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ビコーズアイラブユー2

 事故での破損が酷く、修理ではなく廃車を選んだものの、つい目で探してしまうのは、初めて自分の稼いだ金で買った、長年連れ添っていた愛車の姿だったりする。新車のつややかに光るボディーはまだ見慣れないものの、乗り込んだ一瞬の革やビニールの匂いは初々しく、他愛なく頬を緩ませてしまう現金な自分もいるのだが。  地下駐車場から出るとすぐ、フロントガラスに雨粒が当たり、一粒、二粒、数える間もなく点描のように細かく広がる。いつから降っているのだろう。梅雨の時期、雨が降っているからといって驚きはしないけれど。濡れた道路はライトを反射してきらめき、最初の信号を過ぎるより前に、ワイパーの作動を余儀なくされた。  FMラジオに合わせたカーステレオからは、聴き覚えのある歌が流れてる。ミディアム・テンポのサウンドと歌詞を頭の中でなぞりながら、学生時代に流行った恋愛映画の主題歌だったと思い出す。気持ちが安らぎとざわめきの間でバランスを取ろうとするのは、忘れかけたラブストーリーなどではなく、ヴォーカルの優等生的なイギリス訛りのせいだろう。  今夜は電話してみようか。摂はワイパーの向こうを眺めながら、遠くない未来の予定を立てていた。    冷凍パスタとカップスープを作って、食べて、片付けるまでの全工程に手間をかけずに食事を終える。冷蔵庫から取り出した冷えた白ワインと、グラスを手にソファーへ移動し、テレビのリモコンとDVDプレーヤーのリモコン、それと読みかけの雑誌を端に寄せる。   コール音に耳を傾けている時って、時間感覚が倍以上になっている。ほんの十数秒でも辛抱が必要で、その先の落胆を想像できてしまったりもする。大事なのは、そのことに自覚的でさえあれば、たっぷり相手の電話を鳴らすことにもそれほど躊躇いを覚えないということだ。  しばらく待っていると、コール音が途切れる。無機質な機械音に代わって、深みのあるテノールがHelloと奏でた。  何してた?という問いかけに、テストの問題を考えていた、という答えが返ってきた経験のある人はどれくらいいるのだろうか。教職に従事する恋人は、彼の資質と関係ないところで時々刺激的だと思う。 『七月に入ると、期末テストが始まるから』 「来週じゃん。そんな時期かぁ。じゃあ、ちょっとだけいい?」 『たくさんでもいいよ』  そんな返事で摂を笑わせておいて、それから、促すような沈黙。  何を話そうかと考えるより先に、帰りの車内で聴いたポップスのことが口をつく。ヒット映画の邦題と、主演女優の名前は憶えているのだが、主人公の名前が思い出せない。ハリウッド女優が演じたハリウッド女優は、たぶんよくある名前だった、というのが二人の一致した意見だ。 『…何だっけ、懐かしいね』  記憶を探る顔が目に浮かぶ、かすかな微笑が伝わってくる。 「ノアも見たんだ」 『ええ、ちょうど留学中に』 「映画館まで行った?」 『いや、それだといかにもだから、DVDを借りて』 「俺も」  どうやらお互いに、当時の恋人と見たらしい。確かに、部屋で二人で観るには、悪くない内容だった。  ――最初から話題選びを間違えたかもしれない。大して面白くもない過去を一つ知っただけだったと、苦笑に綻んだ唇をワイングラスに押し付ける。電話の向こうの彼は、黙ったままだ。 「…ねえ、今何考えてた?」 『失礼、テストのことを』  落ち着き払って言うのが真実でなくても、もちろん構わないのだけど。 「そんな時期だもんね」 『その後は三者面談もあります。それで?』 「ん?」 『摂は?何考えてたの?』  同じ質問を返された時の答えを用意しておらず、軽く息を吸い込む一拍の間に、ノアが笑い出す。 『だって、摂が先に、上の空だったでしょう?』  言葉でどんなに責めるようであっても、まるで意に介していないとわかる明るい笑い声。 「俺だって、考え事くらいするよ」  思わず反論してしまったのは、実のところ最初からタイミングを計っていなかったわけでもないからだと、まさかノアが知っていたはずはないだろうけれど。 『どんなことを?』  重ねて水を向けられて、黙っていられるほど摂が口の重いタイプでないことは、彼だって良く知っているはずだ。部外秘、つまり社外秘でもあるプロジェクトに召集されていることは、話していたっけ?順序立てて話そうと努めるうちに、物事が徐々に整理されていく。もっとも、あらましというほどのことは何もない、不意打ちに当事者となった噂のことを打ち明ける気分は、それを娯楽にする第三者の気分にどちらかといえば近かった。    