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ジェミニの憂鬱5

 思えば、奨励日でもない限り有給休暇を取る機会もなく、こちらの支社に転勤してきてからはますますそれが顕著になっていた。消化されずに消滅していく、金で買えるどころか金になる時間。細かく半休なんか取らずに、この際、長期休暇を決め込んでみようか。労務面では何ら問題のない実現可能な空想を、病院の待合席で、スーツ姿の自分がしているのだから、その気があろうはずもない。  月曜の午前、診療開始時間直後に到着したというのに、その時点でもう待合室はほとんど埋まっていた。自分が普段病院を敬遠する原因は、小さくはこんなところにもあると思う。紹介状を携えて訪れたのは整形外科のクリニックで、待合室は老人性疾患に対するリハビリを来院目的に患者が八割、残り二割のそれ以外といった構成比。もっとも摂が「リハビリ室」の世話になる日も近く、様子を見ながら今週中にはリハビリを始めることになった。経過は良好というから、公私まとめた意味で一安心だろうか。  右手の痛みがもう少し引くまでどうせステアリングは握れないので、代車は手配していない。しばらくは優雅にタクシー通勤するしかない身分だった。  結果的には金曜日を休み、月曜に遅刻して出社しただけなのだが、オフィスに到着した摂を迎えたのは、 「えっ、二見、もう大丈夫なの?」  幽霊にでも遭ったような同僚達の顔だった。遊び心を過剰に持った後輩や先輩が、事実を誇張して噂を育てた可能性は高い。クールビズのおかげで、ノータイの襟元からカラーが覗いている以外、同僚達との相違点はないというのに。なんて、我ながら苦しい気休め。  ワーカホリック、と、決して好意的でない評価をノアから受けることはよくあるが、実際、どこか麻薬じみた魅力を感じているのかもしれない。一日半仕事を離れていただけで、コンディションは手持ち無沙汰も甚だしい。とは言え運動や移動は控えなければならず、必然的にデスクワークに従事することになるになる。営業部から申請する稟議書を、端から引き受けてみたり。 「ユニバーサルデザインを提言したい…」  エンターキーを押しながら、画面に向かって呟く。 「なに、突然」 「エンター、バックスペース、ディレートにインサート、全部右にあるんですよねー。何とかならないのかなあ…」 「ビジネスチャンスかもよ?企画書作ってみたら?」 「…いっぱいありますよ、ユニバーサルデザインのキーボード」 「ああ…ただの愚痴ね」  左隣の同僚に、気の毒そうに笑われた。左手だけのタイピングには色々不都合があるけど、普段気にしたことのなかったキー配列が、やはり右利きを前提に作られていると実感する…深遠な思想なんかじゃなくて、指摘通り、ただの愚痴なのだけど。    コアタイムを過ぎ、課長命令で帰宅する。  二泊三日で付き合ってくれた恋人も、週が明ければ彼自身の仕事を優先しなければならない。同棲には向かないタイプとノアには明言しているし、名言されたほうにも色々思い当たる節があるだろう。けれどそういう根本的な事実を除いても、一人きりの部屋に物足りなさを感じるのは自然なことだと思う。しばらくは、旅行の後みたいな感覚と同棲することになりそうだ。  普段見ないバラエティー番組を見ている最中、ノアから電話がある。 『どう?何か困ってない?』 「困ってることばっか!」  彼は、まくし立てるような摂の主張を聞かされることになった。  日常生活にどれだけ支障を来たしているか、思いついた順番に訴える。入浴の前後、カラーと手首の包帯をどうやって着脱するかという問題が最新だ。手首は比較的簡単にクリアできても、カラーは難しい。右手に包帯どころか、右腕を三角巾で釣った上に頚椎カラーなんて実例もネット上にはあり、必要に駆られて生まれた奇抜なアイデアもいくつか紹介されていたが、果たして最善策なのかというと疑問が残るものばかりで。摂のケースでは、痛む右手を首に添えながら左手を使うのがやはり一番有効な方法だった。  聞き役に徹したノアは、最後に穏やかな祈りの言葉を送り、電話を切った。    火曜の予定も似たり寄ったり。  出勤前に整形外科で診察を受け、そこから出社。パソコンと電話に支配されたデスクワークも定時には終わり、帰宅する。  右手さえ使えれば、時間のかかる料理でもするんだけど。不完全な肉体では、持て余すものがあまりに多すぎる。少し痛み始めたので、ヨーグルトを胃に入れてから鎮静剤を飲み、ソファーで横になっていた。  昨日と同じ時間帯に電話があると、そう、期待していたのに。一時間待っても携帯電話は鳴らず、そもそも待つ理由はないとリダイヤルボタンを押したのだが、あと一時間待ってみようと中断する。  リダイヤルしては途中で切る、を何度か繰り返した時。玄関で物音を聞いた気がして、ソファーを下りる。それが幻聴かどうか確かめるだけの行為だって、じゅうぶん気晴らしになるのだ。リビングを出ると、ちょうど玄関が開くところ。インターホンを経由せずにドアまで辿り着ける人物は、一人しかいなかった。 「ノア、来てくれたの?」  出迎えられているとは思っていなかったのだろう、意表を突かれたように一旦停止し、それからゆっくり笑顔になる。 「電話しなくてごめん」 「何で謝るの?」  優しい両眉がハの字に下がる。目で揶揄ってやるとそれが合図になり、大きな手に頭の後ろを支えられ、短いキスを交わす。唇を離すと、長身を屈めた姿勢のまま少し肩を揺らしたろうか。その不自然な動作の意味は、色彩となって証明された。目の前に現われたのは、圧倒的な赤、深い緑、柔らかい白のコントラスト。 「誕生日おめでとう」  お手本のような日本語で告げられたフレーズを、理解できなかったわけではない。絶句した摂を目つきで揶揄うのは、ノアの番だった。 「忘れてた?」 「…うん。忘れてた」 「こんなことがあって、大変だったから」  摂の代わりに状況をフォローして、 「Happy birthday」  もう一度、完璧なイギリス英語で。 「ありがと。嬉しい」  大きなバラの花束を撫でて、ノアを見上げる。 「ねえ、何本あるの?」 「…わぉ。もう気づかれた」 「んっ?ううん、言ってみただけ…ほんとに?」 「ええ」  誕生日に歳の数だけバラを、なんて、最高のクライマックスか最低のエンディングにしかならない。今がそのどちらかは、再び重なった唇が答えだ。 「花瓶はキッチン?」 「うん」  ワインの空きボトルを、ここでは花瓶と呼んでいる。大股でキッチンに向かいながら、ふと、ノアが振り向いた。 「…摂、やっぱり謝らないと」 「何を?」 「花瓶の水替えを、させることになってしまいました」  弱りきった表情で、そのくせ楽しそうに忍び笑いをしながら。重大かつ深刻な告白なのだが、そうであればあるほど、人間は面白い気分になるものなのかもしれない。堪えきれずに吹き出してしまった。 「あはははっ、気にしないで」 「そーりー」 「いいよ。ノアを呼びつける絶好の理由になるから」  カウンターの中で天井を仰ぐ男に向けて、摂はもう一度、声を上げて笑った。 <終わり>

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