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第1話
思えば彼はいつだって飄々としていた。
空のような男だった。
だけどその反面で、何をしてもどこにいても皆の視線を集めてしまう人気者でもあった。
だからこそ、彼が、周りを疎ましく思っていたのだと知った時に驚いたのだ。
だからこそ、彼に、恋をしてしまった時気づいたのだ。
「僕は自由な彼を好きになったから」
だから、風のように自由な彼を縛り付ける言葉も、雲のように旅に出る彼を困らせる想いも、決して口にしてはならないと。
「優太」
彼はいつも優しく優太の名前を呼んでいた。
だけど、本当にいつも優しいのかと問われればそうでもないと思う。
と、いうところが優太の本音だった。
だって彼の瞳はたまに陰るのだ。
まるで山の天気のように、晴れたかと思えば急に曇り出す。そして雷を落とし荒れ狂ったかと思えば、またいつも通りの優しくて穏やかな甘い声で優太の名を呼んでいる。
でも知っていた。どれだけ甘やかされても可愛いと愛されても、彼の瞳の奥には時にして陰鬱で、全てが鬱陶しいのだと影がさすから。
それは、何よりも雄弁に荒城英(アラキスグル)という人物を物語っていた。
それでも優太は英が好きだった。
だって、彼だけが、優太を掬い上げてくれたのだ。
暗くてひとりぼっちだった無機質な部屋から優太へと、真新しい外の風を運んできたのは、英ただ一人だったのだ。
例えそれが英の気分だったとしても、嬉しかった。
そこに存在するだけで周りを苛立たせてしまう自分に取り留めない話をして笑いかけてくれるのは、二つ年上の彼だった。
英は町内でも有名な青年だった。
容姿は男らしく凛としていて、優太が出会った中でも眉目秀麗という言葉が誰よりも似合っていた。
勉強も運動も然ることながら、何をやらせても直ぐに出来てしまう。
友達も多くて、誰に対しても臆することはない。
いつだって堂々としていて、英の背中は優太にとって大きすぎるほどに立派だった。
ただ彼にも一つだけ欠点があった。
それは、彼の放浪癖だろうか。
「俺ね、この町が大嫌い」
優太の部屋にいることが違和感なく思えてきた頃、英は無機質にそう零した。
「……」
「なんだろねぇ。なんか、どこに居ても腐った匂いがするんだよ。俺の鼻、繊細だからさ」
壁を背にして座りこんでいた英はなんとはなしに窓の外を見ている。
そう話した英の横で、優太はビクリと大袈裟な程に身を竦めては視線をキョロキョロと動かしていた。
「だから、ずっとここにいるなんてことは俺には無理」
「…………っ」
笑顔の消えたその横顔はとても無機質で冷たかった。
言いたいことは沢山あるのに、でも優太はわけもなく口をパクパクと開いては閉じてを繰り返す。
──それは、僕に対して? 僕が腐った匂いをさせているの?
──英は……いつか消えてしまうの?
ぐるぐると頭の中を駆け巡る幾つもの考えに、体は素直にも怯えては震える。
怖かった。唯一の人が消えてしまうことは。
だけど、優太は言葉にできなかった。
「なーに怯えてんの? 言っただろ、優はトクベツ。お前だけだよ。他のやつはどうでもいいの。でも、お前はカワイイから大好き。だからどこに行っても優のピンチには帰ってくるだろ」
「っ、…も、……でも」
「んー?」
さっきの表情とは一変、優しく笑んだ英は静かに穏やかな顔で待っていてくれる。
人と接することにいつの間にか恐怖を抱き、中学時代引きこもってしまった経験のある優太は高校生になってからも言葉を口にすることが苦手だ。
言葉はいつだって痛くて怖い。
その裏にどんな思いが隠れているのか分からないから。伝えたい気持ちが相手へと間違いなく届くわけではないと知っているから慎重になる。
上手く話す事ができず、どもっては止まる優太に苛立つこともなく、英はいたずらに優太の猫っ毛をなぜ回しながら待っていてくれた。
「……でも、すっ、英は……自由が、好きでしょ?」
だから、何度となく優しく微笑まれても安心とは縁遠いところに英はいた。
彼は一つのところで留まることは出来ないから、それはやがてくる別れを意味しているだろうから。
