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星月夜

 その可憐な生き物は僕の腕の中にいる。夜露に濡れたような目。それを縁取る黒々とした睫毛。小さな鼻と愛らしい口。  うつらうつらしている時にその小さな鼻にそっと触れると、ミャアともナアともつかない鳴き声を上げた。きみは眠りを妨げられて嫌だったかもしれないが、その声がなんとも愛しくて、僕は何度もそんな悪戯をしてしまった。  愛しいその声は、ピンクの舌を隠し持つ口から生まれてくる。たとえばミルクを舐める時、ちろちろとその舌が動くさま。僕はそれを飽かず見ていたものだ。  その舌は案外と滑らかでないことも知っている。きみが時折僕の手を舐めたから。ミルクの匂いがしたのだろうか。それとも、撫でてほしいとねだっていたのだろうか。  僕は勝手におねだりだと解釈して、きみが僕の手を舐めたり、背中によじのぼろうとしたり、耳の裏の匂いを嗅ぐ仕草をしたりした時には、きみを抱いて、きみの好きそうなところを撫でてあげたっけ。首から肩、顎、背中から腰、そして、尻尾の付け根。  ビロードのようなきみの体を、いつまでも撫でていたかった。  猫みたいに鳴いて、猫みたいに体を丸めて眠るきみは、けれど猫用の食べ物なんか見向きもしない。きみが好んだものは金平糖にバラのジャム、そうかと思えば何故だかたまに、とっても臭いウォッシュチーズを食べたがったりもした。  体を撫でているうちに、きみはうとうと眠りだす。2人きりで過ごす休日ともなれば、僕はことあるごとにきみを撫でてしまうものだから、きみは一日の大半を眠って過ごした。  満月の夜だけは違ってた。いくら撫でても、きみに睡魔は訪れない。いくら撫でても満足しない。  きみの爪が僕に食い込む。こんな風に力の限りに抱いてくれと言わんばかりに。だから僕は必死に抱いた。するときみは僕の口に、舌をつっこんでくる。息ができないぐらいにたくさんのキスをせがむ。  満月の夜、きみのビロードの肌は大理石の肌に変わる。オオカミ男ならその日に獣になると言うのに、きみときたら逆なんだ。つくづく天邪鬼。  美術館から抜け出した彫像。もし月明かりの中にきみの姿を見た人がいたら、きっとそんな風に思っただろう。きみが大理石で作られたガニュメデスでもナルキッソスでもない証は、鋭い爪と縦長の虹彩。朝も昼も、満月の晩も新月の晩も変わらぬきみの証。  だから僕の腕やら足やら、満月の夜は血まみれになった。きみが爪を立てるから。女みたいに、月に一度血を流すなんて、悪い冗談としか思えないけれど。  激しい口づけを求めた次には、きみはもっと密な肌の触れ合いをしたがった。全身を僕に絡みつかせて、熱い肌を押し付けてきた。  夜露を含んだ目。縦長の虹彩。その目で見つめられると、まるで催眠術にでもかけられたようになってしまうんだ。僕は傷だらけの腕できみを抱く。気づけばきみの火照った中心に、僕は欲情を注いでいる。あんなに小さなきみの中に、どうして僕の大きな滾りが飲みこまれていけるのか不思議でならない。  きみは何度もせがんできて、僕は何度もきみを抱いた。そのうち僕もきみも体中がぬるぬるとして、僕たちの境界線が曖昧になっていく。肌に溶け出しているのは僕の血か、汗か、きみから溢れる甘い蜜か、もう判別はつかない。  やがて朝が来て、きみはビロードの肌に戻り、無垢なふりをしはじめる。僕も何も知らないふりをする。これは僕たちのたったひとつの約束事。僕たちが満月の夜、何をしているか、誰にも知られてはいけないのだ。満月以外の日の僕ら自身にさえも。  きみに出会ったのも、そんな何の変哲もない、満月じゃない夜だった。  きみは薄汚れた段ボール箱の中にいた。僕が気づかずその前を通り過ぎようとした時、きみはミャアともナアともつかない鳴き声を上げた。  僕はその日とても淋しくて。  そう、いつもじゃなかった。僕は気ままなひとり暮らしを楽しんでいたのだけれど、あの日に限って、なんだかすごく淋しかったんだ。あの晩は星がとてもきれいで、きれいすぎるほどで、月は出ていなかったのに、満月の晩のように明るかった。賑やかな星空の下を歩いていたら、なんだかとても孤独になってしまったんだ。  そんな時に、きみが鳴いた。捨てられた猫だと思って、拾って、コートの内側にかくまった。僕のアパートはペット禁止だったからね。1階の大家にばれないように細心の注意を払って、自分の部屋に行った。  黒い子猫に見えたきみは、大方はそれで合っていた。少なくとも最初の1年はそのままだった。少しばかり成長が早い気はしたけれど、そういう種類の猫なのだろうと思っていた。  