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第四幕 ー恋煩いと、清く正しい高校生活ー

1、珠生の傘  九月。長いようで短い夏休みが終わり、明桜学園高等部に新学期が訪れた。  人気の少なかった昇降口や教室棟に活気が戻り、久々に会う友人たちとの会話に花を咲かせる学生たちの賑やかな声が響き渡る。  天道亜樹は、いつも通りに淡々と新学期を迎えていた。人付き合いの悪い亜樹に、率先して声をかけてくるものはほとんどいない。それは亜樹自身も慣れたものである。淡々と靴を履き替えて二階へと上がっていく。  階段を登りきり、ふとA組の教室を覗き見る。朝の時間は窓やドアが開け放してあるため、教室の中はよく見える。  そんな中、ついつい姿を探してしまう。  沖野珠生の姿を。  霧島から戻って以来、全く会う機会がなかったし、連絡を取り合うような間柄でもないため、学校でなければ珠生の姿を見ることはできないのである。  始業ぎりぎりに登校した亜樹であったが、教室の中に珠生の姿はなかった。少なからずがっかりしている自分に気づき、亜樹はぎょっとする。 「……なんでやねん」  ぽつりと呟き、亜樹はB組の教室に入った。   +  +  その日は午後から雨だった。  どんよりとした空を、亜樹は頬杖をつきつき教室の窓から見上げていた。  朝方は晴れていたため、傘など持っていなかった。降り止むことの無さそうな激しい雨を見て、駅まで走ることをぼんやりと考えていると、前の席の女子が同じように空を見上げていることに気づく。 「……結構降ってんなぁ」 と、亜樹は何となくその女子生徒に声をかけてみた。 「……ほんまやなぁ」 と、その女子生徒は普通にことばを返してから、亜樹の方を振り返った。去年、珠生と同じクラスだった、滝田みすずである。  みすずは椅子に横座りすると、亜樹の方を見た。まさか亜樹に声をかけられるとは思っていなかったのか、少し驚いた顔をしているものの、拒否的な感触はない。それだけで、亜樹は少し嬉しかった。 「天道さん、傘持ってる?」 「……ううん。持ってへん。えっと……滝田さんやっけ」 「うん。うち、折り畳みならあんねん。駅まで入ってく?」 「え? ……いいの?」  初めて口を利く滝田みすずの好意に、亜樹は驚いてそう尋ね返していた。みすずは笑った。 「部活もないし、ホームルーム終わったら直ぐ帰るやろ? 明日新学期テストやし、風邪引いてもいややんか」 「うん……。ありがとう」 「いえいえ」  ホームルーム前でざわついた教室の中で、亜樹はまじまじとみすずを見た。さっぱりとしたショートカットの髪は少し茶色く、夏休みの間に何かしら羽目を外したような雰囲気があった。健康的に日に焼けた肌色は、みすずの快活な性格を窺わせる。 「席替えしてから初めて喋ったね」 と、みすずが言った。 「そうやね」 「天道さん、高校入ってからえらい大人しいやん。中学んときはもっとやんちゃしとったのに」  みすずが中学から一緒だったということを初めて知ったが、こうも明るく指摘されると毒気を抜かれてしまう。亜樹は苦笑した。 「まぁね。さすがにいつまでもツンツンしてられへんやん」 「それもそうやな。でも、成績もいいし、多少つっぱってても問題無いやろ?」 「なんやもっとつっぱってて欲しそうな口調やな」 と、亜樹が言うと、みすずは笑った。 「だってさ、見ててなんかすっきりしたもん。うちは成績大したことないから、先生に文句なんか言えへんけどさ、天道さんはがっつりおかしいことはおかしいって先生に指摘してて……。代わりに言ってもらってるような感じやったから」 「……そうなん?」 「そやで! 結構そう思ってる子、多いと思うよ」 「……ふうん」  ただ不機嫌に教師に当り散らしていただけなのに、まさかそんなことを言ってもらえるとは思わず、亜樹はきょとんとしていた。 「せっかく席も近くなったし、もっと色々喋ろうや」  みすずはにっこりと笑ってそう言った。じわじわと、亜樹の胸の中に暖かい喜びが沸き上がってくる。  亜樹は笑って頷いた。  +   +  ホームルームが終わり、二人は並んで昇降口へと降りて行った。