「ははっ、なーんだよ優。ほんとお前はカワイイねぇ。食べちゃいたいなぁ、もう」
何秒、何十秒と時間をかけてやっとのこと言葉になった思いを、優太の考えていることなどお見通しなのか英はケラケラと笑いだした。
ぶるぶると震え怯えながら、拙い言葉にめいいっぱいの思いを詰め込んだのに。
優太は紙のように白い顔をしながらも、少しだけムッとした。
「はぁ、ごめんな。拗ねないでよ優太。俺、お前に怒られるのは本当にヘコむからさ」
笑い涙を浮かべた英は、眦を指先で拭うとハァと大きく息を吐いた。そして含むような嘲笑をうかべる。
「自由が好き、か。どうだろうな。ただ俺はどうしようもないやつだから、同じところには居れないだけ。優太みたいに俺は優しくも強くもないから。なぁんてな、優心配しちゃった? ごめんなぁ、ついつい可愛いからさぁ」
真剣に聞いていたのに、飄々とした態度にとうとう優太は臍を曲げてふて寝をしてしまう。
おどけたように話していたその台詞が果たして本音だったのか、その頃の優太には分からなかった。
だけど今、出会ったばかりのあの頃よりも長い時間を過ごした今なら分かる事がある。
強くて優しくて空のような英にだって、弱くて情けなくて繊細なところもあるのだと。
守られていたばかりだから、その当時本当は英がどんな表情で話をして、優太を見ていたのかを正しく思い出す事が出来ない。
それに一つだけ後悔している事がある。
その時に伝えておけば良かった。
「好きだよ」と。
たった一言でも伝えておけば良かった。
だって、まだその頃の優太は好きの思いに不純物を混ぜていなかったから。
純真に、同じ男して憧れていただけだった。ヒーローみたいだと思った。
高校生だと言うのに急に消えては戻って来ることを繰り返した英は当然、卒業する事ができずに二度留年を繰り返して、二つ下の優太と現在同じ高校3年である。
その放浪癖に、周りの大人たちは出来る英だからこそ呆れと期待混じりに、「能力を無駄にしている。勿体無い」と口を揃えて咎めては否定していたけれど。
でも、優太にはできないことをしてしまう英がかっこよくて眩しかった。
どれだけ多くの人に慕われても、常に誰にも縛られず、一歩も二歩も先を歩んでいるその背中が。
英は、真っ暗な世界に閉じこもっている優太に色んな声を届けてくれた。
旅という名の放浪からから戻ってくると、英は必ずその先々で見てきた風景の写真を撮っては贈ってくれたのだ。
その写真はどれを取っても今にも動き出しそうで、そこに一緒にいた訳でもないのに、風の匂いも空の青さも、緑の輝きも、街の喧騒や森の静寂までもが優太にまで聞こえてくる生きている絵だった。
だから、誰に何を言われても、気にすることなく己の道を歩んでいる英に憧れていたし、英自身がなんといおうと「弱くなんてない。英は誰よりもかっこいい、大好き」だと伝えたかったと後悔するのだ。
でもそれと同時に、例え強くなくたって、優しくなくたって構わないと優太は思っていた。
だって、どちらの英も英だから。
笑顔で堂々と青空の下を歩む雲のような男も。嵐のように荒んだ瞳で、無機質に街を眺める男も。
どちらも優太のたった一人の大切な人だから、強いとか弱いとかどうだっていいのだ。触れ合えなければ、感じることが出来ないのだから。
誰の身にも抱えられている傷に気づくことができるのは、隣に知りたいと思う人がいるからこそだと気づいたのは随分あとになってからだった。
今はもう伝えることが出来ないけど。
過去の英に「大丈夫だよ、いいんだよ」と伝えてあげたかった。
きっと、彼が一番息苦しかっただろうから。
期待を受けても応えられないことに。繊細過ぎるがゆえ憎んでしまうことに。
だけど、平等に物事を見ることができる強さを持っていることに。
居場所を探して苦しんでいたのだと、今なら分かるのに。
****
卒業式の日だって優太の世界は特に変わらない一日だ。
長い式典を終えてから涙を浮かべて友と抱きしめあう同級生を横目に、優太は一人屋上へと向かっていた。
空は快晴で、祝福するには最高の日だろう。
ひとつの門出としておめでたいことなのだろう。
だけど優太にとって卒業よりも、胸を痛めるのは英と会えなくなることであった。
