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ラスティネイル
「どうしたらいいのかなぁ」
と、誰に向けて言うとでもなく溢して、ため息。こいつはまた何かで頭を悩ませているらしい。仕事帰り、いつものバー。店内には心に語りかけるニーナ・シモンの歌声と、無口な初老のマスター。駅の裏通りの、隠れ家的なこの場所を、社会人になりたてのこいつはいたく気に入って、以来通いつめて5年余り。今ではすっかり常連だ。それがついこの間のように思えるものだから、俺も大分年食ったなぁなんて途方に暮れてみる。時間は緩やかに、けれども流れを止めず、俺の横をぬるりと通り過ぎて行く。
何か、なんてわかっている。それはだいたいあのことに決まっている。大雑把で人の顔色なんて全く気にしないこいつが悩むなんて、本来ならめったにないことなんだ。変わったな、と今更になってふと思う。
「なんだ陽太、また喧嘩でもしたのか」
このやり取りももう何回目だろう。仕方ないから聞いてやる、というような態度をして見せて、バーボンを一口。喉をカッと灼いて通り過ぎる。潤してはくれない。陽太がグラスの縁を指でなぞりながら、口を開く。
「いやぁそれがさ──……」
どうやら案の定また相手の機嫌を損ねてしまったらしい。そんなことだろうと思ってたよ。「確かに俺もちょっと無神経だったかもしれないけどさ」なんて、やっと気づいたのか、お前の無神経さなんて今に始まったことじゃないだろ。と、喉から出かけた言葉を飲み込み、ひたすら愚痴を聞いてやる。こういう時は聞き役に徹するにこしたことはない。溜まったもやもやを吐き出して、そうしてすっきりした頭で、自分がどうしたらいいのか考えればいいんだ。俺が隣で全部受けとめてやるから。
「あ~でも話してたら俺が大体悪い気がしてきた……うぅ……」
唸ってカウンターに突っ伏す。これがいつもどおりの流れだ。もやもやを吐き出したあとは、自分で答えを見つけ出す。時刻は21時36分。だいぶ早い。新記録だ。いつの間にか陽太の目の前のグラスは空になっていた。下戸でカクテル一杯で酔ってしまうくせに、こいつはほぼ毎日仕事帰りに俺を飲みに誘っていた。それも今では珍しくなって、ここ最近は1ヶ月に1回位の頻度に減ってきていた。
「んじゃもう今日はお開きにすっか。お前の電車、今出れば丁度いいのあんだろ。」
「ん~そうする……」
陽太はそう言って緩慢な仕草で荷物をまとめ、席を立った。会った時より大分すっきりした顔をしている。もやを晴らせたみたいだ。良かった。こいつは元気なのが一番いい。
「俺はまだ飲んでくから。じゃ、気ぃつけて。」
「おぅ!隆二もな!」
カウンターに代金と俺を残し、出口へ向かう背中をグラス越しに見やる。酒は喉を潤してはくれない。渇いている、と気づくのを遅くするだけだ。
もう少しで出ていってしまう、というところで、「あっ」と突然小さくつぶやいて、陽太はおもむろにこちらを振り返り言った。
「隆二、いつもまじありがとな!やっぱ俺、お前といると落ち着くわ~、また今度飲みに行こうぜ、親友!」
言うだけ言って再び背を向け帰っていく。
親友。暖かくて冷たい刃物が、心にまた傷をつける。取り出して見れば、それはきっと赤く腫れているだろう。
「……また今度、か……」
本当に変わってしまった。何もかももう遅い。俺が迷っている間に、時は俺を置いて流れ去ってしまった。せめて親友というこの距離だけは、変わらないでいてくれよと願う。
渇いている。グラスを煽ると、それはもうすでに空だった。俺は物言わぬマスターにラスティネイルをオーダーして、目を閉じて陽太を想った。
奥さんと喧嘩した陽太が俺を飲みに誘うのは、次はいつになるだろう。
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