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第三幕 プロローグ

 夏が近い。  眼前に広がる大きな湖を渡る生ぬるい風の匂いが、夏の訪れを予感させる。  山から吹き下ろされ、湖面を駆け抜けてゆく風は、思いの外強い。胡桃色の髪の毛を乱されながら、珠生は海のように広がる琵琶湖を見渡した。  京都の東にある滋賀県には日本一の面積と貯水量を誇る琵琶湖がある。その豊かな水量でもって、関西の地を潤し続けてきた。  また琵琶湖の水は、瀬田川・宇治川・淀川と名前を変えて大阪湾へと流れ込むため、古来から水路として盛んに利用されてきた歴史がある。縄文時代にはすでに交通路として利用されていたという記録もあるほどだ。  物流が盛んな場所には人の流れが生まれ、自然と文化も栄えてゆく。琵琶湖のほとりには重要な史跡も多く存在し、戦国時代には織田信長や明智光秀がさかんにこの地を訪れたという逸話もあるのだが……。  華々しい歴史と文化に彩られた京都のとなりにあって、滋賀は何かと地味なイメージを持たれがちだ。  千葉県出身の珠生の目から見ても、やはり、滋賀県のイメージは地味である。 「なぁなぁ珠生、この近くにうまいうなぎ屋があるらしいで。昼はそこにせぇへん?」  スマートフォン片手の湊が、楽しげにグルメスポットを探している。ここ数ヶ月、仕事で滋賀県を訪れることが増えた珠生だが、情報収集はもっぱら湊の役回りだ。毎回ハズレがないのでさすがである。 「うなぎかぁ、いいね」 「今日は舜平いいひんし、土産に持って帰ったれよ。持ち帰りもできるらしいし」 「そうだなぁ……」 「ま、これ以上あいつに精力つけてどないすんねんてはなしやけど」 「…………。あのね、湊。わかってる? 俺たち遊びに来てるわけじゃないんだからね? 仕事ついでに美味しい店寄れるのは嬉しいんだけどさ、本来の目的忘れてないよね?」  そう、珠生と湊は遊びに来ているわけではない。  駒形司の探索。これが、珠生たちの仕事なのだ。  比叡山での諍いのあとのことだ。途中まで追うことができた駒形の気配は、滋賀県に入ったあたりで、ふっと途切れてしまったのだった。その後、珠生の式となった神使の虎・右水と左炎が駒形の匂いを追っていたのだが、駒形の行方はようとして知れなかった。  だが、ほんの二週間前、珠生の虎たちが微かな匂いを察知したのだ。  場所は、琵琶湖の東側中央付近。ちょうど、滋賀県近江八幡市のあたりである。  その情報をもとに珠生たちはしばしば滋賀県を訪れているのだが、目立った進展はないのが現状だ。滋賀県の観光知識が増えてゆくばかりである。 「しかし、滋賀もええもんやな。めっちゃええ寺いっぱいあんのに、京都に比べて拝顔料安いし、人いいひんからゆっくり見れるし」 と、湊がのんびりした口調でそんなことを言うので拍子抜けである。  本来ならばもっと歯軋りしながら焦らねばならない状況なのかもしれない。初めは、珠生も遅々として進まない状況に苛立ちを抱えていたが、月単位で駒形に動きがないこともあって、「焦っても仕方がないか」という境地に至っている。 「しかし、気持ちがいいね〜。僕もあんまり滋賀には縁がなかったけど、琵琶湖って大きくて清々しいなぁ」 と、珠生の横で伸びをしているのは彰である。  今日は医師としての仕事がオフだからといって、探索方の手伝いをしてあげる――と、珠生にくっついてきたのだ。どうも、激務の息抜きをしようという算段もあるようだが。 「さて、近江八幡市まではあとどれくらい?」 「三十分くらいかなぁ。てか先輩、葉山さんほっといて大丈夫なの?」 「うん……今日は彼女も休みだから、僕としては出産に備えて色々買い物とかしておきたかったんだけどさ。