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第1話
満月の夜。
冷えた静かな部屋で、レンはガラスの前に椅子をひっぱってくる。すけるような白い肌、端正な顔立ち、闇に艶めくブロンド。外見年齢は二十代の青年で、人間が想像する美の理想を詰め込んだ彼は、疲れた顔でため息をついた。
この強化ガラスは熱も、放射線も、銃弾も通さない。市街地から遠く離れた施設の隔離室。現在の科学技術をつぎ込んで作ったのは、原始に近い草木が生い茂る、いびつな箱庭の檻だ。
吸血鬼であり、雇われ研究者のレンは、ガラスに向かって語りかける。
「なにが不満なんだ?」
吸血鬼と狼男の争いは吸血鬼の勝利で終結し、今や、狼男は絶滅危惧種となっている。
発情期の周期に合わせ、苦労して用意したつがいの相手とのお見合いは失敗した。箱庭の住人、狼男のトニーが嫌がったそうだ。だから、非番だったレンがこうして夜中に出勤するはめになった。
椅子に腰かけると、レンはだるそうに長い足を組む。
狼男研究所に勤めて、早十年。
研究対象は、トニーただひとり。百人ほど現存するメスに比べ、繁殖可能な若いオスは数人しかいない。
闇の眷属として、長きを生きるレンではあるが、そろそろ成果を出したいところだ。
レンは、白衣の胸ポケットからシガレットを取り出した。炎を指先で錬成しようとして、――やめた。
木々に絡みつくシダの向こうから、金色の双眼がこちらをじっと見ている。シガレットは、オーガニック嗜好のトニーが嫌悪するものだ。
いつもならば、大人しくシガレットをしまうところだが、レンの苛立ちは収まらず、火をつけた。鼻先で、紙が焦げ付く香りをかぎ、肺いっぱいに吸い込む。紫煙を吐き出したながら、言った。
「トニー、きみの注文通りのブロンドだった」
「あれは、くすんだヘーゼルだ。覚えとけ、レン」
間髪入れず、声が返ってくる。
出会った当時、トニーはまだ子供だった。変声期前の少女のような声だったのに、今では男らしい低音。野性味を帯びた美しい四肢を持つ青年となった。
だからこそ、レンは惜しいと思う。トニーの子どもは彼のよさを引き継ぐだろうし、そして子を成せるオスであれば、ここでの待遇もマシになるだろう。
「きみが髪フェチだとは思わなかった。でもいいじゃないか。目を閉じてしまえば、何色でも」
「匂いもだめだ。ドブネズミでも食ってそうな、ひどい口臭だった。……あんたが今つけてるコロンもひどいな。そういう匂いを好む女がいいのか?」
「食事中に呼び出されて、シャワーを浴びる暇さえなかった。そもそも、私が見合いに立ち会えなかったのは、きみが嫌がったからだ。仕事もろくにさせてもらえないなら、プライベートくらい、好きに過ごさせてくれよ」
レンはまるで恋人に浮気を責められている気分だった。とはいえ、研究所勤めになって以来、恋人はいない。仕事と結婚したようなものだ。そして、その結婚相手といったら、レンの努力に報いてくれない。
「自然交配を嫌うなら、体外受精しかないかもね。想像してごらんよ、トニー。研究所のみんなに見られて、マスをかく自分を」
「マスってなんだ?」
箱庭育ちのトニーは、俗世の言葉に疎い。
なんて返すべきか、レンは言い淀む。ため息交じりに、つけたばかりのシガレットを靴底でもみ消した。
「なあ、マスって?」
「ごめん、悪かった。所長には告げ口しないで。私が仕事中にへんなこと言ったって」
「……今も、仕事なのか?」
「仕事だよ。そうじゃないと、希少価値の高いきみと私はこうして話せない」
「じゃあ、俺と話している時間はぜんぶ仕事?」
トニーにしては珍しい感傷的な言葉に聞こえて、レンは伏せていた目を上げる。
いつの間にか、トニーがガラスの前に立っていた。満月の夜の彼は、気力・体力共に充実し、生命エネルギーオーラをただよわせている。
こうして自分から姿を見せてくれるのはまれだ。一瞬、トニーに魅入ってしまったレンは、ごまかすようにかぶりを振った。
「ぜんぶとは言わないけどさ。……でもきみの態度次第で、私はクビになるんだよ」
「あんたのために子作りしろって?」
「……言い方は悪いけど、そうなるね。でもそれだって、きみのた」
レンの言葉を遮るように、トニーの拳がガラスを強くたたいた。ドンと鈍い音が響く。拳がガラスに触れた瞬間、警告替わりの電流がトニーに流れたはずだが、彼は顔に出さない。
「俺を名前で呼ぶのは、あんただけだ。識別番号じゃない名前で、トニーって俺を呼ぶ。俺はあんたをレンって呼ぶ。それって対等な関係ってことだろ。……仕事なんて言うなよ」
トニーはレンを睨みつけたまま、もう一度、二度、三度と、拳をガラスに振り下ろした。
レンは慌てて椅子から立ち上がり、ガラスに駆け寄って叫ぶ。
「やめてくれ! トニー。警備が来る。そしたらまた懲罰だ。傷つくきみを見たくない」
けして触れられないとわかっていながら、レンはトニーの拳に自身の手を重ねる。しかし、それを拒絶するようにトニーは鼻で笑った。
「俺が傷つくと、実験動物としての価値が下がるから?」
「そうじゃない。友人としてだよ」
「俺は最初から、あんたを友人だなんて思ってない」
はっきりと言い切られ、レンは息をのむ。
吸血鬼仲間から、氷の男と呼ばれていた。他者を寄せ付けない冷酷さは闇の眷属として、名誉な通り名だった。
でも今となっては……。
たったひとりの男に公私ともども振り回され、彼の言葉でこうも心が揺れ動く。
レンは小さな深呼吸をして、言った。
「なあ、トニー、頼むよ。きみにはもう、選べるほど相手がいないんだ。文字通り、存在していない。運命の相手とのロマンチックな出会いなんて諦めてくれ」
「嫌だ」
トニーは握った拳を開き、ガラス越しにレンの手に自身の手を重ねる。流れ続ける電流が、トニーの皮膚をチリチリと焦がす。満月の夜の超回復能力さえ、間に合わない。
それでもトニーはレンを見つめたまま、熱っぽくささやく。
「あんた以外を抱きたくない」
「……きみはまた、そういうことを言う」
レンは笑おうとしたが、できなかった。トニーの真摯な瞳がジョークではなく、真実だと告げている。
次の言葉を探すうちに、警備員と医療チームが部屋になだれ込んでくる。監視センサーが異常を感知したようだ。トニーが原始の森に消え、レンはガラスの前から離れる。
部屋から追い出される前に、レンはこっそり振り返った。もう、ガラス越しの視線は感じない。
トニーに対しては、子育てのような感覚でいた。ずっと彼を見ていたから、彼の気持ちに気づかずにはいられなかった。でもまさか、抱かれたいと言えるわけがない。
施設の所長は、同性愛者の絶滅危惧種を保護するような良識は持たないのだ。
この愛が、トニーを殺すと知っている。いつか好転する未来を期待するほどレンは若くない。
だから、レンはトニーに聞かせるようにつぶやいた。
「次の見合いは、五日後だそうだよ」
愛を語るトニーに対し、愛を語らないことだけが、レンに唯一許された愛情表現だった。
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