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十五、夏の気配

「花火大会?」  一緒に図書館で勉強をした帰り道、柏木湊は隣を歩く戸部百合子の横顔を見下ろした。  特にこれといった問題が起こるでもなく、暦はいつしか五月下旬を迎えている。  そんなとある土曜日。午前中はひどく蒸し暑く、どんよりとした空模様だった。そして、予想通り午後からは雨が降った。夕方を過ぎて雨が上がり、見事な夕焼けが空を茜色に染める中、二人は帰路についていた。 「そう。亜樹がね、花火大会行ったこと無いって言っててん。そんなん言われたらさ、一回連れてったらなって思うやろ? 思わへん?」 「……いや別に思わへんけど」 「それでね、昨日沖野くんと喋ってたら、あの子も花火大会行ったこと無いって言うねん!」 「あぁ、行かなそうやな。人ごみ嫌いやし、珠生は」 「そんなん言われたらさ、やっぱ一回連れてったらなあかんって思うやろ?」 「そうやなぁ、花火はきれいやもんなぁ」 「……湊って、沖野くんにはほんまに甘いよね。亜樹には辛口なのにさ」  唇に薄く笑みを乗せて、百合子が湊を見あげた。一つにまとめた長い髪を揺らして、百合子は歩きながら湊の前に回り込む。 「そうやろか」 「ま、仲良しだもんね」 「まぁな」 「ねぇ、四人で行こうよ。花火」 「え? 四人で?」 「そう。ええやん、大勢で行ったら楽しそうやん」 「……そら、ええけど。珠生が行くかな」  舜平のことがちらりと脳裏に浮かぶが、果たして二人は花火を見に行くような甘い関係性なのだろうかという疑問も同時に浮かぶ。そもそも、珠生は基本的にイベントごとには無頓着だし、雑多な気が渦巻く人混みが大の苦手だということも知っている。 「何ならあたしから誘ってもええよ。同じクラスやし」 「せやなぁ……ま、いっぺん聞いてみて。断られたら俺が説得するわ」 「ほんま? さっすが湊。優しい」 「……」  楽しげに歩調を速める百合子を、湊はため息混じりに見下ろした。珠生の渋る顔が目に浮かぶようだったが、高校生最後の夏なのだ、それくらいの思い出があってもいいだろう。 「ほんとは二人で行きたかったんやけどなぁ」 「……せやな」 「まぁいっか、あの二人の前なら多少いちゃついても」 「別にいちゃつかへん」 「人ごみやし、はぐれちゃえばいいし」 「はぐれへん。あいつら二人だけにしたら、かわいそうやろ」 「もー、真面目やなぁ」 と、百合子はつまらなそうに唇を尖らせたが、すぐにまた笑顔に戻った。 「ま、花火までは日あるし、のんびり誘おか」 「うん、きっと楽しいよ」 「そうやとええけど」  百合子は湊の手に自分の手を絡ませて手をつなぐと、楽しげに腕を振って歩き出した。湊は苦笑しつつ、休日の校内を百合子とぶらぶらと歩いた。  ふと気づけば、高校三年生の夏も目前だ。  珠生と湊が現世で再会してから、三回目の夏を迎えようとしている。  +  亜樹は、今日は日直である。  そのため、普段は遅刻ギリギリに登校する亜樹であったが、今朝は少しだけ早く登校してきたのである。多くの生徒が下足室に向かう当たり前の時間帯にその場にいるのは久しぶりだ。  賑やかに生徒が行き交う昇降口を過ぎると、三年生の下足箱のあたりに数人の下級生が群れているのが見えた。亜樹は誰かを期待して待っている様子の女子生徒たちを尻目に、さっさと靴を履き替える。朝っぱらから喧しいことだと多少煩わしく思うものの、亜樹はそれを顔に出さないというスキルをようやく身に着けていた。  そんな女子生徒たちが、にわかに華やいだ声を出し、ひそひそと盛り上がるのを亜樹は耳にした。亜樹はそちらを振り返り、そして唖然とする。  珠生が、にこにこと営業スマイルを浮かべて、その女子生徒たちに挨拶を返している姿を見たからだ。 「沖野先輩! あの……よかったらこれ、読んでください」  その群れの中ではそこそこ可愛らしい部類に入るであろう女子が、珠生に一通の可愛らしい封筒を手渡した。周りにいる女子は、取り巻きなのかそれとも珠生を近く見たいがためについてきただけの女子なのか分かりかねるが、皆がきらきらとした目で珠生を見上げていた。 「……ああ……うん。ありがとう……」  遠慮がちにそれを受け取り、引きつった笑みを浮かべる珠生に、女子生徒たちはうっとりしている。少し離れた場所からも、たくさんの女子生徒が珠生を見つめていることに気づくと、亜樹は呆れるを通り越して感心してしまった。  高校三年生になってから、珠生は異様にもてている。  