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第27話
「ちょっと丈さん、なんか暖簾が湿ってるんだけど!」
来店の第一声は悲鳴に近かった。
「おう、洗いたてだからな」
「なんで威張るの?うっかり素手で触った俺の身にもなってよ。直前まで手袋してたのに、うっかり素手で触った俺の気持ち!」
両手の指をしきりにうごめかせて見せるのは、その気持ちとやらの表現なのだろうか。よほど不愉快だったらしい、数少ない取り柄であろう美貌を露骨にしかめながら、カウンターのいつもの席に着く。長い脚を投げ出すように組むと、片肘を付いてこちらへ身を乗り出した。
「ちょー冷たかった!謝って!」
口を尖らせるエディの要求に応えたのは、丈ではなくその隣、神妙な面持ちの日夏だ。
「……すいません、俺が落っことして汚しちゃって」
「全然気にしてないよ~、びっくりしただけ」
一瞬の威勢は幻だったのか、にへら、とクレーマーの態度は一変する。ひどい差別もあったものだ。
「でもさ、こう寒いと凍っちゃうんじゃない?」
「お前、水が何度で凍るか知ってるか?」
「知ってるよ、あくまで体感の話。凍っちゃうんじゃないかってくらい寒いよねって話でしょ?嫌味っぽーい」
「そうかよ、悪かったよ」
実際には、零度でなくとも風や湿度などの条件が揃えば可能性はあるが、今夜は風もなく比較的穏やかな天候だ。放っておいても暖簾が凍ることはまずないだろう。
「で?何にする?」
「熱燗ちょうだい。今日は特に指先が冷えるので」
「嫌味っぽい客だな」
「丈さんは少し反省して。他のお客さんだってびっくりするよ」
「替えの暖簾なんてないし、干す場所もないんだからしょうがねーだろ」
「だからなんで威張るの?あ、ひなっちゃん、大根ちょうだい」
いつもの注文を受けて、再び日夏が済まなそうに肩を縮める。
「すいません、今日、大根は……」
「えー?ないの?」
「仕込みが間に合わなくて、まだ染みてないんです。ほんとにすいません」
「そっか。じゃあ、今日のおすすめは?」
「肉じゃがなんてどうですか?じゃがいもを皮つきのまま素揚げしてから、他の具と甘じょっぱく絡めてあるんです。季節ものだと、れんこんのきんぴらと、今日は鯖の味噌煮を作ってあります」
「うーん、全部ちょうだい」
「はい。あ、あと、大根の皮の再利用なんですけど、小松菜とちくわと一緒に炒め煮にしたのがあるんで、よかったら」
「うんうん、もちろん」
日夏の肉じゃがは、じゃがいもと牛肉、そして玉ねぎだけのシンプルなものだ。そこに彩りとして絹さやが添えられる。そもそも彩りなどという概念のなかった東雲に、その類の食材が常備されるようになってしばらく経った。
昨夜ごたついたこともあり、仕込みの遅れた大根おでんはどうやら料理人にとってまだ人前に出せる状態ではないらしい。せめてもの埋め合わせにと、残りの皮で一品作っていた。以前の失敗を経て、大根の皮は太めの千切りにしてあまり火を通しすぎないほうが歯ごたえが残ってうまいという結論に至ったとか。彼が失敗と評したほうの炒め煮も、じゅうぶんうまかったのだが。
エディを適当にいなして徳利を温めていると、浩輔がやって来る。
「おす。丈さん、なんか暖簾湿ってるんですけど」
やはり嫌そうな顔をしながら入口を指差すので、早くもうんざりした気持ちになる。
「洗ったからな」
「洗った?何でまたそんなこと」
無精な店主の自覚は余りあるとはいえ、心底驚かれると腹立たしい。
「あの、俺が昨日地面に落としちゃったから」
「おお、そっか。それじゃ仕方ないよな」
そして真相を知ると途端に態度を変えるのもまた、世の道理であり丈にとっての不条理であった。浩輔はエディの隣に腰かけながら、日夏の顔を不思議そうに覗き込む。
「なんだよ元気ねーな。そんなにしょげることかよ」
職業柄か、元々直観的な性質だからか、他人のちょっとした様子の変化に敏い男だ。ただし配慮には欠けるので不躾な失言となることも多かったが、今の浩輔の何気ない言葉は、日夏にとって悪いものではなかったろう。ちらりと明るい顔をしたようにも見える。
「でさ、クリスマスパーティーだけど。二十五日でいいよね」
「ああ、俺はいつでもいいぜ」
「ってことで、よろしくね、丈さん」
熱燗とビールに口を付けながら、二人が相槌を求めるように丈を見る。
「――待て、何がだ?」
