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第1話

 四旬節も押し詰まったこの頃、暗く厳しい冬の終わりは、受難節にふさわしい。あともう少し。寒さがいばらのように身を苛むのも。  夏目隼人(なつめ はやと)はマフラーに首をうずめた。日差しは明るいけれど、頬にあたる空気はまだ冷たい。  春というのは、まだ名前のみだ。  隼人の目には青空が映っている。春の光。そう黒々と墨書したいような眩い光だ。  隼人は大学生。弟は高校生で今日は卒業式だった。 ◆  隼人が自宅に帰りしばらくすると、玄関の呼び鈴が鳴った。 「はーい、おかえり、ちょっと待って、今開けるから」  隼人は、内側からドアの鍵を回し、ドアノブを握ってドアを押し開けた。  ドアのすき間から光が射しこみ、隼人は目を細めた。背の高い学ラン姿がその光を遮った。 「あ……」 弟ではなかった。高校生は、隼人の顔を認めると満面に笑みを浮かべた。弟の親友の、大洗譲(おおあらい じょう)だった。譲は、ぶつけそうな頭をひょいとかがめて、内に入ってきた。  弟も、あとから来るのかな、と隼人は思った。 「譲君、卒業おめでとう」 隼人は言い、譲を家に招き入れた。 「お邪魔します」 窮屈そうな詰襟に身を包み、大きな躯体を折り曲げるさまは、どこかちぐはぐだったけれど、譲は体育会風にはっきりと挨拶して二階へ上がっていった。  隼人は、譲の階段を上る足音を聞きながら、台所で紅茶に湯を注ぎ入れた。ティーポットの中でふわっと持ち上がり舞い上がりくるくると対流する茶葉を見ながら、隼人はそれに蓋をした。  まだ、時ではない。  彼は、まだ高校生なのだ。 ◆  隼人は紅茶の盆を二階へと運んだ。  隼人は、片手で弟の部屋のドアをノックした。すると反対側の部屋から返事が聞こえ、内側からドアが開いた。 「お邪魔してまーす」 譲だった。  なぜ僕の部屋に……。  確かに譲は家にくると、いつも隼人の部屋に遊びに来た。だが、いつもは弟も家にいる。  今日は家に誰もいない。二人きりだ。気まずい。  弟はどうしたのだろうか。まだ帰ってこない。  隼人は内心の動揺を隠し、トレイをテーブルに置きながら言った。 「譲君の制服姿も見おさめだと思うと、名残惜しい気がするね」  カップをテーブルに置こうとする隼人の手と、譲の手が触れ合った。 「あ、ごめん」 そう言う隼人の、空になった手を譲の手が包みこんだ。 「えっ」 かあぁっと、熱がのぼってきて隼人の顔を熱くした。 「隼人さん」 「だ……だめだよ……」 何がだめなのかわからないが、隼人の胸は痛いほど波打った。  譲が手を放してくれた。  隼人は、ほっとした。ほんとに、何がだめなんだ。考えすぎだろ。相手は弟の親友で、まだ高校生の子どもなんだぞ。隼人は動揺してしまった自分を責めた。 「名残惜しくなんかあるもんか。この制服のせいで、隼人さんが躊躇してたんだと思うと……こんな制服なんかいらない!」  譲は立ち上がり、突然、学ランを脱ぎだした。 「えっ、ちょっと待って!」 隼人はあわてて逸り立つ高校生を制止した。 「……制服姿、可愛いよ。僕は好きだったな」 とにかくなにか止められるようなことを言わなくてはと言ってしまった後、何を言っているのだろうと隼人は思った。  隼人はトレイで顔を隠して、そそくさと逃げ出そうとした。 「どこに行くんです、隼人さん。ここは貴方の部屋なのに」 強い力が働いて隼人の身体をもと居た場所に引き戻した。譲が、隼人の腕をつかんだのだ。譲は空手部の部長だ。かなうわけがない。 「好き……だった?」 譲の声が尋ねた。 「好き……だったんだ?」 なぜ繰り返す。 「いや違うんだ……そういう意味じゃなくて」 隼人は自分でも何を言っているのかわからない。 「そうなんだ……」 トレイは取り上げられ、恨みがましい譲の目が、隼人を射た。 「じゃあ、全て、俺の一人相撲だったってことなんですね」 譲は一人、うなだれた。 ◆ 「好きだったのは、俺一人だったんですね……」 譲は闇に暗く沈みこんだ。大きな躯体をしょんぼり縮こませて、背中が小さくなっていた。