それも、一年生や二年生からの人気が凄まじいのだ。  女子生徒は大概見目のいい年上の男に憧れ惹かれるものだが、その法則を裏切ることなく、珠生は下級生にすこぶるモテた。  その美しくも華やかな見た目もさることながら、珠生はここ一年で営業スマイルという技を身に着けている。昔はとっつきにくい印象だった珠生も、そうなってからは他人に対しても優しげな雰囲気を醸し出すようになっていたため、下級生たちがこうして声をかけてくることもしばしばなのである。  ラブレターを受け取って、そそくさと教室に逃げようとしている珠生が、ふと亜樹に目を止めた。亜樹のなんとも言えない表情を見て、珠生は苦笑する。 「……おはよう」 「朝から大変やな」 「……まぁね。早く行こうよ」  珠生に促され、二人は並んで教室へと歩き出す。きっと背後の生徒たちは、あの女は誰だと噂しているに違いない。 「ラブレターやろ? 古風やなぁ」 「さぁ、なんだろうね」 「阿呆やなぁ、昔みたいにつんつんしとったら、こんなことにはならへんかったやろうに」 「だよね……後悔してるよ」 「といいつつ、調子乗ってるやろ、自分」 「乗ってないよ。乗れたらもっと楽しいのかな」 「アホか。エノキのくせに」 「……五月蝿いなぁ」  珠生はむっとした顔を見せて、さっさと奥の教室へと歩いていった。  こうして並んでみると、珠生の背がまた伸びていることに気づく。ほとんど一緒だった二人の身長が離れていくにつれて、珠生に感じるもどかしさは募っていく一方だった。  もっと素直になりたいのに、いつものように憎まれ口を叩いてしまう。  前世の記憶に急かされるかのように深春の世話を焼く珠生の役に、もっともっと立ちたいと思う。でも亜樹は千珠であった頃の珠生を知りようがないし、千珠であった頃の彼が何を想いながら生きてきたのかを、知らない。  舜平に聞けばきっと、少しは過去のことがわかるだろう。でも、直接珠生から聞くことでしか、真実は知りえないのだ。  一向に縮まらない距離が、もどかしい。  亜樹は苦い想いを抱えて、E組に消えていく珠生の姿を見送った。  +    教室へ入った珠生は、ようやく息をついた。さすがに三年の教室まで攻めてくる下級生はまだおらず、ここにいさえすれば平和なのだ。  珠生は窓際の真ん中辺りにある自分の机に荷物を置くと、どさりと椅子に座り込んだ。隣の席で机に伏せって眠っていた空井斗真がその気配に顔を上げる。 「おう、おはよう」 「おはよ……」 「一日が始まったばかりっていうのに、もう疲れてるやん」 「うん……ちょっとね」 「またモテてきたん?」 「なんだそれ。……うんまぁ、そう言う感じ。ラブレターもらった」 「え、うそまじ!? 見せてみせて!」  斗真はいきなりテンションを上げると、珠生の手にあるピンク色の封筒に手を伸ばす。珠生は即座にそれを避けると、「いやいや、それは駄目だろ」と言った。 「俺、ラブレターなんかもらったことないわー。ええなぁ」 「でもこれ……どうしたらいいのかな。返事とか書くの嫌だよ」 「女はそういうもんは渡すことに意義があるの。それで満足なの。放っといたらいいねん」 と、斜め後ろの席に戸部百合子がそう言った。 「そうなの?」 と、珠生は椅子に横座りして百合子を見た。 「そうそう。しっかしまぁ、本当にモテるね。もう感心しちゃうわ」 「いや……これはこれで困るんだけどね……」  苦笑する珠生の顔を、百合子はしげしげと見つめてみる。見慣れつつはあるが、確かに珠生はとても美しい顔立ちをしているし、高三になってからどことなくさらに色香が増したようにすら思える。  ――亜樹のやつ……このまま放っといたら良くないんじゃ……と、百合子が焦ってしまうほどだ。 「球技大会が恐ろしいわ。去年もあのモテっつぷりやったもんな。でも、今年も俺とバスケ出るよな?」  斗真がびしっと親指を立てて爽やかに笑ってみせると、珠生はまた苦笑いをした。 「……いや、どうしようかな……」 「いいじゃん、ここまできたらとことんモテちまえ。今年は絶対勝つ」 「……うーん……」 「駄目やろ! バスケはあかんて!! これ以上ファンが増えたら困る」 「なんで戸部が困んねん」 と、斗真。百合子ははっとして口をつぐむ。  いかんいかん……亜樹のことはうっかり口には出来ないのだ。 「……三年生の意地や」 「はぁ? 意味わからん」  二人の会話を聞きつつ、珠生はため息をついて椅子に座り直した。

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