「だから、クリスマスパーティー。イブは明日だけどさ、金曜だし年末だから、あっちゃんと雪絵ちゃんは今年一番の忙しさで残業確定だって。崇さんは、今日明日と打ち合わせ兼忘年会が立て続けらしくて、今東京だし。俺も明日は学校のほうでパーティーあるし。だから土曜日ね」
「だからってなんだよ」
「土曜なら休みだもん、あっちゃんも雪絵ちゃんも、みんなみんな」
「いや、休みに無理して来なくていいぞ」
「無理してでも来るよ。東雲でクリスマスパーティーって最高に意味わかんないじゃん」
「やるなんて一言も言ってないだろうが」
「楽しみだな~」
世の中のムードに合わせてクリスマスメニューでも、というのは確かに冗談半分で話題には上っていた。しかし、パーティーなど誰が言ったのだろう。少なくとも店主ではない。言ってもいないのになぜか決定事項になっており、メンバーも召集済みとなれば、開催は不可避と覚悟したほうがよさそうだった。
ガラリと戸が開く。まずぼんやりと振り向いたのは既にほろ酔いの浩輔で、その肩越しに、つられたようにエディも背後を見やる。やがて二人は、それぞれの表情で――エディは今にも喋り出しそうに、浩輔は難しげに唇を結んで――それぞれに姿勢を戻した。コンロの火を消す際に目に入った日夏の白い手は、前掛けを硬く握っている。
三番目の客は、開口一番暖簾について文句を言うようなことはなかった。いや、そもそも客ではない。黒の短いコートを着た、すらりとした男。ゆっくりと近づいてくると、億劫そうに顔を上げる。
「やってますよね?」
見れば明らかなことをわざわざ訊くのは、昨夜、営業時間外を理由に追い出したのを腐しているのだろう。律儀なことに、言葉通り時間内に出直して来たということだ。
「ああ。呑んでくか?」
「いえ」
にべもない返事に、ほどよく燗のついた二本目の徳利は、予定通りエディの元へ出すことになる。
名前を悠生といった男は、それ以上こちらへ関わろうとせず、カウンターを隔てた日夏を見る。俯いたままの日夏は、その視線に耐えるようにぎゅっと身体を竦めていた。
「おばさんから電話あった。お前と連絡取れないって心配してる」
「お母さんから……」
「ごまかしといた。早く連絡してやれよ」
「うん……」
「じゃあ、帰るぞ」
左右に揺れた長い前髪は、無言の拒絶だ。
「ひな」
手を伸ばされると反射的に身構えるのが癖になっているのだろう。びくりと半歩後退ると、日夏はもう一度首を横に振った。
「嫌だ」
発した言葉は消え入りそうではあったが、決して聞き違えることのできるものではなかった。
「帰らない」
「何言ってんだ……」
彼が理解できないのはだから、意味ではなく意思だ。端正な顔に、困惑と苛立ちが滲むのが判る。
「お前一人で何ができるんだよ。他に行く所もないのに」
「ここがある」
静かな店内に、か弱くもきっぱりした声が響く。
「俺もう、ゆうのとこには戻らないよ」
悠生は浅いため息を吐くと、カウンターに両手をついた。
「俺は、ひなさえ戻ってくれば他はどうでもいい」
日夏の顔を覗き込んで、言い聞かせるように言う。
「言ってる意味わかるよな?この店のことなんてどうでもいいんだよ」
頑なに俯いていた日夏が、はっと顔を上げた。
「やめて――」
何のための制止だったのかはすぐに知ることになった。
カウンターの上が無造作に薙ぎ払われたのだ――床に叩きつけられた食器が耳障りな音を立てて次々に割れ、食べかけの酒肴が飛び散る。目の前の皿を突然払われたエディが、
「ちょっ、何やってんの!?」
手酌の動作のまま椅子から滑り落ち、それを浩輔が抱き留める。転がった徳利を掴んでさらに投げつけようとする悠生の腕を、カウンターから身を乗り出した日夏が掴んだ。
「やめてよ!」
あっけなく徳利は放られ、ガチャン、と割れる。飛びついた日夏の髪を乱暴に掴んで引き寄せると、悠生は無感動な口調で言った。
「帰るぞ」
「……わかったから、やめろよ」
「帰るんだな?」
苦悶の表情は、葛藤の証明でもあったろう。しかし、やがて横目で丈を見た日夏の顔は、諦めの色に支配されていた。どんなに決別を誓っても、現実に直面すれば脆くも崩れる。昔、似たような境遇の女を匿ったことがあったが、女もまた戻っていった。得てして彼らのような関係というのはそういうものらしかった。
浩輔は背後で確保の体勢を取っているが、それを目線で制する。
