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第3話
気持ち悪い。
胃ではなく、頭の中が気持ち悪い。
気持ち悪過ぎて、涙がこぼれる。
平衡感覚が狂ったのか、前後左右上下が分からない。
自分が立っているのか、倒れているのかも把握出来ない。
グラグラする。
自分で自分を支えられない。
助けてくれ光。
苦しい。
声が出ない・・・
助けて、光。
心の中で何度もその名を呼ぶが、届く訳も無い。
頭が朦朧としている。
遠くなった耳が、小さな物音を拾う。
何か居る。
俺の側に立っている。
そう思った次の瞬間、何かが身体に触れた。
―――手だ。
大きな手。
光・・・
俺は安心してしまい、意識を手放してしまった。
再び意識を取り戻すと、気持ち悪さは消えていた。
意識はあり、音や臭いなどを感知出来る事から自分が覚醒していると分かるが、身体は鉛のように重く動かない。
背中にあたる感触から自分がベッドに寝かされている事が分かる。
意識を失う前に俺に触れた『手』の主が俺を運んだのだろうか?
瞼は重くて開ける事が出来ず見る事は出来ないが、人が居る気配を感じる。
視覚以外の感覚全てが『誰か』が居る事を伝える。
ドアが開き、閉まる音。
重い足音。
どんどんと俺の方へ近付いてくる。
ベッドがギシッと鳴り重みでベッドが傾き、『誰か』がベッドに乗ったのが分かる。
クシャリと頭を撫でるのは・・・『手』だ。
大きな『手』。
・・・光。
光に撫でられていると思うと、安心する。
俺は、光に頭を撫でられるのが好きだ。
大きくて温かい手は心地よく、その手に頬を摺り寄せ甘えたくなる。
子供でもあるまいしとか、男のくせにとか笑われるかもしれないが、世界中の誰に笑われても構わない。
光がソレを許してくれる限り、俺は光に甘えたい。
優しく頭を撫でていた手が頬に下りてきた。
俺は『手』に頬を摺り寄せ、甘えた。
『手』は俺に答えるかのように、親指の腹で目の下を撫でた。
親指が鼻先をかすめた時、俺の身体が硬直した。
―――タバコの臭い。
光じゃない!
晃でもない。
誰だ?
瞼が重くて開けられない。
この家の鍵は光と晃しか持っていないはずなのに、どうやって入って来た?
何しに来た?
何故優しく俺を撫でる?
『手』の持ち主の正体も意図も分からず、俺の身体はどんどん緊張を増していく。
瞼を開けようとソコに神経を集中させるが、痙攣するだけで開かない。
とにかく『手』から離れようと上手く動かない首を動かし、顔の向きを変え、逃げる。
「なんだ。俺じゃ嫌なのか?」
『手』の主が小さくこぼした。
声の調子に怒気はなく、どこか寂しそうに聞こえた。
声に聞き覚えがあるような気がするが、誰の声だか思い出せない。
「そう、露骨に嫌な顔するなよ」
溜息混じりに言うと、『手』は布団の上から俺の胸の辺りを優しくポンポンと叩き、離れていった。
ギシッと音と共に傾いていたベッドが元に戻る。
足音が遠ざかり、ドアの開閉が聞こえた。
正体不明の人間が出て行き、部屋に一人っきりになったが、俺は緊張を解く事は出来なかった。
ほんの僅かでも不安を取り除きたくて、瞼を開く事と身体を動かす事に神経を集中させると、一二分程して瞼は薄く開いた。
ぼんやりとぼやける視界を瞬きする事で調節する。
スムーズに動かない瞼をゆっくりと瞬きさせ、視点が合った丁度その時、ドアが開き『誰か』が入って来た。
「目ぇ覚ましたか?」
俺の寝ている寝室は電気が消され真っ暗であるのに対し、隣の部屋には煌煌と明かりが灯り、逆光になり声の主の顔が見えない。
シルエットから体格が光と同じくらいだと分かるが、光ではない。
声もしゃべり方も違う。
正体不明の人間は無遠慮に近付き、ベッド脇にあるチェストの上にコップを置くと、そのままベッドに座った。
真っ暗な部屋だが、隣の部屋から差し込む明かりでベッドに座っている人間の顔は見えた。
精悍な顔立ち。
肩まである長い髪を後ろで束ねている。
誰だ?