生まれる前に友達に会っておきたいからって、フラれちゃって」 「なるほど……赤ちゃん出てきはったら一人で出かけられませんもんね」 と、湊が眼鏡のブリッジを押し上げながらそう言った。彰はにっこり笑って、「そういうことさ」と言う。 「なんか先輩、すっかりパパの顔だね。幸せそうだなぁ」 「そうかい?」  以前から表面上はいつもにこやかな彰だが、常にどこか、研ぎ澄まされた刃のような緊張感を隠し持っているようなところがあった。    医師として患者たちにどのような顔を見せているのかは分からないが、特別警護担当官として現場に立つ時、彰は佐為であった頃と同じ目をする。翳りのある薄氷の瞳だ。周囲をピリッと張り詰めさせるような、独特の空気感を身に纏っていた。  だが今の彰には、その頃のような翳りは見られない。愛すべき存在が増えゆくことを待ち望み、あたたかく迎え入れようとするような、穏やかな気の流れを感じるのだ。  彰の変化を感じるたび、珠生まで満たされたような気持ちになる。彼の過去を知ればこそ、こうしてさらなる幸福を手に入れようとしている彰の今が喜ばしく、晴れやかな気分になるのだ。 「予定日いつでしたっけ? 冬ですよね」 「12月だよ。あと……半年もないなぁ」  湊の問いに応える彰の声を耳にしながら、珠生は改めて琵琶湖を見つめた。  なみなみと水を湛えた巨大な湖。水のあるところには物流が生まれ、人が多く行き交い文化が栄える。そして同時に、多くの情が重なり合う。  そしてそれは決して、明るいものばかりではない。恨み、誹り、妬み、呪い……さまざまな「隠」の気が生まれ、その地に自然と蓄積してゆく。  水辺には、そういう「隠」の気が溜まりやすい。場所によっては、人の心を惑わせてしまうほどに、濃密に。  琵琶湖にはたくさんの有名な史跡やレジャースポットもあるけれど、「隠」の気で澱んだ場所も少なくはない。  湖の西岸には、かつて源氏に敗れ落ち延びた平家の人々が隠れ住んだ里もある。栄華を奪われ、源氏を呪いながら近親婚を繰り返し、心を病んでいった平家の人々の重い恨みをも、この湖は呑み込んでいる。  駒形が隠れ棲むにはうってつけな場所なのかもしれない――と、珠生は思った。  琵琶湖に潜む妖たちは皆静かだが巨体で、図り知れない妖力を秘めているものが多い。だが、水辺に住む人々は皆自然と、湖に潜んだ霊威のようなものを感じ取っているのか、彼らを騒がせはしないのだ。そのため、この土地の均衡はうまく保たれている。  ――その均衡を、駒形が崩したら……。  珠生がもっとも気にしているのは、そこだ。もし万が一、駒形が琵琶湖の妖に手を出し、暴れさせてしまえば……この土地はどうなってしまうのか。そしてもし、駒形が強大な妖と一体化してしまったら――……そんなことを考えてしまうと、どうしても、不安が募る。 「……まき、珠生ってば」 「あっ……な、何?」 「さぁ、いくよ? どうしたの、ぼうっとして」 「ああ……いや」  彰に腕を引かれ、珠生ははっとした。  静かに珠生を見つめる彰の瞳には、物言わずとも、珠生の焦りを鎮めてくれるかのような凪がある。  珠生は頷き、運転席に座る湊の隣に乗り込んだ。  + 「駒形憲広の私邸……か」  京都の自宅に戻った珠生は、夕飯の支度をしている舜平に、今日あったことを話して聞かせているところだ。  今日、滋賀に向かった理由は、駒形家の分家の家長である駒形憲広の周辺を調べるためだった。  駒形家の分家は宝石商を営んで財を成し、琵琶湖の東部にたくさんの土地を所有している。だが現在は、宝石商というよりは骨董屋という雰囲気が強いようだ。  古い茶器や掛け軸などを収集し、海外のコレクターたちにかなりの高額で売りつけるという手法を取っていて……何やら叩けば埃が出そうな雰囲気もあり、別の意味でも監視が必要な人物だということは分かった。 