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瞳の中の星屑

 新緑の森に囲まれた丘のうえに立ち竦むお屋敷の庭園。幾何学模様に拡がる花壇の傍で見事な鬣を靡かせる白馬を引いて、僕は佇んでいた。  今日、お屋敷に人はいない。毎月この日はそうと決まっているのだ。本来ならばこのお屋敷の主の愛するひとが訪れ、そしてふたりは目を覆いたくなるような淫靡な宴を夜を徹して愉しんでいるのだけれど、先々月半年ぶりに来たと思えば、ご主人様の待ち人はまた現れなくなった。それでもこの屋敷の主である白崎亨太朗は、律儀に毎月この日人払いをしている。  僕はと言えば、ここ三ヶ月程何かと理由を付けてこの日は屋敷に留め置かれ、何時も通り彼の暇潰しの玩具としての職務を全うしていると言うわけ。  今日は何をするのか知らないが、とっくに昼を過ぎた頃、漸く待ち人は来ないと諦めの付いたご主人様に、彼の愛馬ナポレオンを庭に連れて来てくれと言われ、そして今待ち惚けを食らっている。  乾いた季節風に乱れた髪を手櫛で直しながら、少し冷たくなった空気に身震いをした時。屋敷をぐるりと囲む貝殻の小道をこちらに向かうひとかげが目に飛び込んだ。  この国のひとと並べると見劣りのする華奢な身体のラインは、しかし計算され尽くした比率で形造られていて、靡く黒髪は夜霧に濡れているかのよう。  カントリー・フロックをモチーフとした群青色のジャケットにパンタルーン・トラウザーズ。足元は長いブーツと言う出で立ちは、幾ら昨今貴族の間で流行っているとは言え自身のスタイルに並々ならぬ自信を持っていなければ着こなせるものではない。だが我らがご主人様はそれが彼の為にこそ造られた服であるかのように感じさせる。その造形美は毎日見ている僕でさえ見惚れるほど。だが、この完璧な紳士について、知っていて欲しい事がひとつ。 「待ったかい、リリアン」  僕の名を呼ぶ甘美なテノールは、その類稀なる美貌に忠実で、余りの心地良さに誰もが耳を傾けてしまう。そして、この小さな胸を掻き毟る。 「いいえ、今丁度準備を終えたところです」  僕がそう言って微笑むと、ご主人様は肩を竦め嘲笑を漏らした。 「嘘をつけ。君は一時間も前からここでぼんやりとしていたじゃないか」  これが、この男、白崎亨太朗と言う男の真の姿。陰険で、ひとを嘲笑う事を血肉としているような性格のひん曲がった男なのだ。  しかし仕事もせず毎日貴族を招いてティーパーティーを催しているこの異国の紳士は、僕以外の人間に対してはすこぶる評判が良い。まず、何をとっても美しい。そして話術に長け、誰の心をも容易に掴む術を知っている。ひとめ彼を見たひとはその造形の虜となり、ひとたび彼と会話をしたひとは、その柔軟な精神の信者となる。  大袈裟な話しではない。僕は何人も何人も見てきたんだ。貴婦人ばかりではなく、紳士までもが頬を赤らめ彼を見詰める野性的な瞳を──。  不意に長い指先が僕の額を押し上げた。驚いて我に帰る僕の視界を、漆黒が支配する。 「また老人みたいな顔をして」  悪戯な笑みに、僕の心臓は無惨にも握り潰された。  悔しいが、僕は彼に勝つ事は出来ない。どれ程に腐り果てた精神を持っていると頭で理解していても、その瞳に見詰められるだけで思考なんて遥かへと飛び去ってしまう。  その薔薇色の唇に口付けたい。深雪の肌に触れ、甘い声が掠れるほどに──。 「君って、本当良く顔に出る」  またトリップしていた僕を呆れたように見詰めそう言うと、ご主人様はジャケットの胸ポケットに差し込んでいた乗馬用のグローブをするりと抜き取った。さあ、と掛け声を掛けて、白魚のような美しい指は、ぬらりと光る黒い革手袋の下に消える。バラ鞭を地に打ち付け、美しい唇が謳う。 「調教開始だ」  艶やかな黒髪が乾いた風に揺れ、僕は背筋を駆け上がる官能に震えた。だが、呑まれている場合ではない。 「ご主人様、ナポレオンは既に調教済みです」  このナポレオンと言う馬は、腕の良い調教師が調教した後このお屋敷にやって来た。気分屋ではあるが、基本的にはとてもしっかりと躾けられているし、ご主人様を信頼もしている。今更調教する事など、はっきり言ってない。  だが彼は強く首を振った。 「いいや、そうじゃない」 「はあ」 「何処ぞの男の手垢が付いたものなど僕が何時までも許しているとでも?」  また頭のおかしな事を言い出した。そう思い口を開けて惚けていると、ご主人様はふと白馬から僕に視線を流した。 「例えば、無垢であった君のように──」  革手袋の滑りが、僕の頬を掠める。 「つま先から髪の毛一本、そして血の一滴にさえも僕を刻み込んでやりたい」  耳元深くで囁かれ、僕は思わず喘いだ。触れられもしていないのに、まるで犯されているようだ。  くらくらと揺れる脳に耐え切れず、ぐらりと身体が崩折れる。膝が支えを失うよりも先に、彼の腕が僕を抱き留めた。  腕の中で見上げた瞳の中には、まるで深い夜に映える星屑が散らされているかのよう。 「どうしたんだい、僕の愛しのイリス」  ご主人様はそう囁くと、僕の頬を指の背でゆっくりと愛撫した。敏感な神経を撫でられているかのように背筋は甘く震え、僕は瞼を閉じては開けて何度も何度も懇願した。  この唇に口付けを、早く──。 「せっかちだね、君は」  ご主人様はそう言って嗤うと、からかうように頬に舌先を触れた。そのまま耳朶までずるりと舐め上げられ、また僕は喘ぐ。 「飢えた獣みたいに、何時でも瞳の奥の星空にばかり見惚れているのだから、全く困った馬丁だ」  耳元で吐息交じりの意地悪を言って、僕を困らせる。それが彼の趣味だとは嫌という程思い知らされている。  だから悔しくて、僕は彼の腕の中態とらしい本音を漏らした。 「僕は、貴方以外に見惚れた事などありません」  ご主人様の瞳がふと揺らぎ、まるで少年のような期待に輝く双眸に僕がはっきりと映り込む。 「……本気にしてもいい?」  余りにも予想外に彼が可愛い反応をするものだから、僕は途端に恥ずかしくなってそっぽを向いた。 「冗談に決まっているでしょう。こんな泥濘みたいな生活を続けているから、脳味噌まで腐り果てたのですか」  そんな僕の態度に、ご主人様は声を上げて笑った。 「今日は素敵な夜になりそうだ」  僕は彼の瞳に輝く星を眺めながら、彼の身体の甘さに想いを馳せた。月が昇れば宴が始まる。僕たちの、毒沼のような艶美なティーパーティーが──。

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