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第7話

 時々は車窓の向こうを眺めたりしながら、在来線に揺られる。  車内アナウンスが告げる駅名に、摂はドアのすぐ横の席から立ち上がった。  電車の発着場所としてのシンプルな機能しか持たない駅だから、降りる人も少ない。改札をくぐると、下り坂の向こうに薄暗く海が見えた。日没間近の海風は冷たく、ダウンのジッパーを上げ、フードを被る。  摂が向かうのはそれとは反対方向の、坂の頂上。  光ヶ丘キリスト教会前、のバス停にはちゃんとバスが停まることを知っていたが、時刻表は確認しなかった。歩いて行こうと決めたのだから、この先の道路を道なりに上っていけばいい。    ゆるやかに、大きくカーブしながら続く道の、中腹を過ぎたあたりで夕方から夜へ変わる。腕時計は外したきりだし、携帯電話は持って出るのを忘れてしまったので、ここまででどれくらい時間がかかったのかは判らない。感覚では、十五分にも三十分にも、一時間にも感じる。はあ、ため息を吐いたのはうんざりしたからではなく、余計に酸素が必要だったから。  ―――まだ少し遠い十字架のシルエットを見上げた瞬間に、水滴が睫毛をかすった。  はあ。今度のそれはには、げんなりした気持ちも混じっていたかもしれない。雨の気配が強まるのを感じて、摂は教会へ急いだ。  しばらくは、ぽつり、ぽつりとやっていた雨が、ごく弱い小雨に変わる。フード付きのジャケットに感謝しなければならないが、鼻や、頬の高くなった部分は寒さに痛み出している。柵と壁に囲まれた教会に着いた時には、ダウンの生地が特に肩から腕にかけて濡れていた。  礼拝堂は、左右のうち右側の扉だけが開かれていた。  ジャリ、ジャリ、靴底で地面を踏みしめながら近づくと、扉の間から薄っすらと明かりが漏れているのが判る。フードを脱ぎ、ダウンに付いた水滴を払って、摂は中を覗き込んだ。  照明は聖壇に近いほうだけが点けられていて、ぼうっと、赤に近いオレンジはストーブの明かりだ。その、ストーブにしゃがみ込んであたっているのだろうか。  コン、コンコン。  ノアの注意を引くために、扉を数回ノックする。彼はそのままの姿勢でこちらを振り向き、ノックの主を知ると、 「摂?」  疑問形で摂の名前を呼んだ。 「寒い、雪降るかと思った」  この気温も、途中から降り出した小雨もすべて目の前の男のせいだと、非難するように口を尖らせる。 「どうしたの。歩き?」 「どうかしてた…」  それに笑って、ストーブの正面を摂に譲るように立ち上がったノアの足元から、一匹の猫が現れる。痩せ気味の、三毛猫。するするり、脚の間を縫って、澄ました足取りで入り口の向こうに消えて行くスマートな彼(彼女?)を、ふたりして黙って見送る。ノアの足元に見える小さな器が、彼が何をしていたのか摂に知らせてくれていた。 「飼ってたの?」 「いや、お客さん……摂、ほっぺた真っ赤」  皮膚の色素が少し薄いせいと、赤みがかったストーブの熱源のせいで、彼にはきっと、とても真っ赤になって見えているのだ。 「冷たいもん。凍って落ちそう」  ストーブにかざして温めた手のひらで、両頬を包む。できることならこのストーブを抱きしめたいと、心から思う。そんな摂を、ノアは気の済むまでストーブの前に置いてくれた。濡れたダウンはビニール地なのですぐ乾き、冷たくなった指先や顔が、じわじわと温まっていく。 「何か飲む?」  何か温かい物でも、という意味だろう。 「じゃあ、そのミルクを」  床のミルク皿を指差してやるとノアは、仕方のないことを言うなあと、眉を下げた。 「猫だったんだね、摂…」 「あはは、飲まないって。ありがと平気、ここあったかいから」 「うん。野良猫と似てる、摂は」  あれ、噛み合っていない。 「…んーん、褒めてる?」  首を傾げる摂に、ノアは生真面目に言った。 「そうでもないな。ふらっと来て、ふらっと来なくなる。気まぐれで、なんて言うか…」 「薄情」 「違うって。そういうの、とても寂しい」  それはとても真摯なトーンで、思わず見返した彼の目と、目が合う。視線のランデブーを、黒々と深みを帯びた色の目は、穏やかに受け入れているようだった。  さー。  雨の強くなる音。もしかしたら幻聴で、この音は摂の頭の中で鳴っているだけかもしれない。言い訳を待ってくれているのだろう彼の沈黙は、摂を急かすことをしなかった。  