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10 キス

 その日、斎木彰は修学旅行先の沖縄から帰宅していた。  三泊四日の旅行はなかなかに楽しいものであった。  旅行先などでは、皆気分が大きくなってハメを外しがちだ。彰も同室の生徒たちに飲酒に誘われたりしたが、にこやかに断りを入れ、一人で海辺を散歩して時間を過ごしていた。  すると今度は海で女子生徒数人につかまり、愛の告白を受けたりもした。  彰はそれもやんわりお断りをして、涙にくれる女子生徒と、非難がましい目で睨みつけてくるその友達の前から笑顔で去ってきた。  飲酒がばれてこっぴどく叱られている同級生を見たり、次の日気付いたらカップルになっている男女を見たりしていると飽きなかった。  現代人というのは、なかなかに面白い行動をとるものだ。 「彰さん、ご飯よ」  自室で休んでいると、母親が彰を呼びに来た。現世で自分を生んだ、母親の斎木幸恵だ。 「うん、直ぐ行くよ」  父親は仕事で不在がちであり、母親と二人の食卓はいつも静かで味気なくもあったが、かいがいしく自分の世話をしてくれるこの女性のことを、彰はそれなりに慕っていた。 「おみやげ、ありがとうね。後でお父さんと食べるわ」 「うん、そうしてよ」  彰はそつのない笑顔を浮かべて、箸を進めながらそう言った。 「おみやげ、後は誰にあげるの?」 「そうだな、生徒会の皆と、後輩たちと。あと……」  葉山の顔が浮かぶ。彼女のことをなんと表現していいのか分からず、彰はしばらく考えて、「上司……に」と言った。 「上司?」 「あ、先輩に……」 「あらそう、上司だなんて、面白いなぁ」 と、ふくふくと優しげな笑顔を浮かべて母親は笑った。      + +  その晩も、学校の裏手の工事現場に妖が出現していると連絡を受け、彰は家を抜けだしてそこへ向かっていた。  珠生ほどではないが、彰の身は軽い。真夜中の人気のない道を選んで、ひょいひょいと現場へ向かう。 「全く、次から次へと……」  たん、と鉄筋で組まれた工事現場の足場の上に着地すると、暗がりに浮かび上がる青色の光を見下ろした。フワフワと浮かびながら、徐々にはっきりと形をなしていく妖を見て、彰はため息をついた。 「先輩、帰ってたんですね」 と、気づけば珠生が隣に立っている。 「うん、ただいま。おみやげあるからね」 「わぁ、ありがとうございます」  珠生はにっこり笑って、妖の方に視線を落とした。 「あれ……こないだ学校内にいたのと一緒のやつだな」 「そうなの?」 「最近、多いんですよ。あの形をしたやつ」 「ふむ……」  彰は印を結ぶと、「縛」と小さく唱えた。  青い光をまとった能面の姿をした妖が、小さな鳥かごのような結界術に囲まれて地面に転がった。きぃぃと、小さな悲鳴が上がる。  珠生と彰は音もなく工事現場のアスファルトの上に降り立つと、金色の鳥かごに囚われた妖を見下ろす。  彰はそれを拾い上げて、じっと中の妖を観察していた。 「……これは、駒霊(こまたま)だな。こいつら、大きな妖を呼ぶんだよ」 「こまたま?」 「うん、これらの数が多くなっているということは、どこかしらの鬼道がだいぶと開いてしまっているようだ」 「十六夜でも防げないんですか」 「あれは巨大な術だからね、小さな綻びまでは覆えないんだ。より大きな災いを防ぐために、小さなものはすり抜けてしまう」 「あ、そっか……」 「滅」  彰がそう呟いて鳥かごを両手で包むと、ぼすん、と煙を残して駒霊は消えた。あっけなく終わる。 「学校近辺によく出るのか……ということはその綻びもこのあたりだろうな」  彰はポケットに手を突っ込んで、工事現場の足場の隙間から見える夜空を見上げた。 「今夜、探しますか?」 「いや……今夜はもう帰ろう。僕は修学旅行明けで疲れたよ。それに、もう少し様子を見ないと鬼道の綻びも分からないしね」 「分かりました」  二人は防音壁を飛び越えて、道路に出た。すぐそばに黒いセダンが停まっていて、中から葉山が姿を現す。  黒いスーツ姿に、淡いベージュのコートを羽織った葉山が、ヒールの音を響かせて二人に近寄ってきた。 「お疲れ様。あら、彰くんは帰ってたのね」 「どうも、葉山さん。あなたにもお土産がありますよ」 「それはどうも。で、どうだった」  葉山は彰の軽口に付き合う気はないらしく、直ぐに状況を尋ねてきた。彰の説明を聞いて、葉山は小刻みに頷いた。 「……そうなんだ。分かった、昼間探してみるわ」 「でも眠らないと、お肌に悪いですよ」 と、彰はにやりとして葉山にそう言った。  葉山はじろりと彰を睨んだが、何も言わなかった。 「葉山さんて、昼間はどうしてるんですか?」 と、不思議そうに珠生が尋ねる。葉山は珠生のきらりとした大きな目を見て、肩をすくめた。 「事務仕事よ、ひたすら。京都府庁の一室でね。こういった報告書は、藤原さんを含めてごく限られた人しか目を通さないんだけど」 「報告書とかあるんだ」 と、珠生は目を丸くした。 「ええ、後世に残していかなきゃいけない記録だからね。あとは公的予算が恙無く降りてくるように、表向きの書面を作ったりするの、これが面倒なのよね」 「へぇ〜、忙しいんですね。