過去に感じた恐怖は未だに優太の心を突き刺す。
明日からは、この箱庭に来ることは無い。そして共に卒業する英は海外へ行くことを、風の噂でしっていた。
「優はさ、人が怖くて怯えているくせに、でも人の優しさを求めてる」
英の言葉が脳裏に蘇った。
「お前はそのままでいいんだよ。優太の全てで、全身で愛した。愛を受け止めようとした。だから、一緒に壊れちゃったんだ。疲れたんだよ優太の心は……そんな時ぐらい休んでもいいだろう」
優太の家族はガラクタのようだと英は言う。
言われた本人もあながちその喩えは間違いではないと思った。
それは、まだ出会ったばかりの頃である。
皮肉混じりの台詞に、ただ感情をどこかに落としてしまった優太はコクリと頷くだけだった。
平凡な顔立ちながら唯一褒められた大きくてパチリとした目立つ瞳も、真っ暗な穴のように生気を感じさせない硝子のようだった。
そして、英は続けた。
「自分の身以上に誰かを愛そうとすると優太みたいになるんだな。優太のその小さな小さな体よりも大きな愛情を、受け取らなかった母親なんか忘れて捨てちゃえばいいよ、空っぽなのに愛そうとなんてしなくていい」
悲痛さなど微塵も感じさせないカラッとした笑顔で、けろりと英はそんなことを口にした。
優太のその思い出は、この不思議な少年──英と出会ってからまだ数日目の事だった。
そして優太の記憶は青い空を見上げながら、遠くの方にまで遡る。
英とは本当に偶然出会ったのだ。
一人きりの家にいたくなくて、がむしゃらに走り抜けた雨の町で。
暗くて、星も月も、一筋の光さえも見えない中をただ衝動に駆られるまま走った。
転んでも何度も立ち上がって、当ても無く走り続けた。
そしてついに体力の限界を迎えた優太は、逃げるように立ち寄った公園で英と出会う。
屋根のついたアスレチックの下で、英は雨にも関わらず何故かそこにいた。
端正な顔はどこか浮世離れしていた程だ。
今にも死にそうな優太を見つけた英は笑い、そして。
「小動物みたい」と、一言だけ零すと、雨に濡れて冷えきった頬をするりと撫でた。
そして言ったのだ。
「どこかに逃げたいのか? なら俺が連れて行ってあげようか」
壊れてしまう寸前の優太を拾ってくれた。
****
屋上はまるで異世界のように静かだった。
どこかもの寂しく思うのは、優太が少しだけ憔悴しているからだろうか。
慣れ親しんだ場所であるのに、なんだか今日だけは無性に恋してくて切ない。
抜けるような青空にヒラヒラと桜が舞っていた。
風に揺られるがまま、行く宛はない。
それはまるで英のようだ。
いや、英だけじゃない、未来なんてものは誰にも分からないから、あの桜は優太達でもあるのかもしれない。
そう優太は思った。
行き着く先で何が待っているのか、それは今をどれだけ真剣に生きていたって分かりっこない。
舞い上がる桃色を追いかけながらも、優太の意識は会えなくなって久しくなった母を思い返していた。
彼女はとても寂しい人だった。
愛人を作り家には寄り付かない父。しかし、有名企業の役員である父は外面はとてもよく、愛妻家の仮面を被っていた。
街では有名なおしどり夫婦であった。
しかし中身は、英の言うようにガラクタである。
優太は昔から自己表現が不得手だった。
ハキハキとして行動力のある父親とは正反対で、まったりとおっとりとして平和な性格。
カリスマ性を持ちながらも攻撃的でプライドの高い母親とは真逆で、とても心優しくて温厚な微笑ましい子供だった。
しかし父親はまだ幼い優太のその姿を見るとこの先に期待はないと早々に切り捨て、愛人の子供を溺愛するようになった。
そうなると、プライドの高い母親は本妻にも関わらず、妾腹へと夫の愛情が向かう事に我慢出来ず心の均衡を徐々に崩していったのだ。
そんな母親を間近で見ていた優太は小さな体で一心に愛した。
かな切り声をあげて優太をぶつ母親の鬼のような形相。
ダメな子だと、いらない子だと優太を罵った憎悪の声。
どこにも行かないでね、優太だけがママの宝物だからと甘い罠をはり友達と遊ぶことさえも許さずに優太を雁字搦めにした狂愛の執着心。
