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六、飛び込んだ先は

 健介は熱心にデータを打ち込んでいたパソコンから目を上げ、時計を見た。時刻は、二十一時半である。  周りを見回すと、ごちゃごちゃした研究室の隅で、二回生の相田舜平と屋代拓が実験の片付けをしている姿が目に入った。 「あ……君たちまだいたの?」 「いましたよ。これ片付けといてって頼んだの、先生でしょ」 と、拓は慣れた口調でそう言った。健介は実験に夢中になるあまり、自分で出した指示や話しかけられて答えた内容を忘れてしまうことがよくよくあるのだが、一回生の頃から健介の手伝いをしているこの二人にとっては、それはもう慣れっこなのだ。健介は苦笑して頭をかいた。 「あ、ごめんごめん。お陰で一段落ついたよ。コーヒーを淹れよう」 「ありがとうございます」  舜平はまくり上げた白衣の袖を下ろしながら、丁寧に礼を言う。  健介は微笑みながら立ち上がり、ごみごみとした研究室の中、申し訳程度に設置されたキッチンへ向かうと、湯を沸かし始める。  窓の外はもう真っ暗だ。息子が引っ越してきてから、初めてこんなに遅くまで大学に籠もってしまった。珠生のことだから大丈夫だろうとは思うが……もう少しやることもあるから、帰宅はもっと遅くなるだろう。  健介がそんなことを考えながらカップを用意していると、ばたばたという忙しい足音が廊下に反響しながら近付いてくる事に気がついた。そしてバン! とドアが壁にぶつかる派手な音が、研究室に響き渡る。 「何や、何の音や!?」  戸口から一番近くにいた舜平は大慌てで書庫から顔を覗かせた。そして、昼間見たその少年がそこにいることに仰天し、目を見張る。 「あ! きみ、昼間の……」 「なになに、なんの騒ぎ?」  健介がのんきにカップを手に姿を見せる。父親の姿を見つけた途端、珠生は安堵から一気に脱力し、ドアにもたれてずるずるとその場にへたり込んでしまった。 「珠生!? どうしたの。え、本当に寂しくなって来ちゃったの?」  健介はのんきにそんなことを言うと、コップを置いて珠生に歩み寄った。舜平と拓は顔を見合わせている。 「え、先生、この子が……息子さん?」 と、舜平が震え声でそう尋ねた。 「うん、そうだよ。おいおい、どうしたんだ、こんな薄着で……なんかあった?」  健介は珠生を立たせると、手近にあったスツールを持ってきて息子を座らせ、ドアを閉めた。 「……あ、いや……その……」  まさか他にも人がいると思っていなかっ珠生は、恥ずかしさのあまり顔を赤くして俯いた。そしてふと、舜平の姿に気づく。 「あ」 「……どうも」  舜平はぎこちなく一礼した。昼間のことが健介に知れたら……と若干不安を覚えている顔である。 「えっと……相田さん……でしたっけ」 「何だ、もう知り合いなのか?」 と、健介はにこにこと笑いながら二人を見た。珠生は大きな目でじっと舜平を見て、こっくりと頷く。舜平も曖昧に頷くと、ぎこちない笑みを珠生に向けた。 「鴨川で気分悪くなってたところを、この人が助けてくれて……」 「え? 体調、悪かったのか?」  健介は急に不安げな顔になると、珠生の額に手を当てた。珠生は恥ずかしそうに父の手を払いのけると、がたがたと音を立てて椅子から立ち上がった。 「あの、俺、帰る」 「何だ、お前変だぞ。どうしんたんだ?」  健介は珠生の肩を掴んで、顔をのぞき込んだ。珠生は早くその場から立ち去りたくて、のんびりした父親の口調に少し苛立ったように眉を寄せる。 「大丈夫だから、ちょっと、慣れない家で落ち着かなかっただけだから。あ、鍵貸して……」 「え、忘れてきたのか!? どうしたんだ一体……あ、相田くん、君、車で来てたよね?」  健介はキーケースから鍵を外して珠生に渡しつつ、思いついたように舜平を見た。 「え? はい」 「悪いんだけど、うちの子、家まで送ってってやってくれないか?こんな格好だし、体調も良くないみたいだから」 「いい、いいです!そんな、近いし……」    珠生がすかさず遠慮すると、健介はじっと珠生を心配そうな目で見つめた。珠生はそんな父の目を見て、はたと黙り込む。 「僕は……構わないですよ」  舜平は白衣を脱いで半袖になると、テーブルの上へ無造作に白衣を置いた。そしてデニムの尻ポケットからキーケースを出し、珠生を見やる。 「……行こか?」 「はい……。あの、失礼しました」  珠生はその場にいて成り行きを見守っていた拓にぺこりと頭を下げ、舜平のと共に研究室を出ていった。  二人を見送り、健介は首を振りながら、改めてコーヒーを啜る。 「やっぱ離婚したせいなのかなぁ、だから情緒不安定なのかなぁ……ってことは僕のせいだよなぁ……」 と、肩を落としてぶつぶつ呟いている健介のそばで、拓もコーヒーを口にした。 「先生の息子さん、どえらいイケメンですねぇ。先生にも似てはるし」 「……そうだろ、可愛いんだよ。双子の娘の千秋って子もね、可愛いんだよ」  健介はにっこりと顔を綻ばせつつも、不安が拭いされない様子で、またすぐに渋面を作って俯いてしまった。 「でも、どうしたのかぁ、こんなことする子じゃないんだけど」 「慣れない家で、寂しかっただけですって、きっと」 「そうかなぁ? 早く仕事して帰ろう……」  健介はぐびとコーヒーを飲み干すと、いそいそとパソコンの前に座った。  そして再び周りにバリアを張るように仕事に没頭していく姿を見て、拓は肩をすくめながら作業に戻った。

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