早く帰りましょう」 と、珠生が気を遣ってそう言った。葉山は微笑む。 「ありがとう、珠生くんは優しいな」 「まぁ国民の税金で動いてるんだから、それくらいしないとね」 と、意地悪く彰がそう言うと、葉山はこめかみに青筋が浮かべた。  珠生は睨み合う二人を宥めながら苦笑する。 「まぁ、帰りましょうよ。ね、先輩も。明日学校行ったら休みだよ」 「うん、そうだね……さすがに沖縄帰りで疲れたよ」 「おみやげは頂くわ、有り難く」  葉山が腕組みをしてそう言うと、彰はまたちょっと笑って「どうぞどうぞ」と言った。  珠生はさっさと走って帰っていったが、彰は葉山の車で送ってもらうことになった。五条にある彰の家の回りはそこそこに町中であり、走って帰るには目立つのだ。 「どこの鬼道かなぁ……学校の結界ももう少し強めないと、駄目だな」 と、顎に手を当ててぼそぼそと呟いている彰を横目に見ながら、葉山は車を走らせた。 「疲れてるならもう今日は考え事もしなくていいわよ」 「そうも行かないよ。ちょっと嫌な予感がする」 「……そうなの?」 「まぁ、週末まで様子は見る」 「分かりました」  彰は助手席の窓に肘をついて、ぼんやりと外を眺めていた。 「珍しく、本当に疲れてるみたいね」 と、言葉数少ない彰を横目に見て葉山は言った。 「あれ、心配してくれるんですか?」 「別に」 「キスしてくれたら、元気になるかも」 「お黙りなさい」 「あはは」  ぴしりと彰の言葉をはねつける葉山の態度に、彰は本当に楽しそうに笑った。しばらく一人で笑っている。 「やっぱ葉山さん、面白いね。僕、沖縄で女子に告白されたけど、やっぱり葉山さんくらい大人じゃないと駄目だな」 「あら、意外とモテるのね。付き合ってみればよかったのに」 「どうせすぐに終わるんだから、時間の無駄だよ」 「分からないわよ、可愛く思えるかも」 「ないない。あんな綿菓子みたいに形のない女の子には、興味も沸かない」 「ひどい言い草ね」 「女子高生だよ? まだ自分のことも分かってない子どもだ。……面倒だ」  彰は目を閉じて、ため息をつく。  もうすぐ家の近くの公園前に着く。送ってもらうときはいつもそこで車を降りるのだ。  静かに車を停めると、葉山はサイドブレーキを引いて彰を見た。彰はやや眠たそうな顔で、暗いフロントガラスを見つめている。 「着いたわよ、彰くん」 「あ、どうもありがとう」  彰はシートベルトを外すと、不意にサイドブレーキの上にある葉山の手を握った。驚いた葉山は、彰を見る。  いつになく真面目な目付きをした彰が、じっと自分を見つめていることにどきりとした。  彰はその手を握ったまま、身体を伸ばして葉山にキスをした。  たっぷり十秒程度唇を重ねていたが、彰はすっと唇を離す。きょとんとしている葉山を見て、彰は目を細めた。 「何か、感じる?」 「えっ? ……ちょ、ちょ、ちょっと!! 何すんのよ!」  葉山はようやく我に返って、彰から体を離した。しかし思いのほか大きくて暖かい彰の手は、振りほどけなかった。 「僕の子どもを産んでもらうんだからさ、もっと距離を縮めていきたいと思って」 「馬鹿言わないで。まだその話続いてたわけ?」 「当たり前だろ」 「いきなりするなんて!」 「いきなりじゃなかったら良かったの? どうせ駄目って言うだろ」 「言うわよ」 「じゃあ、不意をつくしかないじゃないか。手は握っててもいいの?」 「あ……」  彰はぎゅっと葉山の手を握りしめたまま離さない。彰の目が、また葉山の目に注がれる。 「僕は子どもなんだろ? そんなに怒らなくてもいいじゃないか」 「そりゃ、まぁ……」 「じゃあもう一回してもいいよね?」 「彰くん、あんたねぇ……」  彰の長い腕が伸びて、葉山の頬に触れた。抵抗する間もなく顎を掬われて、もう一度彰の唇が重なった。  細い唇をしている割に、彰のそれは柔らかく少し熱かった。態度の割に遠慮がちに触れてくる彰のことが、少し可愛く思えた。  何度か唇をついばんだ後、彰は名残惜しげに離れていく。普段偉そうで生意気な口を利くくせに、キスはひどく丁寧なことに驚かされた。 「……何か感じる?」  もう一度、彰はそんなことを尋ねた。間近にある彰の目は、思いの外澄んでいた。 「なんでそんなこと聞くの?」 「とても気持ちが良かったので驚いたんだ」 「……そう。良かったわね。元気が出たわけ?」 「うん、ちょっとね」 と言って、彰は糸目になって微笑んだ。 「僕らの距離、縮まったよね?」 「調子に乗らないで。これくらじゃまだまだね」 「ふうん、そっか。じゃあまた続きをしようね」 「つ、続きですって?」 「そう、逃さないから」 「……ちょっと」 「おやすみ。じゃあね」  彰はさっさとドアを開けて、出ていった。暗がりの中小走りに走っていく彰の姿が、掻き消すように消えてゆく。  ――な、何なのあの子……理解できない……。  結局彰の行動に翻弄されてしまった葉山は、大きくため息をついた。  ――あれ、でも……これって結構久しぶりのキスなんじゃない? 最後にしたの、いつだっけ……。  葉山はそんなことを思いながら、再びエンジンをかけて車を発進させた。

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