怒ってる。かーわいい」  珠生にからかわれて怒りつつも、その表情は満更でもないといった様子だ。舜平はごほんと咳払いをしつつ緩んだ顔を引き締めると、珠生にこう尋ねた。 「ったく生意気になりよって……。んで、それ、何時からなん」 「朝十時から、だいたい五時間ぐらいって」 「長っ、一日仕事やな。疲れそう」 「うん。でも、撮ってくれるのは悠さんだから大丈夫だと思う。慣れてるしね」 「ふーん。ほんま仲ええな、お前ら」 「あ、また拗ねてる」 「拗ねてへんって言ってるやん」  珠生は舜平ににじり寄り、ソファの上でぴったり舜平にくっついた。舜平は照れ臭そうに眉を寄せ、見上げる珠生の眼差しから目をそらす。 「妬いてるの?」 「や、妬いてへんし」 「ふふっ。悠さんがさ、もし舜平さんも身体が空いてたら、一緒に来たらどうかって言ってたよ」 「え? 俺も?」 「見学しに来ないかって。どうする?」 「んー……」  舜平はしばらく天井を見上げて唸っていたが、ふと珠生を見下ろして、意を決したようにこう言った。 「行こっかな。明日暇やし。お前がビシっとタキシード着てるとこも見てみたいし」 「へへ、そっか。じゃあ明日、悠さんに連絡しとくよ」 「おう……相手のモデルさん、美人なんやろか。結婚式場ってことは、相手がおるやろ」 「あー……そのへん聞くの忘れたなぁ。絡みなんかはないと思うけど……緊張してきた」 「ま、大丈夫やって。俺が物陰から応援したる」 「うん……」  そういえば、そのあたりの詳細を聞くことを忘れていた。悠一郎は撮影の時間やギャラについての事務的な説明を事細かにしてくれたのだが、肝心の花嫁役のモデルがどんな人物なのかということについては、聞けていない。 「うーん、大丈夫かなぁ……」 「大丈夫やって」 「軽っ。あ……さては美人花嫁モデルさんを見にくるだけなんだろ。俺の応援なんて言っちゃってさ」 「はぁ? そんなわけないやん。お前の方が可愛いに決まってるし」 「……」  さらっとそんなことを言う舜平を、珠生は生ぬるい目つきで見上げた。そんな珠生の目線に気づき、舜平はハッとしたように口を押さえた。 「あのね、俺そんなこと言われても嬉しくないってなんども言ってるじゃん」 「……おう、せやな、口が滑った」 「まったくもう……」 「緊張してたら、俺がお前笑かして気分ほぐしてやるから、大丈夫やって」 「……う、うん……」 「好きやで、珠生」 「っ……」  さっき拗ねていたとは思えないような優しい微笑みを浮かべて、舜平はそっと珠生の頭を撫でた。珠生はどぎまぎしながら、プイと目をそらす。顔が熱い。 「……父さんいるんだから、そういうのやめてよ」 「寝てはるやん。それに、口で言うてるだけやん」 「そうだけど……」  もっと憎まれ口を叩いてやろうと思うのに、うまく言葉が出てこない。舜平からの愛の言葉が嬉しすぎて、珠生はついついにやけてしまった。それを誤魔化すように、珠生はごほごほと咳払いをしながらこう言った。 「……きょ、今日、泊まっていく?」 「……へ? い、いやいやいやいやいや!!! 先生いるのにまさかそんな……!」 「え? いや、ちょっと待ってよ。何期待してんだよ。酔っ払ってたら帰れないだろ? だから和室で寝て行ったらどうかって言ってるだけ」 「えっ!? あ、あぁ……そうか、うん、せやんな……」 「何考えてんだよ変態」 「やかましい。お前がエロい顔で思わせぶりなこと言うからやん!」 「エロい顔なんてしてませんけど。泊まるなら布団敷くけど」 「あー……せやなぁ。兄貴に迎えに来てもらおうかと思っててんけど、泊めてもらえるならありがたい」 「じゃあ、どうぞ。シャワーも使ってよ」 「おう」  どことなくそわそわしている舜平をソファに残し、珠生は和室の支度を整え始めた。リビングと和室は襖で仕切られているのだが、普段ここはほとんど使われていないため、ひんやりと冷え切っている。  ――そばにいるのに抱いてもらえないなんて……もどかしいなぁ。  畳の上に敷かれた布団を見ながら、珠生はふとそう思った。しかし、己の邪な考えを振り切るように首を振り、ヒーターを出して部屋を暖める。すると、和室の入り口に舜平が立っていることに気がついた。 「一緒に寝るか?」 「は、はぁ!? だから父さんいるからそういうこと言うなってば!」 「一緒に寝たいって、背中に書いてあんで」 「書いてないし。ほら、布団敷けたよ。酔っ払いはとっとと寝てください」 「ははっ、手厳しいな」  舜平はからりと笑い、「風呂、貸してな」と言い残してバスルームに消えた。  若干残念な思いを抱えつつ、珠生ははぁ、とため息をつく。ほんの一瞬、ほんの一瞬だが、父親のいるこの家で、声を殺しながらセックスをするという状況に憧れを抱いたのだ。……しかし同時に、その状況のあまりの危うさに、背筋が凍る想いがする。 「……変態は俺のほうなのかな……」  珠生はそうひとりごちて、さっさと眠ってしまおうと自室へと引っ込んだ。

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