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アストランチア
やけに純粋な瞳だった。
「愛してる。」と告白したその瞳は、まっすぐに自分を射抜いた。とても心地よくて、本当に心の底から自分を愛してくれているのだと感じた。
けれど、自分の中のどこか小さな部分は、その視線に怖気づいてしまったらしい。幸福感の、その裏に、小さな怯え。それでも、愛されたくてたまらなかったから、真実の愛情が嬉しくて仕方なかった。
暫くは、幸福の海の中で、俺は漂っていた。
けれど、「愛してる。」と囁かれる度に、あの瞳が俺を貫く。そして、小さな小さな塊が、ぶるぶると怯え始めるのだ。
俺は怖いのが嫌いだ。
だから、その怯えから逃げようと思った。
夜毎、バーに行っては、知らない面々と酒を飲む。好きでもない女の髪に手を絡ませ、口紅のたっぷりのった唇にキスをした。請われれば、女の細い腰を穿った。好きでもない男とも、酒臭いキスをし、穿たれたり穿ったりした。そのまま、愛している者のいる家へ帰って、同じようにキスをして、体を繋げることもあった。女の長い爪がつけた背中の傷を晒したままだったり、男の放った体液を内蔵の中にぶちまけたままだったり。そのままで、抱き合った。
それでも、愛しい人は「愛してる。」と純粋な瞳で言った。心底、愛してくれている。どうして、としか思えない。どうして、「愛」だけを向けられるのか。
いっそ、憎んでくれたら楽なのに。
どんなに不義理を働いても、やっぱりその瞳は、俺を甘く痛く貫く。
愛情は、憎しみよりも重かった。
愛情の海から、俺は浮きあがれない。コポコポと肺から気泡が溢れていく。きっとその内、苦しくて仕方なくなる。酸素を欲しがる。けれども、俺は浮きあがれない。体は重すぎる水圧に、勝てない。
「愛してる。」
いつものように、純粋な瞳が言った。
どこにでもいるような声。別段、甘く格好の良い声ではないが、それでも自分には十分そそられる声だ。愛しい人の声、というだけで。
「……どうして?」
情事後の汗で湿った髪を梳く手は、質問に止まることもなく優しく動く。くすっと小さな笑い声が耳をくすぐる。
「愛してるからだよ。」
いつも同じ答え。けれど、それが真実なのだと瞳は語る。嘘偽りはないと分かっている。だが、分からない。
「憎くないの?」
他の人と寝て。しかも、事後だというのに、何食わぬ顔で、恋人とも同じように寝て。
世間一般では、それを浮気と呼び、嫌悪し憎まれる為の術だ。
「憎くないよ。」
指は性器を愛撫するかのように、唇の端をくすぐる。
「……どうして?」
やはり、くすっと笑い声が聞こえた。
「愛してるから。」
純粋な愛情が、俺の空気を奪う。
キスもしていないのに、酸欠になりそうだ。苦しくて、苦しくて―――。でも、その苦しみが過ぎれば、とても心地よい浮遊感が待っていることを俺は知っていた。
「お前はさ、とっても弱いよね。自分でもわかってるんだろ?」
慇懃な指先が、唇を抉じ開ける。
「初めて、信じられる愛だと思ったんだろ?」
歯の位置を確かめるように、歯茎の上を滑って行く。指についた唾液が、唇を濡らしていく。
「だって、俺は、お前のその『弱さ』を愛してるんだから。」
薄く開いた歯の隙間に、指先が捻じ込まれる。熱い口腔に、熱の違う異物が。その内、同じ熱さになるだろう。
「俺はずっと、『弱さ』に『愛してる』って伝えてきたんだ。だから、憎いはずがないだろ。お前が、俺から逃げるその弱さも、愛おしくてたまらないんだ。」
愛情は募っていくばかりだと、愛しい人は言う。
指先が、ざらついた舌の上を撫でる。まるで呼吸を促すように、指は気道を開く。自分の唾液が流れ込む。こくりと喉が鳴った。
「お前は、弱いよ。お前は、弱さそのものだ。」
ぎゅっと抱きしめられる。温かな別の熱が、俺を抱擁する。
「愛してる。」
心地よかった。心地よくて、よくて―――怖い。
どうして、愛されてしまったのだろう、本当の自分を。
抉じ開けられる。
愛情が、俺を剥き出しにする。
皮膚も、肉もなく、何にも守られない俺が暴かれる。
そして、俺はきっとこのまま溺れる。
そこには、憎しみという浮輪がないから。
悲しみも、寂しさも。愛情しかない。そして、愛情は、何よりも重かった。だから、何にも守られない暴かれたままの俺は、底の底まで沈んで行ってしまう。
俺は、きっと死ぬのだ。心地よい愛情という海の底で。
End
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