これじゃあ、まるで、出会った時の譲君だ。 「あの……そういう意味じゃないけど、僕は、譲君のこと、好きだから」 隼人がなだめるように言うと、譲の顔は、ぱっと輝いた。 「ほんとですか!?」 譲は顔をあげて、隼人ににじり寄ってきた。 「あ、いや、そういう意味じゃないからね……」 隼人は、あわてて手を振った。 「隼人さん!」 譲は、面と向かって、隼人の両腕をつかんできた。 「俺の『制服姿が』好きだったんですよね?」 何か語弊があるような。 「別に、僕は、制服フェチとか、そういうんではないからね……」 強い握力で手首をつかまれている。 「制服フェチ、では、ない!」 譲は、大きな声ではっきりと、復唱した。 「や、意識したことはないけど……高校生は好きかな……」 ごにょごにょと隼人は口ごもった。 「えっと、制服が好きだったんじゃなくて、本体が好きだったんですよね?」 譲は念をおした。 「ああ、うん……そうかな」 高校生とは制服なのか本体なのか。本体は高校生だけれど、記号としては制服が必要だ。だが都立高には制服がない……。ならば本体が……。そんなことを思いながら放してもらおうと腕を交互に引っ張るが、遊んでいるみたいになってしまって、つかまれている手首は、いっこうに自由にならない。 「よかったあ!」 譲に急に手を放されて、隼人は尻もちをついた。  床に転がっている隼人の目の前で、譲は学ランを脱ぎ、放り投げた。 「隼人さん……」 譲は隼人の手をとった。 「ダメ!」 「どうして」 「それは君が、高校生だからっ!」 隼人は、自分より背の高い高校生を押しとどめた。譲が何を狙っているのかは、わかっていた。けしてやぶさかではない。だが、弟がいつ帰ってくるかわからないし、そもそも、そんなこと軽々しくすべきではない……! 「好きだから大事にしたいんだ」 と言ったところで、学校や家でしたい放題しているらしき譲に説得力はなかった。 「君のためでもある」 「俺のためだなんて言って、自分の保身のためでしょ?」 生意気だ。隼人は、たじたじしながら、 「好きだけど触れられないのがいいんじゃないか」 とかろうじて言った。なにも言わなければ合意とされかねない。 「隼人さんはマゾだなあ」 譲は、あきれたように返した。 「ほんとは、したいくせに」 見透かされてる……。 「ほんとは、ずっと、したかったんでしょ?」 年下の美少年に見下ろされ、そんなことを言われる。 「俺、今日、高校卒業したんだよ!」 ◆  隼人は告げた。 「三十一日までは、まだ高校生」 「うっそ。冗談でしょ?」 譲は、隼人に笑いかけた。  譲の半分の笑いは、完成されないで停止した。  隼人が、笑い返さなかったせいだ。隼人はそれが、残酷な仕打ちだと知っていたが、そうしたのは、そうせざるを得ない未解決の課題が、隼人の中に、まだ、いくつも残っていたからだった……。  まず、完全に組み敷かれる前に、壊滅的な打撃を相手に与えて優位に立っておく必要があった。なぜなら、譲は、理性を知らない野蛮な高校生だったからだ。  譲の半分の笑いは、譲の身体もろとも崩れ落ちた。ガラガラと落ちる素焼き煉瓦の破片の中で、譲は、隼人の宣告を酷いといって、抗議してまくしたてた。 「俺もう、高校生なのって卒業式までだと思って、指折り数えてて、卒業式も、隼人さんとするのが楽しみすぎて、もう全然集中できなくて、みんなの誘い振り切ってきたのに」 譲は、がっくりと下を向いた。前髪が額にかぶさった。譲は、いつも短髪だったが、この時は少し髪が伸びていて、美少年のようだった。いや、譲は美少年だった。ただ隼人より、ずっと背が高く身体も鍛えられていた。だが、この時は、彼の中身は、まだ少年だった。自分では、ずいぶん大人なつもりらしかったが、端から見れば危なっかしいことこの上なかった。 「じゃあ、いつするの?  四月一日?」 ◆  隼人は、困った。譲が何のことを言っているのかはわかっていた。何をするのか、何をしたいのかは、知っていた。  隠れん坊の鬼である譲に『もういいよ』と答えられないない二つめの理由は、「譲は弟の親友」という問題だった。