「水飲むか?」
低く落ち着いた声が問いかけるが、俺は答えを返す事もせずに、ただ訝しげに正体不明の人間を見た。
「警戒しているって顔だな」
男は自身の顎のラインに右手の人差し指を這わせ微かに笑った。
「光の言った通り、お前さんは興味の無い人間の顔と名前は覚えないんだな。それとも倒れたせいで記憶が混乱しているのか?」
光から俺の話を聞く人間・・・
俺は、漸く目の前の人物が誰であるかが分かった。
「俺は稔川竜也。光の兄貴だ。分かるか?」
俺は動かし辛い首を縦に振り、答えた。
「分かるなら警戒する必要はないだろう? 身体の力を抜けよ」
そう言って達也さんは俺の頭を優しく撫でた。
「水飲むか?」
俺は再び首を縦に振り答えた。
すると竜也さんは左腕を俺の背中とベッドの間に滑り込ませ、俺を抱き起こした。
「ほら、水」
先程チェストに置かれたコップを取り、俺の口に近付けた。
二三口飲んで顔を逸らすと、竜也さんはコップを口から離した。
「もう、要らないのか?」
小さく頷くと持っていたコップをチェストに戻し、竜也さんは親指で俺の唇を拭い、割れ物を扱うように丁寧に俺をベッドへ寝かせた。
俺は他人に対して礼など述べる方ではないが、相手は光の大好きな兄で、しかも俺を優しく扱ってくれている竜也さんに何も言わないでいるのは心苦しくて、喉に張り付いて出しにくい声を搾り出した。
「すみま・・・せん・・・」
「無理してしゃべらなくていい」
竜也さんは優しく微笑んだ。
兄弟は似ると言うが本当だな。
光と竜也さんは血の繋がりはないけど、同じ家に住み多くの時間を共有しているからだろうか、似ている。
顔や雰囲気は全然違うけど、行動や気の使い方が似ている。
「さてと、家に連絡でも入れるかな」
すくっと立ち上がる達也さんを引き止めようと手を伸ばす。
「ん? どうした?」
「ひか・・・るに俺が倒れた事言わ・・・ないでくださ・・・あいつ・・・自分より俺を優先するから・・・具合・・・悪いなら休んでいて欲しい・・・」
「うちのもそうだけど、お前さんも自分を殺すタイプだな」
竜也さんは微笑むと腰を折り、手を伸ばして俺の再び頭を優しく撫でた。
「心配しなくても光には、今日のところは何も言わないよ。オヤジも心配しているから、オヤジに『大丈夫』と報告するだけだ」
折った腰を戻し、部屋の出入り口まで歩いて行くと「あっ」と小さくもらし、竜也さんは振り返った。
「慌てて出てきたから携帯を置いて来ちまったんだ。悪いけど電話借りるよ」
そう言って達也さんは部屋から出て行った。
暫くして寝室に現れた竜也さんは、ドア枠に寄りかかりながら「俺、今日はここに泊まる事にしたから何かして欲しい事があったら遠慮なく言えよ」と言った。
家に報告を終えたら帰るものと思っていた俺は、驚きで「えっ!?」と小さくもらした。
「腹、減っていないか? 俺なら光と同じメニューを同じ味で作れるぞ」
「食欲・・・な・・・い・・です」
「そうか。欲しくなったら言えよ。・・・水はもういいか?」
頷くと「そうか」と言って竜也さんは頭をバリバリと掻いた。
「俺の事はいいから、適当にテレビでも見てて下さい」
一瞬驚いたような顔をして、達也さんはズカズカとベッド脇まで来た。
膝をベッドにつき、俺に覆いかぶさるようにして、自身の両手を俺の脇に滑り込ませ上半身を抱き起こし、倒れないように背中を支えながら俺の背後に回り込むようにベッドの上に座った。
俺の両サイドに竜也さんの足があり、丁度俺は股を割って座っている状態だった。
