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8 いつもの朝

 翌日、珠生はきちんと朝から学校へ行った。  昨晩同じように行動した湊が学校へ行くというのに、自分だけサボるというのは気が引けたためだ。  朝の賑やかな昇降口で靴を履き替えていると、ちらちらと女子の視線を感じた。珠生がそちらに目をやると、女子生徒二人は少し頬を染めてささっと目をそらす。 「……おはよう」  何となく、珠生はその女子生徒たちに挨拶をした。女子生徒たちは顔を真赤にして、しどろもどろに「お、おはよう……」と言葉を返す。  珠生はその初々しい反応に微笑むと、早足に教室へと向かった。 「おお珠生、珍しいじゃん。朝から学校来てるなんて」 と、珠生のすぐ後に教室に入ってきた正也が、ぽんと珠生の肩を叩いた。 「そうかな? そんなことないよ」  珠生は鞄を机に置くと、席に座った。 「昨日さぁ、久しぶりに千秋ちゃんと電話できたんだよ」  湊の席に座り込んだ正也は、目尻を下げてそんな話をし始めた。珠生は苦笑しながら、正也の惚気話を聞いてやる。  千秋とは、最近珠生も連絡を取っていない。千秋から連絡が来ない限り、珠生からも連絡を取ることはないからだ。  正也の話を聞けば、千秋は最近関東大会への練習で忙しく、帰宅しては直ぐに眠るという生活を送っているらしい。正也も関西大会を控えており、状況は同じ。それもあって話が盛り上がり、士気が上がったという。 「も〜、俺、絶対全国大会行って千秋ちゃんにいいとこ見せるんだ〜。彼女よりいい成績取って、男として株を上げないとな〜」 「そうだね、頑張ってね」 「なんだよ、他人事(ひとごと)かよ! 珠生〜応援に来てくれよ。お前が来てたら、千秋ちゃんがいるような気がして頑張れそうだし」 「えっ、なんかやだ」 「なぁ珠生〜来てくれよ〜〜」  正也が珠生ににじり寄っていると、登校してきた湊が、正也の頭を背後からベシッと叩いた。 「おい、どけ」 「いってぇな、湊。なぁ、お前も来てくれよ、応援!」 「はぁ? まあ、時間あったらな」  湊は正也を押しのけると、席について鞄を開く。正也はもうひとしきり惚気話を展開した。  チャイムが鳴り担任の若松が入ってくると、朝のホームルームが始まった。        +  +  その日、天道亜樹は狐につままれたような気分で目覚めた。  確かに学校にいたはずなのに、何で平和に自分の部屋で眠っているんだろう。きちんとパジャマを着ているし、汚れていたはずの制服もきれいになっていた。  おかしい。  階段を降りてダイニングを覗くが、そこにはすでに誰もいなかった。いつものことだ。それを寂しいとも思わない。  この家にいる人間たちは、全員亜樹の家族ではない。金銭的に余裕があり、亜樹を養えるだけの経済力を持っている親戚。それが今の亜樹の“家族”だった。  この家の本当の子どもである一人息子が、亜樹の通う明桜学園に在籍している。二つ年上の先輩だが、家の中でも学校の中でも完全に他人だ。  この広い家で、亜樹は幽霊のように生きていた。  夜遅く帰ろうが、学校で問題を起こそうが、誰も亜樹に干渉しない。  もう、寂しいとも思わない。  制服に着替え、学校へ行く。  亜樹の自室は、巨大な邸宅の隅にある。この家の大黒柱は、京都中に名の知れた老舗呉服屋を営んでいるのだ。  ここから学校へは徒歩圏内であり、亜樹は急ぐでもなく学校へ向かった。  ふと、足元を見て怪訝に思う。  膝小僧に、目立つ青あざが浮かび上がっていた。  ――これ……なんだっけ。いつ、転んだ?  思い出そうとすると、頭がきんと傷んだ。しかし、それとともに緑色のランプの光と、自分の腕を掴む誰かの手、そして、自分を抱き上げる誰かの体温が蘇る。  暖かかった。今まで感じたことがないくらい、心地良い感触だった。  あれは夢だったのか。  亜樹は学校へ到着し、昇降口で靴を履き替えていると、女子生徒の少し興奮した声が聞こえて、顔を上げた。  すらりとした細身の男子が、階段の方へと歩いて行く姿を見た。  薄い茶色の、少し伸びたさらさらの髪。つんと尖った形の良い鼻筋。小さな顔とバランスの良い身体つき。  A組の沖野珠生だ。  取っ付きにくい印象のせいであまり派手に騒がれてはいないが、密かに女子たちは沖野珠生に注目していた。そう背は高くないが、モデルのように整った容姿は、女子の間で絶大な人気を誇っている。  ただ、愛想はなく、頑張って話しかけた所で快い返答が期待できるような男子ではないため、もっぱら鑑賞用として扱われるタイプの男子である。  亜樹はそんな男子に興味はなかった。  自分の人生に関わりのない相手に、興味をもつことはない。今まではそうだった。  しかし、今朝沖野珠生の横顔を見た瞬間、どきん、と胸が大きく高鳴った。信じられなかった。  足早に階段を登っていく沖野の姿を見送って、ただ呆然としていた。  その時、どん、と誰かが亜樹の肩にぶつかって通り過ぎていく。痛みに顔をしかめつつ亜樹がそちらを見ると、D組の立花菜緒佳(たちばななおか)が立っていた。  菜緒佳は、何かにつけて亜樹に絡んでくる、うっとおしい女子の一人だ。亜樹の目が自然と鋭くなる。 「おはよう。よう自力で掃除用具入れから出れたなぁ」  鼻につく京都弁で、菜緒佳はにっこりと亜樹に笑いかけた。  菜緒佳は美少女だ。自分でもそれを分かっているタイプの美少女である。それを最大限に活かすやり方で、菜緒佳は亜樹に微笑みかける。 「今から助けに行ってあげようと思っててんけど……必要なかったなぁ」 「そんなん、いらんし」  威嚇するような亜樹の言葉遣いに、菜緒佳は目を細めて微笑んだ。その返答が気に食わなかったのか、奈緒佳は相手を見下すような目付きをして、さっさと亜樹から離れていく。 「これやから育ちの良うない女はいややわ。うちに近寄らんといて」 「ぶつかってきたのはそっちやろ、ボケ」 「……ふん、次は、どこに閉じ込めてほしい?」  菜緒佳はさらりとした長い髪を揺らして、すっとその場を離れていった。取り巻きの数人の女子が、亜樹にわざとぶつかりながら菜緒佳の後を追う。  亜樹は小さく舌打ちをして、自分も教室へと向かった。  大概の生徒はこういう出来事にも無関心で、誰も亜樹と奈緒佳のいざこざに口を出してはこない。成績だけがモノを言うような私立の名門校だ、亜樹はそれが気楽でよかった。  何も変わらない。今日もきっと、最低の一日だ。

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