別に親友だからといって、恋人ではないのだから、寝盗ることにはあたらない。知るかぎり、弟は同性に性的興味はない、はず。しかし、それも本当のところは、わからない。  譲と弟は、全く違うタイプだった。そもそも、二人は本当に親友なのか? 考えてみれば、弟と譲が親友だと思っていたのは、隼人だけかもしれない。よく遊びに来るので、親友なのだろうと解釈していただけだ。考えてみれば、弟は譲の話を隼人にしない。弟は友達が多い。でもなぜか、譲は頻繁に遊びに来た。  弟と譲が話しているところを隼人は思い出せなかった。現に今日だって二人はいっしょにいない。  いや、自分に都合よく論を運びすぎていないか? 二人は親友かもしれないどころか、弟は、譲君のことを実は好きだという可能性だってある。だって、譲君は、こんなにかっこいいのだから。隼人は、とつおいつ考えた。 ◆ 「エイプリルフールなんて、その日になったらきっと、また嘘でごまかされるんだ! そうして無期延期……!」 譲のきりりとした顔つきが歪んで、強気な目が潤み、涙がこぼれ落ちるまで、じっくり見届けたい気もしたが、可愛そうでいたたまれない気持ちの方が勝った。 「なんだったんだ ! 卒業式の最中も、そわそわして、そのことばかり考えていたっていうのに!」 譲に悲嘆に暮れられると、隼人は動揺を抑えられなかった。 「わかった。じゃあ、ちょっとだけ、しようか?」 「ちょっとだけ?」 ちょっとだけというのは……例えば、抱きしめるくらい? 男同士で、キスなんて、本当にするものなのだろうか?  譲は、弟の連れてきた友人だった。譲は、悩んでいた。学校のこと、家のこと、から始まって、男同士ですることが、皆にとっては普通でないことへの不安と戸惑いまで。譲は、隼人に、洗いざらい、自分の弱さ、悪徳、家庭の事情まで打ち明けた。  隼人は、譲を責めなかった。かといって聞き流したわけでもなかった。隼人は熱心に聞いた。隼人は、 「僕もそうだよ」 とだけ言った。  隼人と話し込んでいる譲を見て、 「譲は、僕と遊ぶより、兄さんといる方が好きなんだな」 と、弟は笑っていた。  譲は、すっかり隼人になつき、いつも甘えてきた。  だが隼人は、年頃の高校生の譲を気づかって、手も触れないように気をつけていた。  言葉と微笑みと優しさだけを返すように心がけていた。  紳士的な態度に魅了されながらも、譲が、業を煮やしているのを、隼人も感じとっていないわけではなかった。  隼人は譲より四つ年上で、学部の四年、二十二歳だ。大人の余裕を見せなければいけない。でも……。 ◆ 「隼人さん、俺もう、がまんできない、ごめん」 譲は、辛抱ならないといった様子で隼人を床に押し倒した。  押し倒されながら、隼人はほっとした。これは不可抗力だったのだ。もう、充分抵抗したじゃないか。隼人は眠りに身を任せるように安堵した。譲の方が、経験豊富なのは否めないのだし……。  譲は必死の形相で、隼人のチノパンと下着をはぎとっていた。譲の切羽詰まった獣じみた野蛮さが、隼人を安心させた。こうなるのを、最初から予感していたのではなかったか。死を受け入れた草食動物のように隼人は幸福に眼を閉じた。  うつ伏せに押さえ込まれた隼人のお尻に、ローションがたっぷりたらされて、ぬるぬると入り口を譲の指がなぞった。 「あっ、あ……」 指先が、ツプっと入った。  譲は、隼人を仰向けにさせ手鏡を見せた。口がだらしなく開いて、だらんと舌がのび、目は半開きだ。譲は、そんな隼人の表情をあまさず貪りつくすように見つめている。頬が熱い。隼人はひどく感じていた。 ◆  隼人の前の方にもローションが垂らされ、譲のもう片方の手で握られた。 「あっ、ああぁん、あぁっ」 自分でも信じられないような声が出てしまう。  譲は、左手で隼人のペニスをしごきながら、右手の中指をアナルに深く挿しこんだ。 「あぁっ、やぁっ、やぁんっ」 気持ちよすぎる。こんな声……。恥ずかしすぎる。  隼人は、自分の手を噛んでこらえた。 「どうしたの? 痛いの?」 譲は意地悪く聞いた。 「あぁん、あっ、あん、んっ」 すぐに耐えられなくなって、隼人は拳から唇を離した。  