「駒形と憲広は腹違いの兄弟やしな……匿ってるかもしれへんていう情報は前からあったけど、何も出てこーへんかったんやろ?」 「うん、前に調査部の人が話を聞きに行ったら、すごい剣幕で追い返されたって」 「ほう」 「本家への罵詈雑言の嵐だったってさ。あんな薄気味悪い連中と関わるわけがないって、相当キレられたって言ってたな」  とはいえ、介護施設で暮らす駒形司の母親への金銭的援助は、憲広が行なっている。親戚としての義務と捉えているのか、一応、没落した本家への手助けはするつもりでいるのかもしれない。 「土地持ちなだけあって、もうあっちこっちに蔵やら事務所やらがあって、それ調べるだけでも大変だったみたいなんだけどさ。今日はまた、俺たちで本邸の方へ行ってみたんだ……けど」 「けど?」  味噌汁を器に注ぎながら、舜平が首を傾げる。珠生はキッチンのカウンターに肘をついて、舜平を見上げた。 「何も感じないんだけど、なんかこう……変なんだよ。何かが、潜んでるような感じはあって……」 「……ああ。結界でも張って、そん中に隠れてんのかもって思ってんねやな」 「そう。結界程度なら、匂いで分かりそうなもんなんだけど……よほど厳重に張ってあるのか、俺の思い込みが激しすぎてそう思いたいだけなのか、分からなくなっちゃって」 「そっか。彰はなんて?」  メインの豚の生姜焼きを受け取りながら、珠生は「要監視、だって」と言う。そして香りたつ生姜と甘い豚肉のにおいを胸いっぱいに吸い込みながら、「舜平さん、腕あげたじゃん」と笑う。すると舜平が、わしわしと珠生の頭を撫でた。 「ま、こんくらいはな。お前にばっか飯作らせんのも悪いし」 「うんうん、いい心がけだ。そっちの捜査協力は順調だった?」 「おう、無事に片付いたわ」  京都府警の刑事たちと舜平は相性がいいため、警察への捜査協力はもっぱら舜平が請け負う形になっている。そのせいか、以前は刑事ドラマなど見なかった舜平が、最近は何やら色々と撮り溜めて熱心に見ているのだ。何を参考にしようとしているのかは分からないが……。 「要監視、か。次は俺も行ってみるわ。お前みたいに野生の勘は働かへんけど、結界のことなら何か感じ取れるかもしれん」 「うん、よろしく。……あ、そうだ。これ、今日のお土産」 「ありがとう。てか、また名所寄ってきたん? ……湊と彰が揃うと、一気に緊張感なくなんな」 「だよね」 「いつまでも学生気分が抜けへんなぁ」  そう言いつつ、真空パックの鰻が入った紙袋を受け取った舜平が……物言いたげな表情でこちらを見てくる。珠生は一応、こう言っておいた。 「あのね、別に精をつけて欲しくて買ってきたわけじゃないから」 「うん……せやな。美味いもんな、鰻」 「そう、美味しいって評判だから買ってきたんだ。別にそういう意味じゃないから」 「そっか……。そろそろ物足りひんくなってきたって暗に言われたんかと思って、ドキドキしたわ」 「そっ、そんなことないって! いつも満足……」 と、言いかけて、珠生は慌てて口をつぐんだ。恥ずかしすぎて顔が熱くなる。 「ふーん……ははっ、そうか。満足か。へー……ふふっ……」 「もっ……もういいからそういう話は!! ほら、食べないと冷める! すごく美味しいこれ!!」 「そらよかったわ。……ふっ……ふふ……」  何やらとても嬉しそうな舜平である。  冷めてゆかぬ頬の熱さを持て余しながら、珠生は生姜焼きを口いっぱいに頬張った。 ˚✧₊⁎⁎⁺˳✧༚✩⑅⋆˚˚✧₊⁎⁎⁺˳✧༚✩⑅⋆˚ こんばんは、餡玉です。 新章、第三幕を始めることといたしました。 更新をお待たせしてしまうこともあるかと思いますが、まったりお付き合いいただけますと嬉しいです。 どうぞよろしくお願い致します(*ᴗˬᴗ)⁾⁾

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