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第1話
佐倉龍一。高校三年生。
久しぶりに袖を通した制服の、胸元にある刺繍が、そんな気の滅入る事実を突き付けてくる。ほんの数週間前までこの刺繍糸の青は二年生の色で、受験対策だ何だと騒がしい教師を尻目にみんなで余裕ぶってたって言うのに。
学生証、定期、いくらかの教科書と、済ませた宿題が入った鞄。ゴミ箱にでも投げ捨てたいそいつらを持った。随分と重い。重いのは気分かも。溜め息も床に急降下。昔から気分は上がりやすいし落ちやすい。この家のドアを抜けるまでが勝負だ、と思う。外に出てしまえばいつも通りに駅に向かい、同じ電車に乗る友人と顔を合わせて、くだらない話をしながら学校に着いて、予冷の十分前に席に座って……。
思い浮かべていたルーティンは、しかし唐突に聞こえてきた玄関からの物音で打ち砕かれる。
ちくしょう、何もこんな日に。
明らかに鍵が開いた音だった。不審者、とは思わない。この家、そこそこ高くてそこそこ広いマンションの一室の鍵を持つ人間は俺の他にも、もう一人。
俺に生活環境と金を与えるだけ与えて後は放任主義の男。滅多に顔を見せない薄情者。
俺の勉強机の上に飾った写真の中で、穏やかに微笑む若い女性の……。
「おい、いるのか」
横柄な声。変わってない。前に会ったのは正月だったから四か月前か。それだけ放っておいてよくもまあ普通に声がかけられるものだ。いや、四六時中一緒にいるなんてのも絶対に御免だけど。
苛立ちは隠せない。俺は机の上の写真を伏せた。機嫌が悪い俺を見られたくなかった。
もうすぐ出ないと電車に乗り遅れる。話を切り上げる有力な口実を握りしめ、俺は自分の部屋から出た。
「帰って来るなら連絡くらいしろよな。俺もう出るか、ら……」
できるだけ低い声で、不快だって伝えるために、早口で、足早に、そいつの横を通り抜けようとした、のに。
玄関には、二人いた。
一人は見知った男だ。大男。日本人離れした顔立ちは純粋なイタリアの血。どうやったらこんな完璧に歳を取るんだ、俳優か何かか、と舌打ちしたくなるほどのイケメンっぷり。今年で六十になるはず。テレビ越しに見るなら単なる羨望で済んだものを。
そしてそいつの隣には、まだ少し残っていた俺の眠気を全て吹っ飛ばすような、――輝きを放つ美貌の、男。
大男は、その華奢な美人の肩を抱いていた。
「再婚したぞ、リューイチ」
……これはどういう朝なんだ?
さいこん、って、あの、再婚? 何言ってるんだ。何を言ってるんだ、この、クソ親父は!
「と、突然ごめんなさい、龍一くん。ええと……、はじめまして……」
黒髪美人がぺこりと頭を下げている。
俺は手から滑り落ちていく鞄を思いながら、――母さんの写真を伏せた自分を褒めた。
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