隼人の先から潤いが滴った。譲の唇がそっと露を吸い取った。触れるか触れないかのそのキスに、 「んっ」 と隼人は、呻いた。譲君との初めてのキスがこんなところにだなんて。 「んんんっ、あああっ」 隼人は、黒髪を絨毯に押しつけて悶え苦しんだ。  譲の指が、隼人の中を探っていた。 「あ、やめて、でるっ、おしっこ……出ちゃう、だめ、そこ、漏れちゃう」 「出していいよぉ。漏らしちゃえば?  俺、隼人さんの失禁見たいなぁ。俺、そういうの好きだからさぁ」 譲が、けだもののような荒い息の下、うす笑いしながら煽る。 「ほら、漏らしちゃいなよ」 「いやぁっ、はぁっ、あっ、あぁっ」  隼人は脚を広げ、穴に指を挿れられ、握られて、されるがままだった。気持ちよすぎる……譲君、うますぎる……! ◆ 「ベッド行こうか? 背中痛いでしょ?」 譲が言った。  譲が隼人のアナルから指を抜こうとした。 「あぁぁぁぁっ!!」 隼人のアソコが譲の指を咥えて放さない。 「しょうがないなあ」 譲が指を戻す。 「アァァァァ!」 「ふふっ」 譲は、おもしろがって指を抜きかける。 「あぁぁぁ!!」 ダメ、だめ! 抜いたらダメ! 隼人はかぶりを振る。 「嫌なの?」 譲は、あやすように言って、指をおさめる。 「アァァァ!!」 隼人は蟇のように脚をぶざまなガニ股にして、譲の指ほしさに、叫び続けた。  譲の差し出した手鏡に映された隼人の顔は、いやらしく変貌していた。口からはよだれが垂れ、目は血走っている。  譲は片手の指を隼人の穴に挿れたまま隼人の身体を抱き上げた。譲の腕と胸の筋肉が盛り上がった。すうっと身体が持ち上がる。 「あっ、あ」 宙に浮いた心もとない感覚。頼りになるのは、譲だけだ。空中遊泳のような浮遊感の中で、アナルの感覚はいやがおうにも研ぎ澄まされる。 ◆  隼人は姿見の前に連れていかれた。膝を折ってアナルを丸見えにされ、 「見て、ほら隼人さん、隼人さんのここ」 「あっ、いやっ、あぁぁぁ」 譲の指が、ここ、といって内部から出てくる。 「すごいねえ、全部飲み込んじゃってたよ」 「いやっ、やっ、ちがう」 「違わないよ、見ててごらん、ほら」 「アァァァァ!!!」 譲の指が、内部に収められていく。その感覚を視覚と触覚で確かめさせられて、もう、隼人の脳はビンビンだった。 「イク……譲君、もう勘弁して、もう、いっちゃう」 「何言ってるの、まだまだこれからだよ?」 譲は容赦しない。  よだれと涙でぐちゃぐちゃになった顔を、譲がのぞきこむ。 「隼人さんたら、そんなにしたかったの?」 「お、お願い、ベッドに連れてって」 「ふふ、自分から頼んじゃうんだ? 俺に抱いてもらいたくなったの? あんなに拒んでたのに、もう我慢できなくなっちゃったんだ? ちょっとだけなんじゃなかったの?」 ちょっとだけ、のはずだった。でも、今ここでやめられたら悶え死にしてしまいそう。  譲の指はベッドへ、の頼みを受け入れるでもなく、鏡の前での抜き差しを続行した。 「あぁぁぁ!!」 隼人はさけび声を我慢しようと自分の指を噛んだ。 「そんなに強く噛んだら血がにじんじゃうよ」 「んんんんん」 隼人は食いちぎりそうに噛んでいた自分の指を、今度は舐った。唾液で手はぬちゃぬちゃになっていく。 「だいぶほぐれてきたね。よし、じゃあ、そろそろ、ほおら、二本挿し」 「アァァァァ!!!」 譲の指が二本になっていた。 「ほら見て、隼人さんの中に、指が二本も入っちゃってるよ」 隼人は両手の指を自分の口に突っ込んで快感に耐えた。指から手の甲へ、だらだらとよだれが滴っていく。 「ほら、目を開けてちゃんと見てよ」 隼人が目を開けると譲は二本の指の間をあけて、くぱあと隼人のアナルを御開帳させた。 「あっ、あっ、アッ……」 隼人の口から糸のようによだれが滴った。 「恥ずかしいね、ここ、こんなになっちゃってるよ?」 隼人の身体はかあっと熱くなる。 「もっと欲しいみたいだね」 「やっ、やめて、もう入らない……」 「そんなことないと思うよ。これだけ隙間があるんだから」 拡張される感覚があり、やがてぐぐっと押し当てられた。 