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第1話

「付き合うか、殺されるか、選べ」 そう言ってきたのは、クラスで問題児扱いをされている、所謂ところの不良生徒、橘 瞬太。私は頭を掻いた。分かる。告白だ。教師になって早三年、こういうことが、無かった訳では無い。性別がいつもとは違うが、まあ、私は差別主義者では無いし。かと言って、そうした嗜好を持っている訳でも無いのだが。 とにかく、告白。私は教師だ。橘には申し訳ないが、これに応えるのは立場上無理だ。だがしかし、私には彼を卒業まで導く義務があるのだ。 「……お前が卒業できたら、いいよ」 そう言ってしまったのは、この告白が彼を救う好機に思えたから。恋愛感情、大いに結構。すまない橘、私の倫理観は誤っているのかもしれない。だけど、どうせ卒業したら、私のことなんか忘れてしまうから。私は、この告白を利用することにした。橘は、その言葉を聞いて、鋭い眼光を更に強めて、 「……言質は取ったからな」 と低く唸った。私は、両の手を開いてみせて、 「せいぜい頑張れ」 と言っておいた。 それからと言うもの。橘の勢いは凄まじかった。朝私が教室に入ると、既に橘はいる。 「……はよっす」 「おはようございます、だろ?」 私が試しにそう言ってみると、翌日から橘はそのように挨拶するようになった。朝早くから学校で何をしているかと言えば、勉強だ。そんな真似が容易くできるのなら、なぜもっと早くやらなかったのか。居残り学習の際、私がそう橘に問うと、彼は、 「テメェに告白すんのに、どんだけ勇気がいったと思ってんだよ。無駄にして、たまるか」 と答えたので私としての返答はただ一つに決まっていた。 「井上先生、だろ」 軽く、数学の重い教科書で(矛盾している)頭をぽこんと叩いてやると、橘は悔しげに歯ぎしりをして、 「井上、せんせい……」 と慣れない口調で呟いた。よしよし、偉いぞ。 我が高校は進学校ではないが、当然多数の生徒が大学へ進学するし、当然教師としては、橘にも進学させたい。別に進学が全てだなんて思っている訳ではないが、モラトリアム期の延長目的であったり、学問を深く学ぶことにより、職業選択の幅を広げる目的があったりで、特にこいつには、私は進学して欲しいと思っていた。 秋、遅ればせながらそのことを、すっかりガリ勉と化し、クラスメイトからは違った意味で恐れられている橘に告げると、彼は 「……進学したら、覚悟しとけよ、井上せんせい」 と言って、自身のプリンのようになっている髪の毛をひっ摑んだ。おお怖い。一体何を覚悟しろと言うのか。 冬。センター試験を目前とした橘は、やはり随分とやつれて見えた。最近では、もう学校内で誰かとつるむこともせず、ひたすら勉強している。笑った顔を見ることも少なくなったが、それでも居残り学習などで私と二人きりになる際には、とても楽しげに問題を解いている。私は最近、そんな橘の様子を見るのが楽しみでたまらなくなってきていた。無論、あくまで生徒と教師。恋愛感情などがある訳で無し、だが。 とにかく。橘は頑張っている。ここらで一つ、ご褒美でもあげなくてはなるまい。そう思った私は、居残り学習の際、橘のシャープペンシルを握ったその手を、そっと握ってみた。すると、橘はしばらく黙り、歯をぎり、と鳴らした後で、 「二度としないでください、井上せんせい」 と言うと、私の手を振り払い、教室を出て行ってしまったのだ。 私はショックだった。少なからずショックだった。ショックを受けたことに、またショックを受けた。その日からと言うもの、橘は私と視線すら合わせなくなった。しかしそれでも変わらず、生活態度は真面目なものだった。私の中で何かが囁く。 「いいじゃないか、私から手を引いたんだ。これで楽して橘を見送ることができるさ」 その声に、私はうんと言うことがどうしてもできなかった。橘。橘。問題を自力で解いたときの、あのあどけない笑顔。高校生活の三年間、ずっと私を見ていたと言ったときの、照れた横顔。私はベッドに突っ伏した。