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第25話
小雨の降る夜だった。今朝方に雨の気配はなかったような気がするが、出勤する道中ですれ違う人々がもれなく傘を差していたということは、皆には朝から傘を手に出かけるべしと予報されていたのだろう。
「夕方以降の降水確率100%だった」
商売人としての欠点でもあるが、自分はおよそ、天気予報をまめにチェックするタイプではない。大抵はウィンドブレーカーのフードを被れば済むと思っている、というか実際に今日もそうだった。丈に真実を告げた男も、いつもの防水パーカーに、雨の日は防水リュックなので、この程度の雨では傘を差さない。
「兄弟ですね」
軽く吹き出したのをごまかせたとでも思っているのか、日夏にはなぜか、それがつぼに入ったようだった。
開店早々やって来た崇は、数時間キーボードをカチャカチャと鳴らしていたが、おもむろに焼きうどんを所望すると、それを平らげて酒は飲まずに帰って行った――居酒屋をなんだと思っているのだ。うどん玉などもちろん常備しておらず、まあ最近ではそういった無茶振りに対応して買い出しに出かけることも多かったが、率先してその役目を引き受けていた日夏がおそらくアパートから出ないのと同じ類の理由で店外に出るのを拒否したがるだろうと予想するのは容易で、厨房に残る価値もない店主が買い出しの役目を担うことになった日でもあった。
自分が買ってきたのは冷蔵用の賞味期限の短いうどん玉だったが、冷凍うどんでも作れるとの料理人の言もあり、焼きうどんは東雲のフードメニューに追加される可能性が濃厚になった。細かく切った余り野菜と豚肉とで合わせて炒め、味付けは醤油だったが、個人的にはソース味がいい。
と、他意なく呟いたら後から出てきたソース味の焼きうどんは、実にうまかった。小洒落たミルで挽いた黒胡椒ではなく、テーブルコショーが多め使われていたのがまたいい。痒いところに手が届く、という感覚が味覚にも起こりうるものだと知る。本当に気の利く料理人だった。
カウンターの常連客も今日は姿を見せず、ちらほらとやってくる客も長居はせずにせいぜい一、二杯引っかけて帰っていく。
「日夏」
「はい?」
穏やかに応える日夏も、諦めたのか段取りが良いのか、既に翌日の仕込みに入っている。
「今日はもう、店じまいにすっか」
「わかりました」
こくりと頷いてカウンターから出る日夏の、華奢な体の上に乗った小さな後ろ頭に向かって話しかける。
「ここんとこ雨が多いな」
「あ、かもですね」
統計に基づいた発言ではない。そう言えば少し前にも、雨で客足が悪く早じまいした日があったと思い出しただけだ。思い出せるということは、比較的最近の出来事に違いない。悲しいかな、中年の記憶力などその程度だ。
日夏がガラリと戸を開けると、さらさらと小雨の音と、濡れたアスファルトの匂いがする。遠くでは、濡れた道路を走る車の音。それから――
カラン、と、近くで大きな音がした。
棒切れが落ちたような音。つまり日夏が暖簾を落としたのが、ここからでも見える。丈がカウンターから出たのはしかし、それをわざわざ確認するためではなかった。二歩、三歩、と後退りする日夏の背中を、片手で受け止める。
「どうした」
日夏はこちらを見上げない。ぎゅっと身を縮め、じっと、前を見つめている。
前方の暗がりには、傘を差した男が立っていた。すらりと伸びた脚、短い黒のコート、男が軒下に入り傘をたたむと、泣きぼくろのある端正な顔が店内の明かりに照らされた。
「やっと見つけた、ひな」
切なく日夏に語りかける男は紛れもなく、先日、日夏を探して東雲にやって来た男だった。
「なんで、ここ」
「お前、ケータイどこやったんだよ。心当たりのやつらのとこには行ってないっていうし、別れたのこの駅だったから、探し回ったんだぞ。また住み込みで働いてたのか?」
少し眉根を寄せ、それから、柔らかく笑う。男からは心配と安堵、それから気遣いが滲み出ている。それなのになぜか、日夏の声はひどく硬く、震えていた。
「なんで、ここ、わかったの」
「――言ったろ、探し回ったって」
そう言って男が丈へ向ける顔は、対して、しらを切ったあの時に見せた失望の表情とさほど変わらない、興味のなさそうなものであった。
「ここ。居心地、良さそうじゃん」
「帰って」
「ひな」
「帰れよ」
「迎えに来たんだよ」
「帰ってよ」
日夏は頑なだった。
「おい、ひな」
微苦笑の男が肩に触れようとした瞬間、弾かれたように、いや、まるで殴りかかられでもしたかのように、日夏が両腕で頭を庇って身を竦めた。