「ひな?」
「……かえ」
割って入るのは自分の役目だ。
「いい加減にしろ」
「関係ないでしょ」
「あるだろうが、大いに。皿は割れるは床は汚れるわ」
的確な角度に手首を捻られれば、誰であろうと力が抜ける。多少は痛かったろうが、日夏を引き離す間の一瞬だけだ。眉をしかめ、不愉快そうに丈を見る。
「……弁償しますよ」
「高いぞ。それに、うちの従業員に掴みかかるわ」
日夏を背中に庇いながら、自分からすればどちらもくびり折れそうな手首だということに変わりはないと思う。
「元従業員です。お世話になりました」
振りほどこうとしたのだろう、強引に肘を上げるので、
「いい加減にしろと言わなかったか?」
そのまま腕を取って上半身ごとカウンターに押し付けた。柔道の抑え込みのような要領だ、技術と力がなければ解くことはできない。今、間近にある端正な顔に取り澄ました表情はない。悠生はぎろりと丈を睨むと、歪めた口の端でおそらく笑おうとしたのだろう。
「色仕掛けでもされたのかよ」
「もっとすごいことだ」
易い挑発だったが。はっきりと怒りを買ったのがわかった。しかし事実、有効なのはその時成立した約束なのだ。
「看護師だって?じゃあわかるだろうが、ここをこうすればお前さんの肩が外れるし、ここなら腕が抜ける。で、このへんを押せば鎖骨、ここなら首が折れるな」
貧弱な身体を押さえつけながら、肩、肘、喉元、首、と一ヶ所ずつ力を入れながら説明する。
「まあ、そんなことしなくても、このまま絞めれば落ちるがな。大人しくしてれば、気持ちよくなれるぞ」
「何者だよ……」
苦しげな息の間からの問いかけには、事実を答えるまでだ。
「見ての通り、呑み屋のおっさんだ」
抵抗せずに身を任せれば、眠るように気絶できる。目が覚めた時も、まるで熟睡後のような爽快感を得られるはずだ。あと三十秒もあればそれを叶えてやることができるが、丈は力を緩め、拘束を解いた。まだ言うことが残っている。
「気は済んだろ?あとは日夏が決めることだ。ただし、よそで何をしようが構わんが、うちへは出入り禁止だ。意味はよく考えろ」
咳き込む狼藉者をやや強引に立たせ、押しやれば、あとは浩輔が心得ている。
「ひな――」
日夏は応えなかった。
「ったく、警察呼ばれないだけありがたいと思えよ」
抱えるように店外へ連れ出しながら、浩輔は二言三言説教でもしているのかもしれない。声が遠のき、開きっぱなしの戸からゆっくりと冷気が流れ込んでくる。
「追いかけるか?」
後ろを振り返りながら、尋ねる。
「介入しといてなんだが、こういうのは結局当人同士の問題だからな。追いかけるなら止めない」
顔を上げた日夏は、何と答えようとしたのだろうか。
「まあ……直接は、だがな」
ガラリ、戸が閉まる。一歩横にずれてやると、日夏からは、入口を塞ぐエディと浩輔が見えるはずだ。
「ひなっちゃん、怖かったねえええ」
気の抜けた声を出すエディは、こぼした日本酒で服に染みを作っている。浩輔はまだ難しい顔で、こちらを睨んでいた。
「丈さんは手ぬるいんですよ、せめて俺に一発殴らせてくれれば、店にも日夏にも恒久的な平和が訪れるっていうのに」
「何が平和だ。それこそ警察沙汰だろうが」
「で?で?」
ついさっきまで腰が抜けたように固まっていたくせに、何が嬉しいのか、エディが跳ねるような足取りで近寄ってくる。
「色仕掛けよりすごいことってなに?なに?」
「あ?ああ」
なるほど、身体は動かなくとも、耳聡さは変わらないということか。丈は苦笑しながら、日夏の頭に手を置いた。
「これだよ」
日夏が声も出さずに泣いている。
色仕掛けなどより、よほど突き動かされる光景というものだ。自分はどうやら思っていたより涙に弱く、しかも対象は女に限らないのかもしれない。
「あー、がっかりだけど納得だよ。ほらほら丈さん、こういう時はハグしてあげて」
どうせ揶揄いたいだけだろうが、気の優しい男の言葉に妙な説得力があるのは確かで、今はそれが必要だというのも同感だ。小さな頭を胸に引き寄せてやると、日夏は丈の服にしがみつき、やがて短く嗚咽した。
触れた手から伝わっていた息遣いが、少しずつ落ち着いていくのが判る。しばらくして、くすんと鼻を啜った後、腕の中の日夏は鼻声でぽつりと呟いた。
「掃除、しますね」
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