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「あー…これは、あばらにヒビが入ってんねぇ。」 老眼鏡の中にある皺だらけの小さな目を、さらに小さく細めて医者は言った。黒地に白く浮かび上がった部位に、見事に割れ目が写っている。 「あ、そうですか。どうにも痛ぇからそうかなぁーとは思ってたんですよねぇ。」 ハハハと笑おうとして激痛が走った。痛みでわずかに前かがみになる小沢の姿に、医者は呆れ顔だ。 「まぁ、折れちゃあいないからね。別に薬飲んで安静にしててくれれば、すぐに治りますよ。ただねぇ…」 罅が入っているだろう胸の方へ視線をやり、勿体ぶった様子で言葉が止められた。すでにワイシャツを着ており、その下は一切見えない。 「あれかね。喧嘩かね?結構、他にも痣とかあったけどね。」 それとも他に何か理由があるのではないかと、その視線は語っている。その勘繰りを消すかのように、苦笑しながら明るい声音で小沢は言った。 「あー、そうなんですよ。喧嘩、っつーか…ほら、酒で、ね。酒が入るとこう…自分がデカくなったような気ぃするじゃないですか?それで、なんか、友人とちょっと…。」 「ああ、ああ、あるねぇ。でもねぇ、もう社会人になってるんだからね。学生じゃあるまいし…。せめて、アバラにヒビが入らない程度にした方がいいんじゃないですかね?」 「そうですねー。これを機に禁酒でもしますよ。」  会計を済ませ、病院を出る。いちいち五月蠅い医者だったなと皺くちゃな顔を思い出しながら看板を見やる。次になにかあった時には、もうここに来ない方がいいと思いつつ歩き出した。五月蠅い医者だったが、年を重ね経験を積んでいるせいか感が良すぎて困る。咄嗟にアルコールのせいだと嘘を言ったが、本当に信じてもらえたかはわからない。もしも、次にどこか怪我をして痣だらけの体を見られたら、きっとあの医者は核心をついてくるだろう。 そんなことを考えながら大通りに出ると、向かいからくるタクシーへ停まるように手を挙げた。乗り込んで自宅の住所を告げると、細心の注意を払って椅子に座る。ズキっと痛みが走った。 これでまた一つ自分が通えない病院が増えたと、小沢は痛みを感じながら思った。 おそらく肋に罅が入ったのは、一昨日。土曜の夜だ。 その日、いつにもまして狭山は荒れていた。罵倒から始まり、平手打ち、拳での殴打に鳩尾への容赦ない蹴り。せっかく営業で食べてきた高級店の料理が、見事に床へぶちまけられてしまった。鮑がすげぇうまかったのに、と今になってとても残念に思う。 いつもだったら他人にばれるような場所は痛めつけないのに、何度も頬を叩かれ、口の端が切れてじくじくと未だに痛んだ。 そうして、そのまま服を剥ぎ取られ、強姦まがいの痛々しいセックスになだれ込んだ。どうせ慣らしもしないだろうと思い、自分で準備しておいたのがせめてもの救いだった。そうでなければ、もっと酷いことになっていた。慣らしてさえ、シーツは赤く染まっていた。 不意に、翌日の狭山を思い出す。 目が覚めた時、狭山はソファの上に体育座りで震えていた。見もしないバラエティー番組を流したまま、ただずっと指が白くなるまで力を入れて身動き一つできずにいた。青ざめたその顔は、暴力を振るわれた小沢よりも滑稽だった。 怠い体を引きずって寝室から出てきた小沢に気づくと、狭山はまるで幽霊でも見るかのようにぎょっと目を剥き、その反動でソファから滑り落ちていた。おかしくて笑おうとしたが、ズキズキと痛む体にうまく笑えなかった。わなわなと唇を震わして、狭山は小さく掠れた声で、謝罪の言葉を告げた。 いつもと同じ光景だ。 「ごめん、ごめん」と泣きながら謝る姿に、小沢はほくそ笑んだ。口の傷が痛んだが、それよりも感情の方が勝っていた。 小沢はこの瞬間が大好きだった。 青ざめ、後悔に顔を歪ませる狭山の表情は最高だった。 一番好きなのは、自分に暴力を振るった直後の顔だ。一瞬、我に返り困惑したようなあの顔がとても好きだった。 馬鹿がつくほど生真面目で、完璧主義で、優柔不断で、臆病。それが狭山を表す言葉だ。人の目を気にして何も自己主張できない。狭山は馬鹿にされるか、空気のように無視をされるか。そんな存在だ。誰の目から見たって、ただ弱いだけの狭山。そして、それに苦しんでいるのを小沢だけが知っていた。なんていったって、二人の出会いは赤ん坊の頃で、親の次に付き合いの長い間柄だ。互いに相手のことを、よく分かっている。 弱くて仕方ないくせに、人一倍プライドが高くて、自分の弱さを素直に受け入れられない。だからこそ、溜まりに溜まった不満を解消する術を知らず、狭山は余計に苦しんで、更に弱くなっていく。 狭山は本当に、弱くて馬鹿で、可哀想な男だ。 狭山の中で蓄積されたどす黒い感情は、既に狭山の意思を支配し始めている。衝動は、もう抑えられない。小沢を殴り、蹴り、暴力の限りを尽くすことを余儀なくされている。そうしてまた、弱くて仕方ない自分を認識させられて絶望する。小沢への贖罪と後悔に顔を歪ませるのだ。 けれど、その衝動はすべて小沢に向かっている。 狭山は小沢にしか暴力を振るえない。 それが、小沢には嬉しくて仕方なかった。 弱くて生真面目なこの男は、きっと小沢への後悔を一生忘れない。否、忘れられない。 本当は、汚い言葉で罵られるのも、殴られ蹴られるのも、苦痛だけのセックスも、どれも好きではない。しかし、それらすべてが狭山の誰にも見せられない弱さであることと、それらによって狭山が後悔すること。そのことが小沢の表情を緩めさせた。 いっそ手足の一本くらい、狭山の手で不能にしてくれて構わない。 そうすれば、狭山は小沢から離れられなくなるだろうから。

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