「アァァ」 「ほおら、三本入ってく……」 萎えた穂先はトロトロした液体にまみれている。イッたわけでもないのに、ぐらぐらと隼人の身体は揺れた。 「見て、指が三本も入ってる」 譲は指をかき回す。 「あぁ……」 「三本も咥えこんでる隼人さんのアナル、エッチだなあ」 「あぁぁ……譲君……」 「どうしたの?」 「お願い……もう……あぁぁ……」 「欲しいんだね?」 隼人は答えるかわりに、うっすらと目を開けた。  譲は、隼人を抱きかかえ、ベッドにおろした。ああ、ついに……。でも……。  隼人の中には、まだ、乗り越えなければならない、ためらいの原因が残っていた。  だが、その前に、隼人には、さっきからずっと気がかりなことがあった。 「弟、どうしたんだろう、帰ってこないけど」 隼人は弟に、賢い完璧な兄として、崇拝されているのだった。それが、弟の親友と男同士でこんなことをする人間だと知られたら……。寒気がする。汚らわしい獣として侮蔑されるであろうことは、想像に難くない。 「今夜は帰ってこないよ。友達と徹夜でカラオケとか言ってたもん。今日、両親が泊まりがけの旅行って言ってたから、俺、内心ほくそ笑んだんだもん」 譲は、微笑んだ。 「だから、夜までかけて、じっくりほぐしてあげる」  いずれにせよ、というように譲は言った。 「もう、貴方は、俺のものだよ」 隼人は譲に髪を撫でられてうっとりした。ああ、僕は、もう未来永劫、譲君のものなのか。 ◆  気づいた時には、弟が、部屋の入り口に、たたずんでいた。  全ての時は止まり、静寂が流れた。 「あ、兄貴……なにやって……こ、こんなの……ふ、不潔だ……不道徳だ!」 弟は、そう言って、目に涙をいっぱいためたかと思うと、ぼろぼろ泣き出した。  隼人は狼狽して、いそいで、シャツを引っ掛け下着を履いて、弟のそばに駆け寄った。 「ごめん」 「兄貴……否定しないの? 違うって言わないの? これは違うんだって、言ってよ! どうして、ごめん、だけなの? ごめんって何さ? 認めるってこと?」 「ごめん……ごめんなさい」 「僕の友達だよ? ひどいよ。兄貴なんか、大嫌いだ! 大洗も、もう家に来ないでくれ」  弟は、そう言って去ろうとした。譲は、慌てて言った。 「待って。俺、君の兄さんのこと本気で好きで、尊敬してて……。それに、隼人さんは、悪くないんだ。いつも君のこと大事に思って、可愛がってて、自慢にしてて、もちろん俺だって、君のこと友達になってくれて嬉しくて、感謝してて……」  弟は言った。 「ごめん、無理なんだ。何を言われても、今は無理みたい。ほんと、悪いんだけど、大洗とは、もう、顔合わせたくない。僕、兄貴のことすごく尊敬してたから。大洗のこと、嫌いになりたくないから。お願い」 「そんなこと言うなよ。ごめん、譲君、弟のやつ、今、ショックで混乱してるみたいだ」 隼人は二人を取りなそうとした。  弟はキッとして言った。 「大洗をかばうんだ? そんなに……『いい』んだ? いやらしいよ! 近寄らないで!」 弟は隼人に言い、バタンと音を立てて、向かいの自室に入ってしまった。 ◆  黙って服を着終わった後、 「大通りまで行けばタクシーをつかまえられると思うから。タクシー代は、出すよ」 と隼人は言った。  譲は、 「いいです。自分で帰れます」 と、断った。 「帰ります。ごめんなさい。おじゃましました。さよなら」 譲は、友達の部屋に向かって声をかけたが、隼人の弟は、向かいの自分の部屋にこもったきりで、ついに顔を出さなかった。 「ごめんな」 玄関を出た隼人は、弟の代わりのように、譲に詫びた。 「いえ、俺が悪いんです」 譲は、しおたれた。隼人は詫びた。 「せっかくの卒業式の日に、こんなことになって。何か、もっといいお祝いを考えておくんだったな」 譲は言った。 「ほかのお祝いなんて、いらないです。俺が欲しかったのは、隼人さんだけだから」 ◆  隼人は、大通りまで送っていくと言ったが、 「俺は、武道の心得があるから平気だけど、隼人さんは帰りが危ないから、ほんといいです」 と譲は断った。 「弟君のこと、心配してやってください。