それでも優太にとって母親は彼女だけだ。その腕に優しくだかれて頭を撫でられたかった。
また笑って欲しかった。
愛して、愛して、心が擦り切れるほど一心に愛して──だけど、伸ばした手をたたき落とされた時に優太は愛されることを諦めた。
彼女が優太を置いて家を出ていった時、母親に縛られ管理されていた優太の世界はバランスを取ることができなくなっていた。
「でも優太、お前は愛することはやめていない」
英はそういった。
「子供はまず親に愛を教えてもらうんだ。誰かを愛することを、人に優しくする思いやりを、愛し愛されることを子供はな、親から学ぶ」
続けた英の言葉に優太は息が詰まった。
──じゃあ僕は、教えて貰えなかった僕は、どうなってしまうの。
息が苦しくて苦しくて堪らなかった。
愛されたかった。だけど、それよりも、家族を愛していたかった。
それなのに大好きな英は「愛を学ぶのは親から」だと言う。
でも優太にそんな穏やかで優しい記憶も、暖かな温もりも、無いのだ。
そうして酷く傷ついた優太を見て、英は少しばかり苦笑すると優しく抱きしめてこう続けた。
「なのにお前は人を愛せる。なんでだろうなぁ? 優太の愛し方は他のやつとは違うんだよ。それを言うと、お前の良さは消えてしまうから言わないけどね。覚えておきなさい、英お兄ちゃんの言葉をな。優太ほどお人好しはいないよ。それに俺はお前に愛されてみたい。だから代わりに愛してあげるよ。そしてこの先にも優太を愛してくれる人は現れるし、優太が愛したいと思う人も必ず現れる」
初めての温もりに包まれながら優しい台詞に、でも受け入れられず優太は尋ねた。
──いつ現れるの?
英の腕に抱きしめられながら硝子のような曇りのない瞳で見上げて問いかけた。
すると英は虚をつかれたかのように驚嘆すると、一拍を置いて苦笑した。
「おいおい、意地悪するなよ。……あー、でも、そう遠くはない未来で絶対現れる。お前は必ず愛される。だって、どれだけ傷ついても今もまだ愛する努力をやめてないからな」
そして包むように一際強く抱擁すると、優太のおでこにキスをしてくれた。慰めるように、それは癒しのキスだった。
その当時は「いつなのだろう」、「どこにいるのだろう」などと現れるわけが無いと決めつけて、でも期待もしていた。
猜疑心で溢れ返っていた二年前の優太には分からなかったし到底信じられなかった。
何も持っていない、死んでしまえと親に捨てられた自分を愛してくれる人なんてどこにもいないと。
でも二年をかけて気づいた。
愛されたいとは思う。
だけど、愛されることに固執していたわけでない。
英は言った。
「愛したいと思う人も必ず現れる」と、そう言ったのだ。
そしてそう時間もかからずに英の言葉はその通りになった。
愛したい人はすぐ側にいた。
たまにどこかへと行ってしまうけれど、その手には必ずカメラを持ち、写真をお土産に喜ぶ優太の元へ戻って来てくれる愛しい人がいた。
優太は思った。「英は本当に凄い」と、でもこうも思った。
──愛してることを英に知られてはならないと。
それはやっぱり苦しい切ない痛みを優太に与えた。
でもその気持ちよりも、穏やかな愛を捧げる人がいる幸せを失いたくないと思った。
秘密にすることがどれだけ苦しくても構わない。ぽかぽかとしたりツキンツキンも痛む切なさを抱いたり、新しい愛は優太の活力になったから。
「やっぱりここか優」
「……英」
バタンと閉じられた扉の音に続いて、甘やかな声で名前を呼ばれた。
からかう時や、愛でるときに、英はいつも優太のことを「優」と呼ぶ。
そして犬猫に対するかのように、指先でちょいちょいとするのだ。
それにつられて、優太も迷いなく駆け寄る。主を見つけた飼い犬のように。
「ははっ、お前は卒業しても子犬みたいだな」
「っ、うん、英が飼い主だったら、良かった」
「なーんだよそれ、どうしてそんなに可愛いこと言っちゃうのかなぁ? これじゃあ心配で優の傍からおちおち離れてらんないだろ」
髪の毛を梳くように、優太の頭を撫でてくれるその手が好きだ。
「……なんだよ、知ってんのか」
「う、ん」
「海外行くこと」
「…………うん」
何も言わなくても、考えていた事を先回りして答えてくれる優しさが好きだ。
