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明日も共に
いつだっただろうか、何故か痴漢の被害に遭った俺はおっさんに助けられた。といっても、おっさんは俺が被害に遭っていたことに気付いていたわけじゃあなくて、真っ青な顔で固まっていた俺を心配して声をかけてくれただけなんだけれど、それだけで痴漢はビビって手を引っ込めたし、俺としては十分助かった。だけどおっさんはそれだけじゃなく、俺を電車から下ろして、挙句自販機で買った水を手渡してくれた。
そして今は、俺が好きなジュースを買ってきてくれる。
「はい、どうぞ」
お礼を言いながらそれを受け取り、乾いた喉に流し込む。おっさんはカフェオレを飲んでいた。渋い面をしているくせに苦いものが苦手だし、声は震えるほど低いのに口を開けば優しいし、ギャップの塊のようなおっさんだ。横文字に弱いのは見た目通りだけれど。
「こうして二人で出かけるのは久しぶりだね。どこへ行こうか」
そういってカフェオレを飲み切ったおっさんはふわりと笑う。黒い帽子とコートが異常なほど似合っていて、くらくらした。
おっさんがいれば俺はどこでもいいよ、と言ってみる。するとまたおっさんは困ったような嬉しそうな顔で頬を掻くのだ。
「そうだなあ。じゃあ前は君の好きなところにいったから、今日は僕の好きなところに行っていいかい?」
俺が断るはずないのに、おっさんはいつも質問する。わざわざ確認する。まだ不安なのだろうか。もう俺は法律に守られるような年齢ではないというのに。こんな関係になってもう何年にもなるのに、まだ心配しているのだろうか。
俺は立ち上がって歩き出したおっさんの腕に両手を絡ませた。
「わっちょ…」
驚いておっさんの足が止まる。寒さのせいか照れているのか赤い頬でこちらを見下げて、口をぱくぱくさせている。すり、と頬を摺り寄せれば茹蛸が完成した。
もうこの手法も幾度となくやっているのだけれど、その度におっさんは真っ赤になる。
おっさん、俺のこと好き?
「へ?え、えっと…」
…嫌い?
「そ、そんなわけないじゃないか」
じゃあ、言ってよ。好き、って。
じ、とおっさんの目を見つめる。おっさんの目は面白い程あっちへこっちへ泳いでいた。あんなことやそんなこともとっくに済ませたのに、何を恥ずかしがる必要があるのか。まあ、この反応が面白くて俺も意地悪をするのだけれど。
ねえ早く、なんておっさんの腕を強く抱きしめる。するとおっさんは真っ赤な顔のまま帽子を取って、俺の両手から腕を引き抜いた。一体何を、と聞く前におっさんは腰を屈める。
「愛してるよ」
そう言い、優しく触れるだけの口づけをした。今度は俺が真っ赤になる番だった。
「ふふ。茹蛸みたいだね」
笑いながらそう言うおっさんの顔は思ったよりも赤くなかった。
* * *
辛くないかい?と、そう訊くと彼は潤んだ瞳でこくり、と頷いた。
背徳感が無いかと訊かれれば嘘になる。寧ろ、本当にこれでいいのだろうかと不安になる毎日だ。彼はいつも言う。もう子供じゃない、と。だけど僕から見れば彼はまだまだ若くて、これからがたくさんある。枯れ切った僕なんかを相手にしている場合じゃないんじゃないか。
僕はあまり長くはなかったけれど、結婚していたことがある。決して戻りたいとか今の生活が嫌だとかそういうつもりじゃあない。ただ、少なくとも幸せではあったのだ。愛する人と同じ苗字になって、愛する人と共に時を過ごす。それをたった一度ではあったけれど、経験した。
だが、彼はどうだ?
奥さんは愚か彼女すらまともにできたことがないという。それはきっと彼が縁に恵まれなかったからだ。彼はいい子だ。きっと気付いていないだけで、彼の事を想ってくれている人は少なくないはずだし、これから成長していく度にもっともっと多くの出会いがあるはず。
だけど、僕がそれを潰してしまっている。僕なんかにかまけている場合じゃないはずなのだ。もっと色んな人と出会って、触れ合って。そして普通に素敵な女の子と出会って、結婚して、幸せな家庭を築くべきなのだ。
そんなこと、頭ではわかっているのに、僕は彼を手放せずにいた。
「なあ」
突然頬を撫でられて、声を掛けられて、肩がびくりと震える。
「別の事考えてるだろ」
彼は不服そうに頬を膨らませながら両手を僕の首に回した。つう、と首の後ろを指先でなぞられて背筋にぞくりと何かが走る。
わかっている。頭ではわかっていて、もし本当に彼の将来を考えるならば今すぐにこんなことは止めるべきだと何度も何度も考えたけれど、それでも男というのは辛いもので自身の欲の化身ともいえるそれはどれだけ難しいことを考えようとも少しも萎えることは無かった。挙句、拗ねる彼を見て逆に元気になる始末。もう使うことはないだろうなあなんて思っていた数年前が懐かしい。
ごめんね、と呟くと彼は不服そうな顔のまま僕の指先に柔らかい唇を押し付ける。
「なんで謝るんだよ。また難しいこと考えてるだろ」
一度だけ、本当に一度だけ彼に言ったことがある。もう止めよう、と。君は違う人生を歩むべきだ、と。だが彼は首を振った。泣きながら。いやだ、と。僕の胸にすがりついて子供のように泣きじゃくる彼に僕は謝ることしかできなかった。もう二度と言うなよ、という彼の言葉に甘えたまま結局ここまで来てしまった。
「俺、おっさんのこと好きだよ」
そう言う彼は、苦しそうな顔をしていた。
「ねえ、それじゃダメなの?大人の事情とか、大人の考えることとか…俺まだわかんないよ。それとも、おっさんはもう俺に飽きたの?」
そんなわけない。逆なんだよ。
「…逆って?」
くて、と首を傾げる。彼の仕草一つ一つが僕の心臓を鷲掴んで、離さない。
放したくない。逃がしたくない。でも、君はまだ若くて、僕はもうおじさんだ。君はきっと僕しか知らないから…。
突然、彼がキスをしてきた。
「要するにさ」
とろりとした目で僕を見上げる彼に頭がくらくらする。
「俺の事大好きなんだろ?」
ああ。ああ、そうだ。君のことが好きだ。愛している。知れば知るほど沈んでいく。心地よくて、恐ろしい。こんな感情初めてだ。元妻にだって抱いたことはなかった。
捲し立てるようにそう言うと彼は驚いたように目を見開いて、やがて笑った。
「…嬉しい」
いつか絶対後悔する日が来る。
「それでもいいよ。だって今、俺幸せだもん」
そう言って、彼は両足を僕の腰に絡める。
「ねえ、まだ動いてくれないの?俺、お預けあんまり好きじゃないんだけど?」
絶対にいつか後悔する。僕も、彼も。
「おっさん。どうせ後悔するならさ、一緒にしようぜ」
多くを知らない彼は、簡単そうに言ってのける。後先を考えず、未来も顧みず。
「温かい家で、おっさんが作るシチューでも食べながらさ」
夢ではなく約束された未来を語る様に。
「あの頃は若かったな、って。手繋ぎながら…さ」
僕の左手の薬指を、物欲しそうな顔で握り締めながら。
「…だから、おっさん。おっさんの残りの人生、俺にくれよ」
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