ご迷惑おかけして、申し訳ありませんでした」 と譲は頭を下げた。 「いや、謝らないで」 と、隼人は言った。 「あいつは、ちょっと、僕のことを理想化しすぎなんだ。『いつか隼人に彼女ができたり、結婚したりしたら、どうなるんだ?』なんて、常々周りから言われてたくらいなんだ。だから、遅かれ早かれ、ショックは訪れたわけで……」 隼人は譲を慰めるように、言い訳するように言った。いや、そうじゃない、それではいいわけにすぎる。それでは、全てのことが、まるで弟のせいみたいだ。欺瞞だった。それは偽善だった。罪だった。 「僕は、弟から、良い兄の僕から、完璧な理想の僕から、卒業しなければならなかったんだ。僕は君を抱くことも抱いてもらうこともできなかった」  澄んだ香りが二人の春を寿いだ。 「今日は卒業おめでとう」 隼人は、ひと気のない、街灯の明かりが静かに照らす住宅街の道で、そっと譲の肩を抱き寄せた。  さっきまで、全身で触れ合っていた熱い身体が、まだ火照ったままで離れ難かった。もっといっしょにいたかった。別れるのは、つらかった。互いの胸の奥から奥に糸がつながっているような切なさだった。 「離れたくない」 譲の目から涙があふれ、取り合った手に落ちた。譲は唇を震わせた。こみ上げて、せき上げる想いに、譲の肩は震えていた。  鼻腔をかすめる、かすかな花の香り。塀の向こうに白梅が咲いていた。 春の夜の闇はあやなし 恋う人の色こそ見えね香やは隠るる。  隠せないのだ、この気持ちは。  抑えようとしてもあふれてくる想いが、二人を春の夜の闇に、立ち尽くさせていた。 ◆  こうしていても、誰か人に見られるかもしれない。 「また連絡するから」 隼人は、気休めの言葉を吐いて、泣きじゃくる譲の肩から手を離した。ほんとうは、もっと抱きしめていてあげたかった。そうすればよかったのに。そうできれば。  何度も譲から電話がかかってきた。メールも何通もきた。すべて着信拒否にした。  家に電話がきたが、弟や親に出てもらい、留守だと言って電話を切ってもらった。  一度だけ、電話に出たことがある。 「隼人さん!? 隼人さんなの!?」 譲の嬉しさに泣きそうな声が聞こえた。  隼人は、言った。 「あの時のことは、申し訳ない。どうか、許してくれ。そして、僕のことは、忘れてほしい」 何か言っている譲の言葉を聞かず、隼人は電話を切った。 ◆  それから二年二ヶ月経った。  研修先の病院から帰ろうとした矢先のことだった。病院の廊下をよぎる人影の中に、ひときわ背の高い青年の姿を認めて、隼人は歩を止めた。  隼人は、あたりを見回し、青年を小部屋に引き込んだ。 「隼人さん!」 すっかり青年になった譲だった。しかし、すがりつくようなその情熱的な目は変わらぬ少年のものだった。譲は隼人を壁に押しつけた。首を絞めて殺されるのかもしれない……。譲は怒っているだろう。あんな風に高校生を一度だけもてあそんで冷たく捨てた鬼畜だと。 「いいよ……譲君の気のすむようにして……」 隼人は首を差し出した。  譲は、泣きながら何かわけのわからない言葉を口走りながら、隼人の口に唇を押しつけた。譲との初めてのキスは涙の味がした。 「許せないんです。貴方が」 と譲は言った。 「おかしいよね。自分で断っておきながら、いまさら君を呼びとめるなんて。君は、当然怒っているだろうに」 隼人は答えた。 「でも無理です、貴方を憎めない……」 と、譲は隼人を抱きしめた。  隼人は、許された、とは思わなかった。 「あの日、君の気持ちを聞かなかったら、知らないでいられたのに、知ってしまった……。それから、ずっと、どうしたらいいのか、わからなくて……」 そうじゃない。僕は、また、言い訳してる。 「僕はいい兄の自分を手放したくなかったんだ。愛を与えてくれたのは君の方だったのに。素直じゃなかったのは僕の方だったんだ」 「もう何も言わないで……俺は貴方が俺のもとに帰ってきてくれれば、それでいいんです」  晩春の花ほころびて、卒業の残しし傷を今癒しなむ (完)

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