「まあ、な。俺は一つのところには長くいらんねーから」
「知ってるよ、英は、この町が嫌い」
「……でもお前のことは好きだよ、優太」
「……うん」
屋上から町を見渡す英の瞳。
飄々とした性格とは一変した意志の強そうな横顔。
優太を優しく迎え入れてくれる笑顔。
たまには皮肉気で寂しい表情もするけれど、優太は英のどの表情も宝物だった。
何をとっても、どれひとつも欠けてはならない。
英の全てが大好きだ。
でも、それ以上に優太は英の自由を愛していた。
誰にもとらわれずに、カメラを片手にあちこちを旅する英。
そのカメラのレンズ越しに、英はどんな景色を見ているのか、優太はいつも気になった。
いつか自分にも、英が見ていた景色が見れるだろうか。
少しでも知りたくて、だからこそ、英から貰った写真は宝物だった。
大切な人の世界を覗いているようで。
優太の暗い部屋に新しい新鮮な風を送り込んでくれたあの感動を。
それは全て、英が何よりも自由を愛しているから。
だからこそ、英がもう二度と戻るつもりのない他所へ行くことを決心したのだと何となく気がついていても、優太はもう動じなかった。
愛してくれると言った。
ボロボロで欠けていた優太を。
だから優太も静かにそっと思いを隠して愛し続けることを決めたのだ。
遠くの騒がしい音もやがて静まり返ってきた。
卒業式から数時間経ったいま、英はいつも通り気持ちよさそうに眠りについている。
一度眠ってしまえば、暫く起きることは無い。
眠ると少しばかり幼く見える寝顔を見つめて、最後に優太は固く結んだ想いを解いた。
「英……僕、ね、好きだよ……。愛したいと思ったのは英だったよ。現れるって、言ってくれた時に信じられなかったけど、でもほんとに現れた。──英、愛してます。だから、どこに居ても英の幸せを僕は願っているから」
そして優太は震える唇を英の微かに開かれた無防備な唇へと押し付けた。
初めてのキスは震えすぎて、よく分からなかった。柔らかいのか硬いのか、レモンの味なんかしない。
でも確かに心は甘酸っぱいし、だけど心は緊張で乱れていて、指先も細かに震えていた。
伝えることはないと思っていた言葉が風に乗ってどこかへといく。
その先には誰も待っていない。
でも愛しくて堪らなくて、もう二度と会えないと思うと、眠っている今ならばと、気づけば口にしていたのだ。
言葉は思ったように相手へと届かないことがある。そして時には傷つける。
だからこそ、慎重に言葉を選ぶのだ。
だけど本能のままこぼれ落ちたその言葉はどんな慎重に選んだ台詞よりも、優太の思いと願いを一心に乗せていた。
もう心残りはないと艶やかな黒髪を撫でて、英から視線を外す。
この場所から見る景色はこれが最後と、噛み締めながら青空を見上げた刹那。
「どこかに逃げたいのか?」
「──っ?!」
聞きなれた甘い声が耳をふるわせたのだ。
「いや、違うな。もう逃げなくていいのか優太は」
「……な、っ、ど、して」
「なあ優太」
告白を聞かれてしまった。
困惑し青ざめる優太の体が震えあがる。
だが、その小さな体はあっという間に大きな体に抱きしめられていた。
「旅に出たいなら連れてってやるよ、この町からも、どこへでも連れてってやる。出会った時に言ったのに、お前はとんでもなく遅いんだよな。でもカワイイから優太のこと甘やかしちゃうんだよ」
だからその代わり、俺をもっともっと愛してみない?
囁かれた幸福の誘いと一緒に、優太の唇は甘い甘い口付けに攫われていた。
思えば彼はいつだって飄々としていた。
空のような男だった。
届かない背中を追いかけて、伝えられない思いを育んで、例え二度と会えなくても構わない静かな愛を教えてくれた空のような男は、まだもう暫く優太の隣を離れないだろう。
そして山の天気のように言うのだ。
「なーんだよカワイイ顔しちゃって。俺が好きだよって何度も言ってんのに気づかないお馬鹿ちゃんは食べてもいいよね?」
と、それはそれは嵐のように、優太の心を甘く乱して笑うのだろう。
この大空のように、柔らかなピンク色を添えて。
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