何だか胃が痛い。学校へ行きたくない。 センター試験当日。教師として、私は会場に来ていた。橘も、もちろん会場に姿を見せていた。私は生徒一人一人にチョコレートを配り、激励の抱擁を交わしていた。それが、橘の番になった。私はどきりと心臓を弾ませながら、橘にチョコレートを手渡し、 「自分に負けるな。お前なら、全部うまくいくよ」 と言って橘に抱擁した。無論激励の意味だ。だと言うのに、ああだと言うのに。私の心臓はとととと、と速く鳴り、抱擁が終わるまで、そのリズムを刻みっぱなしだった。橘は気付いただろうか。橘の顔を見ると、彼は、何だかとても頼もしい顔をしていて、 「ああ。井上せんせい、待っていてください」 と、あの日以来一度も見せてくれなかった笑顔を私に見せてくれたのだった。 自己採点の日。橘が学校に来なかった。私は心配した。家に電話をかけると、どうも、思ったように解答できなかったせいで、塞ぎ込んでいるらしかった。私は、教師として、彼の自宅を訪問することにした。 「橘」 私の声を聞いた橘は、ドア越しに大慌てだった。ドアに、どすん、ばたんと衝撃が伝わってくる。五分ほどして、ドアが開いた。部屋の中は大急ぎで片付けたと思しき小綺麗さだった。私は橘に近づくと、 「出願してみるんだろう。まさか諦めたりしないよな、私のことを?」 と静かに聞いてみた。橘は、その言葉を噛みしめるようにした後に、 「……もちろん」 と答えて、にやりと笑ってくれた。 二次試験も終わった。後は卒業式と、受験結果を待つのみだ。私は自由登校となったため、がらがらの教室で、今日も一人、橘を待っていた。 「はよっす」 卒業が決まった橘の態度は、また元に戻ってしまっていた。私は苦笑しながらそんな彼を迎え入れる。 「おはようございます、だろ」 それから、橘は机に突っ伏してひたすら寝る。何のために来ているんだか、分かりやしない。それでも、私はこの時間が好きだった。橘の顔にかかった髪をそっと掬って、その長い睫毛、綺麗な横顔を見つめた。私は今や、彼の卒業が、楽しみでたまらなかった。 卒業式。まだ受験結果は出ていないが、橘の自信に満ち溢れた態度と、自己採点の結果を見ている限り、大丈夫だろう。私には心配することは何も無かった。ただ、この日を、結婚式を迎える花嫁のような心持ちで、ひたすらに待っていたのだ。 式典は、厳かに終了した。泣き濡れる生徒たちと一緒に泣いて笑って、それから。ああ、私は教師失格だ。今から、私のすることは。 「……橘」 皆が帰った夕暮れ時。体育館裏に、私は呼び出されていた。そこには、髪をまた、告白の日のように金色に染めた橘の姿があった。橘が小さく、震えた声を発した。 「付き合うか、殺されるか、」 私はその言葉を遮った。 「私は殺された。教師の私は殺された」 橘が、泣きそうな顔をした。断りの文句に聞こえたせいだろう。殺されているから、付き合うのは無しだと言う。……私は続けた。 「殺害の責任を取ってくれ」 橘の表情が、変わった。私をじっと、探るように見つめている。私は橘の目の前で、目を閉じた。橘が尻込みをしたような気配を感じる。……無理かな、流石に。30のおっさんが、何をしているんだか。私が苦笑して、目を開けようとした瞬間。 唇が、温かくなった。それから、噛み付くように、橘は私にキスを続けた。私もそれに、応えた。 「……」 「……」 体育館裏は、静かだった。だけど私と、橘の心臓は、反比例して。 そっと唇を離した橘に、私は、 「好きだよ、瞬太」 と言った。瞬太は顔を耳まで赤くして、 「……俺も」 と、蚊の鳴くような声で答えてくれた。 私は今でも高校教師だ。たくさんの生徒たちを毎年、見届けている。今までと変わったのは、そうだな、瞬太が私の後輩として、数学教師になって、同じ高校にいると言うこと、それから、私たちは晴れて同居に至っていると言うことくらいかな。 思い出深い卒業の日が、今年も、やって来る。

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