一体何事なのかといぶかしんでいると、背中を支えていた手が消える代わりに、両脇に手通し後ろに引っ張られた。
背中が竜也さんの胸とピッタリくっ付き、困惑する。
「竜也さ・・・ん」
「ん?」
「何の・・・ま・・・ね・・すか?」
「強制的に甘えさせようかと思ってね」
意味が分からず「はぁ?」と訊いた。
「お前さんと話をしていると、昔の光と話をしている気になる」
「光?」
「あいつ昔は俺やオヤジは他人だから迷惑をかけたら嫌われると思っていて、病気で苦しくても泣き言は言わないし『大丈夫だから気にしないで下さい』なんて言うんだぜガキのくせに。心細くても歯を食い縛って耐えて・・・俺もオヤジも寂しいのなんのってね。光は頑張れば大概の事は耐えられちまうから甘え下手なの。お前さんもそうだろ?」
俺は返事を返さなかった。
「お前さんが倒れたのは肉体的なものなのか精神的なものなのか分からんけどな、心細くなっているはずだ。なのに誰にも縋れないなんて、切ない。だからこれさ」
そう言って、右の脇を通って回されていた竜也さんの右手が俺の左胸をポンポンと軽く叩いた。
「我慢している人間て言うのは我慢する事に意識がいってるだろ。『助けて』と声にしないように、崩れてしまわないように足を踏ん張ったりしているから無理矢理抱きかかえられちゃうと混乱する。冷静な判断も出来ず、脳の指令は手足に上手く伝達されなくて動けなくなる。そこをついてからめ捕っちまうのさ」
俺はからめ捕られたりなんかしない―――と言いたかったが、正直混乱はしているし俺の意思とは関係なしに身体は思うように動かないしで、竜也さんのいいようにされているのは確かだから黙っていた。
「人の身体って気持ちいいだろ?」
問われ、俺は考えた。
気持ちいいだろうか?
光以外の男に抱きしめられるのは始めてで、正直違和感を感じる。
変な感じだ。
薄っすらと恐さを感じる。
「嫌な・・・感じ・・がする」
ボソリとこぼすと、竜也さんは軽く笑った。
「嫌って言うのは恐いって事だな。俺を恐いのは俺という人間が分からないからだ。光から話は聞いているし旅行にも行ったけど、ただの知り合い程度男だからな俺は。俺にしてみてもお前さんはその程度の人間だけどな」
竜也さんは軽く溜息を吐いた。
「ただの知り合い。友達でも恋人でもないお前さんを抱きしめるのはお前さんが光の恋人だからだ」
「コイ・・・ビトだから?」
「義理の弟みたいな感覚。家族的な感覚で抱きしめているんだ」
家族―――。
家族のいない俺にはそれはどんなものなのか分からない・・・
「家族なんか・・・」
呟くようにこぼすと、竜也さんは「ああ・・・そうか」と少し慌てたように言った。
俺に家族がいない事を知っているのか・・・?
「お前さんは、俺の事を『光の大好きな兄さん』として認識しているだろ?」
俺は頷いた。
「もしも、その認識がなくて道端で俺が困っていても無視するよな?
「多分・・・」
って言うか、絶対に無視する。
つーか、困っている事すら気付かないだろうな。
「でも認識があったら『どうしたんですか』ぐらいは言うだろ? そういう感じ。分かるか?」
光が好きな人間だから気にかけるって訳か・・・それなら分かるな。
頷くと「分かるか。よしよし」と言いながら達也さんは左手で俺の頭をワシワシと指を立てて撫でた。
「俺は下心なんてないんだ。だから俺を恐がる必要なんかない・・・だろ?」
それは・・・よく分からないな。
下心のあるなしで恐怖を覚えるなんて、女じゃあるまいし。
俺が恐いと思うのは・・・
あれ? 何でだ?
