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第1話
海からの寒気が街を凍えさせる、雪化粧もすっかり済ませた冬の日だった。
街の中心部には近いが、賑やかさやきらめきからはほど遠い、錆びれたピザ屋の上階。
三階建ての三階は十数年前に改装が行われ、本来二部屋あったところが無理矢理一部屋にされている。広い空間にはなったが、そこに三つの寝室とリビングダイニングを作らせて三人で入居した男たちがいたが故に、結果的には手狭なままの部屋。
大家でもあるピザ屋の店主は、今日も閑古鳥を鳴かせながら遥か三階を想う。
そこに暮らす三人の男たち――のことは昔からよくよく知っているので今さら思考にも上らない。
問題は、彼らが最近連れ込んでいた、一人の青年のことである。
時代遅れなレコードが奏でる七十年代のジャズ・ミュージックに包まれたリビングで、いくつかあるソファの一つに身を沈めながらコーヒーを嗜むのは、分厚いレンズの眼鏡をかけた老紳士。手元に広げているのは新聞だが、使われているのはフランス語だった。
ここはアメリカ、マサチューセッツ州はボストン。
優雅な夜を過ごす老紳士は、しかし僅かに眉間に皺を寄せている。
その原因は、時折ジャズの隙間を抜けてくる、隣室の声。――寝室の音、だ。
できることなら聞きたくはないが、不幸なことにこの老紳士は耳が良かった。嫌が応にも想像力が掻き立てられる、……ベッドが軋む音だの、押し殺した喘ぎ声だの、そういった、常人の耳には届かないほどの壁の向こうの些細な音さえ敏感に拾い上げてしまう。
彼がゆっくりと自分のこめかみを揉み、レコードの音量をもう少し上げようかと腰を浮かした時だった。
前触れもなく玄関ドアが開いた音がした。
老紳士は「おや」と呟いて、音量を上げようと伸ばした手でレコードを止める。大股の足音が近付いてくるのがはっきりと聞こえ、ぱっと開いたリビングのドアから流れ込んで来たのは外の冷気。
暖房で満ちた部屋の空気が変わる。
のっそりと姿を現した、一人の大男。
タートルネックからブーツまで黒で揃えた厳つい顔つきのその男は、メガネの老紳士よりも深い皺を目元や頬に刻んでいる。鷹より鋭い視線が部屋中をさっと確認する間に、老紳士は大男のコートの肩口が濡れていることに気が付いた。
「トムキャット、思ったより早かったね。外は雪かい?」
「……いや」
およそその風貌に似つかわしくない、いや、ある意味では言い得て妙な名で呼ばれた大男、トムキャットは自分の肩のあたりを軽く手で払った。手にしたアタッシュケースをその場に下ろし、長い脚が作る大きな一歩で老紳士に寄る。
不機嫌そうに眉間に皺を寄せながら、彼は老紳士の眼鏡を奪った。
「こいつはあまり長く使うな。……濡れているのは、昼に積もった分が木から落ちてきたんだ」
「それが無いと何も見えないよ」
「見る必要もないだろうが。もっと、薄いやつがあったろう。それにしておけ、タビー……」
低い声で喋るトムキャットは、傍から見れば怒っているようにも見えるだろう。しかしタビー――「雌猫」という単語で呼ばれた老紳士は奪われた眼鏡を取り返そうともせず、代わりに静かな所作でトムキャットのコートを脱がせた。
そのコートの重さは、生地や染み込んだ雪の重さだけでは説明がつかないもの。タビーは全て承知している。扱う手付きは慎重だ。
身軽になったトムキャットが、次の言葉を発する前に。
「帰ったかよ、トム!」
寝室の一つがドアを開けた。
廊下にひょっこり顔を出したのは、これまた歳を食った風貌のスキンヘッドの男。伸ばしっぱなしの髭がクマのような印象を与える。身体は部屋の中に残しているとはいえ、頭の位置と首の太さでその立派な体躯が知れた。
彼が出てきたのはちょうどリビングの隣にあたる寝室だ。
トムキャットの眉間の皺が分かりやすく深くなる。凶悪と言っていい。それを気にも留めずにスキンヘッドの男はにかりと笑う。
「風呂に入るってんなら、ちょいと待ってくれ。こいつが先だ」
そうして部屋の奥から出てきた、……強引に外に放り出されて廊下に座り込んだ、もう一人。
「…………」
とても人前には出せないほどに顔を歪めたトムキャットの表情を、眼鏡の老紳士が片手で隠す。
そんな凄まじい感情を向けられたのは、老齢の男たちが三人寄ったこの場にいるにはあまりにも不自然な、美しい痩身の青年だった。
しかも一糸纏わぬあられもない姿。
癖のある金の髪と、頼りない小さな肩が、哀れにも小刻みに震えている。
「……おい、豚」
凄みを利かせたトムキャットの声に、びくりと反応したのは床の上の青年だったが、快活に笑うのはスキンヘッドの男だ。
「ははは、間違えるなよ! 俺にピグレットなんて愉快な名前をつけてくれたのはあんただろ?」
雄猫に、雌猫、子豚――。
冗談のような名前で呼び合う彼らの間で、青年はそろりと顔を上げる。
快晴を籠めたような青の瞳と出会ってしまったのは、タビーの手を払いのけたトムキャット。
「……チッ」
彼は品の無い舌打ちをした後で、乱暴に青年の腕を掴んだ。
「発情豚に可愛がられて、満足か?」
「い、いいえ……」
「じゃあ来い。風呂だ」
「あ……っ」
引きずられるようにして、青年はトムキャットとともに風呂場へと消えた。高い位置にある腰からすらりと伸びた細い脚は、しかし本人の震え声の否定もあながち嘘ではないかのように、存外にしっかりと廊下を歩いていた。
残された雌猫と子豚、タビーとピグレットは顔を見合わせる。
「……『ピグレットの相手をさせられて、もう疲れたか?』」
「……『じゃあ一緒にお風呂に入ろう』」
二人が発した言葉は、先刻のトムキャットの非道とも思える言葉の翻訳に他ならない。二人は肩を竦めて、大きなため息を一つずつ。
「どーしてああいう言い回ししかできないのかね、あの人は」
「昔からの性分だから仕方がないが、……アンジュに対しては、特に酷い、かな」
彼らは哀れみの目を風呂場へ向ける。
三匹の獣の中で暮らす儚い天使が、理不尽な罵倒を受けて涙目になって帰ってくるのを、どんな言葉で元気付けようかと考えながら。
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