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第1話 釜揚げシラス

魚臭いって女は寄り付かねえよ 逞しい腕で網を紡ぎながら笑う彼。 春の日、川沿いを走る僕は1人の男に出会った。 船の上でコンテナの整理をしていた彼 なんの漁だろうと走っていた脚を止めた僕と目が合う。 まだ春浅い頃なのに よく日に焼けた肌に薄い茶色の目が印象的な男。 じっと見つめた僕はハッと我に帰る。 変に思われた?慌てて走りだしながら 明日も会えるかなとほのかに期待する自分がいた。 江ノ島に来たいと遊びに来た友人と夜入った魚料理の自慢の川沿いの飲み屋。 「 シラスの季節か 」 「 うまいんだよな 」 「 有名? 」 「 ああ、最近釜揚げシラス、超有名 」 「 丼で食べると至福だよな 」 「 しめはそれにしよう 」 男3人ガヤガヤと賑やかに、 品書きを見ながら好き勝手に注文をする。注文を取りに来た女の子に あちらの黒板にもお勧めの品がと言われ ふと背後を振り向くと、 すぐそばのカウンターにあの彼が座っていた。 となりの席が空いている、誰と来たんだろう?僕はそれが気になって、後の2人の話も上の空だった。 彼のとなりに腰掛けたのは 当然のように髪の長い後ろ姿もすらっとした女性だった。 お互いが少し遠慮がちなのはどんな関係なんだろう? 普通に考えたら、付き合い始めの彼女? 一気に暗くなった僕の様子に気にもせず、2人でどんどん注文した品が宅の上に上がる。 金目の煮付け イカの刺身 つみれ汁 いつもなら歓声をあげ舌鼓を打ちながら食べて飲んで楽しむ仲間たちの宴はビールから始まって、焼酎に変わっていく。 深酒すまいと思いながら、何杯飲んだかもうわからない頃、 ラストオーダーというお店の人の言葉だけが僕の記憶。 酔っ払ってても帰れるもんなんだ…… 次の朝、少し濁った意識を抱えて起きた僕は、そういえば、釜揚げシラス丼はどうなったんだろ、僕は食べてないよね とそんなことを思い出した。 習慣で6時には川辺の側道走っている。昨夜の嫌な酔いは走っていたら抜けるだろうか。 彼の船の着く反対側をわざわざ走っているのは、がっかりした気分を思い出したくないせいだよね。 でも、気になる。 帰りはやっぱり彼の船側の路を走った。 「 あっ 」 止めちゃいけない脚が勝手に止まる。 船の舳先から彼が目の前に降りたった。 正面に立った僕をその目をすがめながら、 「 お前、昨晩シラス丼食わなかっただろう、頼んだくせに 」 「 え? 」 予想もしなかった言葉に驚いて目を見張った僕に、 「 今年は不漁で漁獲も少ない……仲間が食べたから良かったけど無駄なことすんな 」 「 ご、ごめん…… 」 僕には謝ることしかできなかった。 最悪だ、そんなとこ見られていたなんて。 「 かなり酔っ払ってたけど、まともに帰れたんだな 」 「 僕のこと知ってた…… 」 「 ああ、毎朝走ってるだろ、 俺も前走ってたから、お前のフォーム綺麗だなと思ってたんだ 」 「 そんな 」 わかってる、僕は今真っ赤になってる。 「 腹は? 」 「 え? 」 「 昨夜もほとんど飲んでるだけだっただろう、腹減ってないか? 」 「 え? 」 今朝いったい何度目のえ?かな。 「 減ってる、減ってます 」 勇気を出した僕に、彼はにやりと笑って、最高の釜揚げシラスを丼食わしてやるよ、と連れていかれたのは電車通りから一本入ったお寺の裏の一軒家。 引戸を開けてすぐの石畳の玄関を入っていく彼にドギマギしながら付いていく。 魚の匂いがする古い家の中で、廊下の先に小さな中庭のある畳の部屋。 彼の家?だよね。緊張してきた僕は座れといわれギクシャクしながら丸い円卓の前に腰をおろした。 足はどうしたらいい? 正座したまま固まってる僕に、 足くずせよと笑いながら、 目の前にドンっと置かれた丼。 透き通るような白さのシラス 釜揚げの湯気を立て 潮の香りが立ち込める。 大ぶりの丼の上にこれでもかと乗せられた釜揚げシラス 他に余計なものは何もない。 いぶし銀の丼に 白い米飯と 白いシラス お箸を持った僕は いただきます!と言いながら、 空腹の胃袋に最高の贈り物を運んだ。 「 潮の香りと舌に乗るシラスが 炊きたてのご飯と最高の相棒 だろ? 」 自慢げに言う彼の言葉がどんぶりをかきこむ僕の耳を楽しませる。 会ったばかりの2人で、 囲む円卓、座るやけた畳。 先に食べ終わり湯飲みにお茶を入れてくれた彼に、 「 このシラスは、君が捕ったの? 」 と聞くと、 「 おう、そうだよ、 あの船で毎日夜中過ぎに漁に出てる 」 「 昨日は?お休み?だった? 」 と聞きたいことを少しはぐらかして聞くと、 「 あー、昨日はやぼ用。 ダチにデートの代わり頼まれた。 今日も漁があったから、 俺は飲んでない 」 「 デートの?代わり? 」 ドキドキしながら確かめる僕は何を聞きたいんだろう? 「 そ、俺、モテないから。 ダチが気にして 」 と笑いながら答える彼に、 そんな、ことない、と思うと言えない僕は、曖昧に笑うしかなかった。 それから彼とは一緒に朝ごはん食べるとというか、ぼくが休みの日には、朝の食卓に僕を誘ってくれるようになった。 彼の釜揚げたシラスを、何回食べたかな。 僕はもう彼との朝飯以外うまいものを考えることもなくなって、 ある日、うららかなお昼前の陽射しの中でいつもの釜揚げシラス丼を食べた後、網の手入れをするという彼について船着場に行く。 網の手入れを始める彼のそばで潮の香りを楽しみながら、コンビニでコーヒーでも買ってこようかなと思っていると、 急に女の子の声がした。 「 え、ラインしたのに、返事してくれないと思ったら 」 不満そうなその声に、 「 悪い、悪い、気がついたら出る時間でさ 」 「 今晩も忙しいの? 」 甘えるような声にいたたまれず コーヒー買ってくるとその場を離れる。 このまま帰ろうか、と思いながら、でも、と思い直し、やっぱりコンビニでコーヒーを買って戻った僕。 相変わらず座って網の手入れに余念のない彼に、 「 あの子は、このあいだの デートの……」 その先が言えない僕に、 「 魚臭いって女は寄り付かねえよ」 逞しい腕で網を手繰り寄せながら笑う彼。 ホッとしながら、 その手にまだあったかいコーヒーを渡す時に 触れた指を 彼のシラス網を手繰る大切な指を 僕はそっと握りしめた。

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