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第1話

 夜半も近い頃、妙な気配に目を覚ました。時計にて確認した処現在の時刻は午前二時半過ぎ。此の様な時間に帰宅する者等居ないし、第一明日の業務に支障を来す。  気配に気付いた事こそ想定外の出来事だ。深夜に目を覚ます事等言語道断。理想的な睡眠時間から踏み外れてしまう。  然し如何にも気に成って仕舞うのは其の足音。上等な革靴の様で確りと重厚な鉄の裏板の音が響いて居る。探偵社の中に斯様な靴を持って居る者は居ない。  足跡が部屋の前を通って通路の奥へと進んで行く。ゆっくりと。其の先に在るのは太宰の部屋だけだ。  真逆元マフィアで在る太宰を狙った刺客だろうか。其の想像は容易かった。夜半に他の社員を起こす訳にもいかず、何よりも刺客が太宰の首を穫る方が疾いだろう。  極力音を立てずに寝具から身を起こす。寝間着の儘で在る事はこの際考えない事にしよう。武器となるのは此の手帳のみ。敵の力量は如何程なのか。危害を最小限に抑える事は可能であろうか。  ――考え乍ら玄関の扉を開いた。 「……あ?」  其処に、太宰の部屋の前に立って居たのは黒衣を纏った男だった。尺は賢治程であろうか、小柄ながらも兇悪な目つきと殺意を身に纏っていた。其の男の姿を俺は何処かで見た事が有ると思った。そうだ太宰だ。奴が以前酒の席で戯れに見せていた写真の中に其の男の姿は在った。  ――"中原中也"  そうだ中原中也だ。ポートマフィア五大幹部の一人。そして太宰はこうも云った。  ――"此れはねえ、私の前の相棒で元恋人" 「――中原中也、だな」 「……手前は?」 「国木田独歩。其れの、現在の同僚だ」  "其れ"と称したのは中原が両手にしていた荷物に対して。何処で酔い潰れる迄飲んだのか、何時も見る顔が締まり無く紅潮し中原の両腕に抱えられている。太宰は俺程では無い物の可也の高身長で有る為、体重も其れ形には有る筈なのだが、其れを意図も容易く表情も変えずに此処迄抱えて来られたと謂う事は、矢張りポートマフィアきっての体術遣いの異名は伊達では無いのだろう。 「嗚呼、手前が国木田――」  表情は尚も変わらぬ儘だったが、僅かな舌打ちが訊こえた様な気がした。 「丁度善い。此の扉開けて呉れるか? 見ての通り俺は両手が塞がって居る」  見れば彼の片脚は今正に太宰の部屋の扉を蹴り破らんと其の硬質の靴底が垂直に宛てがわれて居た。真逆本当に扉を脚で蹴破る気だったのだろうか。 「――解った。蹴破られると修理費が嵩む」  どうせ当人は支払いもしないのだろうが。彼の腕の中で愉しい夢でも見て居るのだろうか、小憎たらしい其のふやけた笑顔を一瞥し、外套の内衣嚢に入って居るであろう住居の鍵を探る為、手を伸ばしたと時太宰の僅かな呻き声が訊こえた。 「んー? 中也ぁ……?」 「好い加減起きろよ莫迦野郎」 「起きてる。起きてるよお……」  どうやら太宰は未だ夢現に居る様だった。中原はそんな太宰を煩わしそうに混凝土の地面へと落とす。……あれは痛い。流石の太宰も無機物は無効化出来ないだろう。 「痛いよう中也……」  太宰の外套から取り出した鍵で施錠を開ければ、中原は太宰を起こそうともせず其の脚を掴んで家の中へと連れ込もうとする。 「――待て、其れでは頭を打つ」 「頭打った位で死にゃアしねえよ」 「私の希望は美女と心中だ……」 「「知ってる」」  中原と言葉が被ったのは大変遺憾だ。何時の間にか夢現から醒めていたらしい太宰が打った後頭部を擦り乍ら起き上がろうとしている。  どんな経緯が有るのかは解らないが、恐らく中原は泥酔した太宰を此処迄運んで来たのだろう。危害を加える心算が無いのならば此れ以上此の二人に関わっている必要は無い。 「あれえ? 美女が居るねえ~お嬢さん、私と心中は如何かな?」 「手前の目は節穴かッ!!」 「……なあんだ蛞蝓か」 「縊り殺すぞッ!! 手間取らせて悪かったな。後は此方で何とかする」  二人の遣り取りを静観して居た事が気に障ったのか、中原は性質の悪い絡み方をする太宰の首根を掴み部屋の中へと引き摺込もうとする。……流石に殺される様な事は無い、と思いたい物だが……。 「あ、嗚呼……其れでは後は頼んだ。何か有ったら呼んで呉れ」 「問題無ェよ」 「ねえ中也っ、中也ってばあー訊いて居るのかいー?」 「嗚呼五月蝿ェなっ! 訊いてるっつうんだよ青鯖ッ!!」 「うふふー」  ……如何やら問題は無さそうだ。元相棒等とは云っては居たが、今でも随分懐いている様に見える。しかしあの二人の身長差は大した物だな。俺は太宰との身長差に別段不便を感じた事は無いが、当時は相応の苦労が有ったのでは無いかと推測出来る。  ――俺には関係の無い事だ。二人の過去に何が有ったか等に興味は無い。  ばたんと扉が閉まる無機質な音を背に俺は自分の部屋へと戻った。寝坊等有っては成らない事だ。……唯此の夜は其れが叶う事は無かった。何故なら一晩中隣の太宰の部屋から寝台の軋む音と何方の物か知りたくも無いが押し殺した嬌声が訊こえ続けて居たからだ。

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