誠実に答えるために、言葉を選ぶ必要はない。 「……好きになった気がしたから。来るのをやめた」 「なぜ?」 「それ以上の理由なんて、ないよ」  摂が肩をすくめて首を振ると、ノアは思案するように自分の顎先を摘んだ。 「摂がくれた名刺……」 「…あ、うん」 「会社の電話番号とFAX番号しか書いてないから」 「そりゃ、仕事用だもの…」  特別な仕様は何もない、誰にでも渡している名刺だ。摂はプライヴェート用の名刺を作っていない。 「それがどれだけもどかしかったか、摂に分かるだろうか。悠長に構え過ぎてたんだと後悔してた」 「後悔」 「そう」 「なぜ?」 「……好きになったから。気のせいじゃなくて」  摂を真似るように言って、目を細めて笑う。  向かい合うふたりの距離はちょうど、会話に適した距離で、たとえばノアが摂の頬に触れようとしたら一歩こちらに踏み出さなければならない。伸ばされた手を空中で掴み、押し戻す。 「だめ」  おや、少し大きくなる瞳。 「…フリーだと、聞いたけど?」 「フリーだよ」 「じゃあなぜ?」 「…こんなのって、ノアには許されないはずだ」  摂が変わらずに無知でも、知っていることだってある。ノアの信じる神様は、案外に理解のない存在なのだ。その上摂は、敬虔でも貞淑でもなければ、正直者でもないのだから―――この後に及んでも、彼には潔白な身の上だと思われたい。  怖気づく摂を、ノアは簡単に笑い飛ばした。 「言ったでしょう、良い信徒ではないって。だから、そんな顔しないで」  返事は待たずに、大きな手のひらが摂の頬を包んだ。  火照って熱いくらいだと思っていた頬が、実はまだとんでもなく冷たかったのだと、ノアの皮膚とその下の温度で気付かされる。うっとりと目を瞑り彼の脈を追いかけると、長い指が、同じように冷え切った耳を、労るように撫でてくれた。 「ノア、辛くないの…?」 「とても辛かった時もあるけど、今はそれほど。両親を裏切っているし、神に背いてる……でも愛しているから、みんな」  前にもそう言った、でも愛してる、と。なんて勁い言葉だろうか。  彼の愛を享受できるすべてのものに、今なら嫉妬できる。 「…ねえ、俺のことは?」  斜め上のハンサムな顔を見上げて、ねだる。くすぐったいのを堪えるように笑った彼は、摂の両頬を挟んで言った。 「愛してるよ。他とは違う、摂のためだけの愛だ」 「たとえば俺を抱きしめたいと思うような愛?」 「ふふ」 「ねえ。俺にキスしたいと思うような?」 「摂」 「俺とセ」 素早く摂の口を手のひらでふさいだノアが、 「ああ神よ…」  天井を見上げて小さく嘆く。  構わず彼の手の内側に口付けると、やっと、胸に抱き込んでくれた。  ふわふわのダウンが少し邪魔だけれど、強く抱き合う。ノアの首筋に頬を押し当てると、堅いチェーンと擦れ合った。彼が肌身離さず着けているクロスだ。髪を鼻先で除けるようにして、摂の頬にノアがキスを贈る。摂は漆黒の巻き毛に指を通し、囁いた。 「…ギャラリーがいるけど」 「背中を向けていてくださる」 「変なの」 「そう?」 「じゃあ、変じゃない…」  どちらでもいいから、と唇を寄せ、含み笑いのままキスを交わした。    しっとりと湿った唇を、そっと離す。  睫毛と睫毛が触れ合う距離で見詰め合っていると、ノアが思い出したと片眉を上げる。 「そうだ今日」 「んっ?」 「ジンジャーマン・クッキーを焼いたらしい」  保存食としても優れているクッキーは、早めに焼くのが伝統のようで。摂の家でも十二月に入って早々に焼いていたと記憶している。 「約束忘れてない?ちゃんとリザーブしてくれた?」 「ララがね」  その名前に、少し気後れして彼女の息子を見る。 「お気に入りなんだ、摂のこと」  ちらりと笑ったノアが摂の指先を握り、軽く引いた。 「おいで。猫のミルクじゃなくて、もう少しまともなものを用意するから」 「ミルクがいい」 「そうなの?」 「うん」  へーえ、ノアが感心したように頷く。  そのまま手を引かれて、礼拝堂の通路を前と後ろに並んで歩いた。 「ここさあ…バージン・ロードになるんだよね」 「なに?」 「……なんでもない」  出来映えの悪い冗談に摂が恥じ入っていると、大きな背中が、小さく震える。 「聞こえてたけどね」 「信じられない…!」 <終わり>

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