無反応でいると、俺が分かっていないのを察したのだろう。
竜也さんは更に説明を続けた。
「お前さんは俺にとって性的対象外なんだ」
そんな事、言われるまでもない。
同性を性的対象にする人間は、滅多にいないだろう。
「それく・・・らい分かって・・・る。同性な・・・んだから当たり前・・・」
「同性って言うのは、この際ソレは然程重要じゃないな。例えば、お前さんが女で俺好みの顔と身体していても性的対象にはならない」
「な・・・んで?」
「光の恋人って言う時点で、どんなに絶世の美女でも恋愛と性的対象から外れるんだ」
背中越しに「フフッ」と竜也さんの笑いが響いた。
「俺は何よりも光に嫌われるのが嫌なんだ」
「ブラコン・・・?」
「程よくな。重度だったらお前さんの存在なんか許さないだろうな」
悪戯っぽい笑いが背中越しに伝わってくる。
「ああ、話がそれたな。つまり、お前さんが俺に甘えても俺は変な気を起こさないって事だ」
「はぁ・・・?」
「お前さん。光以外の人間に甘えた時って大概セックスになだれ込んだりしたろ?」
言われて、風化しかかった過去を思い起こしてみる。
・・・確かにそうだったかもしれない。
俺はただ優しく頭を撫でて抱きしめて欲しいだけだったのに、キスを強請られその先を求められ・・・
何時も『違う』と感じていた。
優しくして欲しいと言えず、手を伸ばすがやんわりと無視され、寂しかった。
誘っていないのに、望んでいないのに、女達は俺を求めてきた。
セックスなんかしたくないのに、僅かなぬくもり欲しさに求められるまました。
行為の後、何時も虚しかった事を思い出して胸がチリッと痛む。
「甘えて、俺がその気になったら『嫌』なんだろう」
「え?」
「光が好きだから。光以外の人間に甘えて、相手がその気になったらぬくもり欲しさにセックスしてしまいそうで『嫌』。その事が知れて光に嫌われるのが『恐い』。だろ?」
そう・・・なのだろうか?
確かに俺は光に嫌われるのが『恐い』。
相手が光ならいいが、違うならセックスなど『嫌』だな。
『嫌』『恐い』分かりやすい感情なのに、言われなければ正確なカタチすら自分では見えない。
自分自身の事だと言うのに、俺には自分が全然見えていない。
なのに何故竜也さんは見えるんだろう。
そう思った次の瞬間、光が以前言っていた事を思い出し、笑みがこぼれてしまった。
「ん? どうした?」
「前に・・・光が言ってた。あんたは千里眼でも持っているみたいに言い当てるって・・・」
「千里眼ね。人間は人の事ほど良く見えるだけだ。俺自身の事は全然見えない。それだけの事さ」
フフッ―――と優しい声で笑った。
「さてと、心の雪解けもした事だし、そろそろ観念して甘えちまいな」
ずっと俯いたままでいた俺の顔を竜也さんの左手は、目を覆うようにしてあてられた。
竜也さんは自身の肩に、俺の頭をゆっくりと導くように左手を引き寄せた。
低い声が耳元で囁く。
「俺は大丈夫だ。安心しろ」
この男を信じていいだろうか?
・・・いや、信じたいと思っている。
俺は目を瞑りたい。
光の事で悩み、訳の分からない気持ち悪さに襲われ、身体はだるく疲れている。
眠りたい。
自由に動かない身体に入れていた力。
拒絶と抵抗の証だった力を抜き、グッタリと竜也さんの胸に身体を預けた。
硬い筋肉の身体が光を思い出させ、何故か寂しさを感じた。
優しい手。
温かいぬくもり。
光のそれと変わらないはずなのに、全然違う。
優しくされているのに何の感動もない。
嬉しくない。
何も埋まらない。
ああ・・・これは『違う』と実感し、目頭が熱くなった。
歯を食い縛り、息を飲み、涙を追いやる。
涙も嗚咽も漏らさず、鼻も啜っていないのに竜也さんは俺の変化に気付いたのか、俺の腹を抱えるように回されていた手を動かし、ポンポンと俺の脇腹を優しく叩いた。
叩く間隔が心音と似ていると感じた。
ポンポンと叩かれ、俺は気持ちよくて目を瞑った。
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