咄嗟だった。丈は男の手を半ば払うように抑え、
「悪いな」
危うく咄嗟のまま加減を間違えるところだったと気付き、力を緩め、ゆっくりと引き離す。
「今日はもう閉店なんだ。暖簾、出てないだろ?」
出ていないというか、足元に落ちているのだが。
丈の目配せにつられたように一度外を振り返った男は、こちらに向き直ると、ため息とともに手首を振った。
「――ああ、悪い」
男は丈の手をほどくと、軽く顎を引いて頷く。
「明日、また来ます。わかったな、ひな」
俯く日夏の顔を覗き込んで言うと、たたんだばかりの傘を開いて、男は雨の中へ踵を返す。
日夏は無言だった。
黒づくめの後ろ姿が見えなくなるのを待って、丈は慎重に日夏の肩を叩く。
「おい」
「あ、はい」
「大丈夫か」
日夏はほんの少し口の端で笑ったが、はい、とは言わなかった。
拾い上げた暖簾は、泥水をたっぷり吸っていた。
「そういや暖簾、洗ったことなかったな」
今夜この暖簾が落ちなければ、その事実に気付くこともなかったろう。
思案しても仕方ない、とりあえずゴミ袋に詰めて、自宅に持ち帰る。隣も下も空室だとはいえ、夜中に室外の洗濯機を稼働させるわけにもいくまいと、風呂場のバケツに洗剤を溶いた水を張り、浸けておくことにする。
出勤前に改めて洗濯機にかけて、そのまま軒先に吊るしておけば、その内乾くだろう。
最後の煙草をもみ消してから、どれくらいぼんやりしていただろうか。
パソコンの中も、海外ニュース動画はとうに終わり、リピートボタンを映したまま無音でいる。新着メールの知らせもない。
隣室の戸が慎重に開かれる気配にも、いい加減慣れたというものだ。
少しは眠ったのだろうか。
よっこいしょ、と、辛うじて口には出さず脳内で呟き、炬燵を出る。ガラリと戸を開け、丈は確認もせず玄関に向かって声をかけた。
「煙草買って来てくれ。いつものやつ」
臆病な小動物のように跳ねた後ろ姿。身体をすっぽり包むジャケットの、ファー付きの大きなフードも揺れる。
日夏の細い指が、おずおずと、玄関のチェーンにかかるところだった。
「ゆう……あいつには、出てったって……消えたって言ってください」
「それでお前はいいのか」
柱に寄りかかり、俯いているのだろう日夏の後ろ姿に問いかける。
予感はあった、おそらく彼は出て行くだろうと。そうやって、あの男から逃げるのだろうと。
「すいません、こんな勝手な、責任感ないことして。ばっくれなんて最低ですよね」
返ってきたのは、予感を肯定する言葉だった。
「いいのか、と訊いている」
「……ほんとに、すいません」
「叱ってるわけじゃない。お前は、ここでばっくれて、どうすんだ?」
「どうしようもないよ」
即答に、丈は思わず戸惑った。きっぱり言うようなことではない。
細い指でチェーンを絡めとり、しかし、日夏はなかなか外そうとしない。いや、できないのだろう。
「いつもだったら、匿ってくれそうな友達あたって、置いてもらって。でもすぐバレて、連れ戻されて……だったけど。ケータイ捨てちゃったし」
そこで口を噤み、ややあって、日夏ははじめて振り向いた。
薄暗い影の中で、目が合う。
日夏はにこっと奇妙に明るく笑い、失敗し、唇を歪めた。
「俺……どうしたら……」
「簡単だ」
丈は廊下に一歩踏み出した。素足には堪える、馬鹿みたいに冷たい廊下だ。
もう一歩、二歩、と近づいていっても、日夏は後退らなかった。そうして、彼の小さな頭に手を置くまでに近づく。手のひらから、生き物の体温が伝わってくる。
「助けて、って言ってみろ。会った時みたいに」
朦朧としていた彼は、その時のことをほとんど覚えていないらしいが。
「どうして、俺なんかに、そんなさ」
「まあ、成り行きってやつだな」
そう、あの時ゴミ捨て場で朦朧と倒れていた彼を担ぎ上げた理由など、その一言で足りる。
「本人を前にして言うことでもないが、お前には相当情も沸いてる。どうにも俺はお人好しらしい。昔っから言われるんだ。浩輔にすら注意される始末だからな、今さら治らん」
そんな自分にとって、今もう、東雲の料理人でありこの部屋の居候でもある彼を助ける理由など、彼自身がそれを望めば、それ以上は何も必要としないのだ。本人は卑下ばかりするが、どうして、などと訊かれても答えはそれしかない。
「言ってみろ」
頭を掴んで揺らすと、声より先に、はらりと涙が落ちてきた。
小さな頭が、胸に押し付けられる。縋るように両腕を掴むのは、まさに、縋るために違いなく。
「――お願い……助けて……」
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