きみとの暮らしも3年目に入った頃だろうか。僕が深夜に帰宅すると、僕の部屋には見知らぬ男の子がいて、僕の猫がいなくなっていた。  男の子は何も着ていなくて、そうして、尻尾が生えていた。今は上手に尻尾も隠すけれど、その頃はまだ変化も未熟だったんだね。ああ、もしかしたら、もう少し待てば、爪も虹彩も人間のそれと全く同じに変化させられるようになったのだろうか。  もちろん僕はびっくりして、警察に届けることも考えた。けれどすぐに分かったんだ。きみがミャアともナアともつかない鳴き声を上げて、僕に甘えてきたから。  それからのことを説明するのは、少し難しい。つまりきみが甘えてきて、僕はすぐにそれを受け容れてしまったってこと。  僕が単なる欲求不満からそんなことをしたわけじゃないってことは、きみには分かってもらえると思う。でも、きみ以外の人には伝わらないのだろう。  でも、きみさえ分かってくれていればそれでいい。  僕はきみをコートの内側に抱いた時から、きみを愛していた。  きみがまだちろちろとミルクを舐めていた時も。  きみが僕にキスをせがんだ時も。  きみが僕に体を開いてみせた時も。  ずっと、いつも、愛していた。もちろん、今も。これからだって。  ちょっとした手違いで、きみが窓明かり越しに大家に姿を見られてしまっても、僕はきみを責めやしない。  猫を飼っているだろうと彼は怒り、それからこどももいるだろうとも言った。どちらも不正確だから僕はきちんと否定した。だが彼は怒り続けて、抜き打ちで調べると脅しをかけてきた。  これはきみのせいじゃない。僕はそれまでもいろいろと、彼を苛立たせてしまうことをしていたから。たとえば、酔っぱらってガラスを割ったり、商売女を連れ込んだり、花壇の花をだめにしてしまったりといったことだ。これらはきみが来る前の話だから、ひとつもきみのせいじゃない。きみが来てからの僕は、今までで一番品行方正だったはずだ。  しかし、大家は執念深くて、僕を追い出すチャンスをずっとうかがっていた。だから、タイミングが悪かった。それだけのことなんだ。  今日部屋に戻った時、僕にはすぐに分かった。  僕の留守中にこの部屋に誰かが入ったこと。椅子やきみの寝床、それらが少しずつ位置を変えていたからね。それに何より、きみが部屋の隅でぶるぶると震えていた。  今日は何もしてこなかった。おそらく下見をしただけなのだろう。だけどきっと写真でも撮ってあって、後から僕たちを責めたてるんだ。それが明日か明後日か次の家賃の取り立て日なのかは分からないけれど、いつか必ず、そんな卑劣なことをするつもりなんだ。  ぶるぶると震えるきみを見て、僕は決心した。これ以上、きみにそんな恐ろしい思いをさせてはいけないって。僕たちの暮らしを誰にも邪魔させてはいけないって。  折しも今日は満月じゃないか。ビロードのきみも大好きだけれど、大理石のきみを特に愛してる。僕の肌に爪を立てるきみが何より愛しいんだ。  大理石は光を通すんだよ。きみの肌もまったくそうだ。月の光を浴びて、ゆっくりと光を放つきみ。石膏みたいな冷たい色じゃない。血の通った、温かな色。誰よりも美しくて、誰にも見せたくないきみ。  きみは変化すると心根までも変わるのか、ぶるぶると怯える姿は消え去って、いつもの蠱惑的な姿態を見せた。口づけをせがみ、爪を立てる。僕はきみのために血を流す。  そう、だから一度だけ、きみも僕のために血を流しておくれ。  僕は、美しいきみの咽喉元に切っ先を当てた。どこにでもある果物ナイフだ。そんなに素晴らしい切れ味じゃないし、僕もそんなに扱いに慣れていない。きみはすぐに死なない。  それでも萎えない僕を、いいや、いつも以上に硬いそれを、きみは体に押し込めたまま、ゆっくりと目を閉じた。最後にかすかに聞こえた、ひゅう、という音は声だったのか、傷口から漏れた空気の音か。  すっかり息が止まると、きみは少しずつ小さくなっていった。まだ満月は出ていたけれど、変化を保持する力は生が尽きると同時に消えてしまったのだろう。大理石の肌は、ビロードの毛皮に取って代わった。  僕の体は相変わらず血まみれで、僕の手もナイフも、月の光にぬらぬらと光っていた。  朝が来た。  その可憐な生き物は今、僕の腕の中にいる。夜露に濡れたような目は閉ざされたままだ。黒々とした睫毛は微動だにしない。小さな鼻に触れても何も言わない。冷たくなった愛らしい口に、そっと口づけた。なあに、怖くはない。これから僕も、きみのところに、すぐに、行く。

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