どのクラスも終了のタイミングはほぼ同じで、皆がぞろぞろと帰宅していく。 「いつも誰かと帰ってるんちゃうの?」 と、亜樹なみすずが自分と帰ってもいいのだろうかと気にしていた。みすずは、 「普段ばバド部の子らと帰ってるけど、別に普段から約束してるわけじゃないし、部活ない日は適当やで」と言った。 「ふーん、そうなんや」 「あっ! 沖野くんや!」 と、下足室に差し掛かった時、みすずが突如色めきだって声を上げた。  どきん、と思った以上に心臓が跳ねたことに、亜樹は驚いていた。みすずが亜樹の腕をバシバシ叩きながら指さした方向を見ると、そこにはさらりとした茶色い髪と、すらっとした後ろ姿が見えた。靴を履き替え、昇降口へと歩いていこうとする珠生の白いシャツの背中が、妙に眩しく見える。 「喋りに行こう! うち、去年同じクラスやってんけど、三学期からちょっとずつ喋れるようになったばっかやねん。忘れられる前に喋っとかな!」 「え……、ちょっ……!」  ぐいぐいと亜樹の腕を引き、急いで靴を履き替えているみすずにぽかんとしながらも、亜樹もみすずと同様に心が逸るのを感じていた。  ――うちはここにいる。日常生活の中でだって、あんたの近くにおるんや。  そう、伝えたかった。  しかし、ぴたりと止まったみすずの背中にぶつかって、亜樹は立ち止まった。 「どしたん?」  みすずの肩越しに、昇降口に立っている珠生を見て、亜樹は目を瞬かせた。  珠生の隣には、艶っとした綺麗な長い髪を揺らす少女が立っていた。その少女に開いた傘を差し出す珠生を見て、亜樹の心臓がかすかに悲鳴を上げる。  珠生の横顔は穏やかに微笑んでいた。その横顔は、霧島で亜樹を守った時の珠生の険しく猛々しい顔とは、全く異なるものに見えた。  そして、珠生を見上げるその少女の横顔は知った顔だ。  三谷詩乃。  去年亜樹と同じクラスだった詩乃は、特に亜樹に怯えるでもなく蔑むでもなく、普通に対応してくれる優しい女子生徒だった。大人しく、外見も目立たない詩乃が、今日はやけにきれいに見えた。珠生に恋をしていると、はっきりと分かる目だ。  小柄な詩乃と並ぶと、亜樹とはさほど身長の変わらない珠生が、妙に男らしく見える。詩乃を庇護するように、珠生は傘を差し掛けて、二人は並んで歩いていった。  ぱらぱらと強めに降る雨の中、相合傘で帰っていく二人の背中は、なかなか絵になっている。  みすずは亜樹と負けず劣らずショックを受けたような顔である。二人は何となく目を見合わせて、お互いにまた驚いたような顔をしあう。 「……ひょっとしてショック受けてんの?」 と、亜樹は先手を打ってそう言った。みすずはぎょっとしたような顔をしたが、すぐにしゅんとなる。 「……うん。ていうか、自分もやろ?」 と、みすずはすぐに顔を上げて亜樹を見た。 「……うちは、別に……」 「嘘や。天道さんかて、柏木と喋りながらも沖野くんと結構喋ってたやん」 「……え? あぁ、まぁ。でも別に、好きとかそんなんちゃうし」  意外と自分の行動を見られていることに驚きながらも、亜樹はつんとしながらそう言った。 「うちだって、別に好きとかそんなんちゃうけど……。でも、なんかショック」 「……」  亜樹は何も言えず、合わせ鏡のように同じ表情をしているみすずの顔を見ていた。みすずはのろのろと折り畳み傘を開き、二人は肩を寄せあって駅まで歩く。 「……なぁ、ちょっとお茶して帰らへん?」 と、みすずはぽつりとそう言った。 「え? ええけど……」 「このまま帰ったら勉強なんかできひんわ。ちょっと喋ろ、沖野くんと三谷さんについて」 「う、うん……」 「よし、行くで」  亜樹は内心安堵していた。みすずの気持は痛いほどに分かるし、亜樹にとっても、この乱れた心は一人では持ち帰り難いものだったからだ。  それに、女友達と二人で放課後に出かけるという体験も初めてである亜樹にとって、みすずの誘いはとても嬉しくもあった。  二人は駅を通りすぎて大通りを進み、ファーストフード店に入った。  

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