穏やかな相槌を打っていたノアは、一通り聞き終えると、やはり穏やかなトーンで摂に尋ねた。 『アプローチはなかったの?』  隠した事実はないのかと問いかけるフレーズも、彼の深いテノールにかかれば、急にロマンティックなイメージを帯びるではないか。それに対して明確な答えがなことに、変わりはないとはいえ。 「なかったとも、あったとも」 『珍しいね。摂がはっきりしないなんて』 「俺たちに女心をすっかり理解できるようになる日が、来ると思う?」 『思いません』  どう思い出してみても、懇親会が一回、あと、有志で一回、一緒に呑んだくらい。あからさまなアプローチがあったかと考えも、イエスともノーとも断言できない。もし彼女に対して、好意から下心までの範囲に入る感情を持っていたら、イエスに傾くかもしれないという程度。 『そう』  思わしげな相槌に、つい、茶化したい気持ちになる。 「なーに、少しは心配?」  ふふ、と、失笑の気配。おっとりとした笑い含みの答えはしかし、極めて的確なものだった。 『相手が男なら、揶揄われなくても心配しますよ』  脳より先に、胸で理解したのかも。ゆっくりソファーに倒れ込みながら、遅れて込み上げてきた笑いに身を任せる。 「あはは、そう、俺ゲイなんだよねえ」 『Yes,俺もね』  才媛、高嶺の花、そんなふうに呼ばれる人物との艶聞。根拠がないとか理由がわからないとか、そういうことではなく、自分だけが感じている紛れもない違和感の正体はまさしくそれだから。ロマンティックな恋愛映画は嫌いじゃないし、無理に意識しなくてもヘテロの思考に合わせることもできる。ただ、そう、初恋で姉の恋人を意識した時からずっと、異性との恋愛というのが、どこかぴんと来ないのも確かなのだ。いや、どこか、ではなく、一番本質的な部分と相容れないのだと思う。その本質的な点で、自分達は同種だ。冷静な恋人は、この程度で本質を見失わないということ。ノアの寄せてくれる共感はだから、摂にとって不足なく心地よく、また甘すぎることもない。妬かれないようにだなんて人の悪い笑みを浮かべて言った乾には、そもそもヘテロの後輩だ、理解の及ばない次元かもしれない。 「もう、せっかく話してあげたのに。妬かせてやるのも一苦労ってわけだ」  グラスの底に残った液体を、小さく揺らし、飲み干す。 『誰が、妬いてないって言いました?』 「…何て言った?」  小説を朗読するような絶妙なリズムの日本語が耳に吹き込まれ、ワインを味わうより先に喋らなければならなくなる。おかげで喉のあたりに、酸味だけが取り残されてしまった。 「ねえ、今のもう一回、言ってもいいんだよ?」  繰り返し唆してみたのだが、 『摂の考え事が少しでも軽くなったなら、いいけどね』  ノアはちらりと見せた矛先をあっさりしまい、温厚に言うだけだった。  近くにいたなら、軽く睨みつけた上で、キスのひとつもするところだけど。着けっぱなしの腕時計を目の端で捉えてしまったことで、その空想も消える。 「そろそろ時間切れ?」  ライトを反射してうっすら光る文字盤は、角度を変えたところで、時刻を変えはしない。朝が早い恋人をいつまでも拘束するわけにいかないと思える程度には、夜が更け始めていた。 『ああ、そうですね、そろそろ…』  言われるまで気づかなかった、というような雰囲気すらある、泰然とした答え。そのままおやすみの挨拶を交わして終わりだろうと思ってると、電話の向こうから引き止める声が上がった。 『そうだ、摂』 「なに?」 『飲みすぎないように』  厳かに諭されて、ボトルに伸びかけた手が止まる。 「あれ、なんでわかったの?」 『わからないとでも思ってたの?』 「…あと一杯だけ、誓うよ」 『仕方ない、信用しましょう』  弱いくせに好きな自分と正反対に、強いくせに、大して酒は好きでないノア。つい飲みすぎる摂を、しかつめらしい顔をしてたしなめるのが常だ。 「ありがと。他には?言い忘れたことない?」 『今週末は、行っても平気?』 「先生こそ、来ても平気なの?テストじゃなかったっけ?」 『俺は作るほうだから、テスト勉強はしないよ』 「あ、そりゃそうだ」  今のノイズは、ため息混じりの苦笑だろう。彼が案ずるように、少し酔いが回ってきたかもしれない。 『あと一杯、信用してるからね…じゃあ、金曜に』 「うん、金曜に」 『おやすみ』  耳元で弾けるのは、スピーカーから送られたキス。  この音を立てるには結構コツが必要で、ノアのほうが、たぶん上手。同じように、おやすみとキスを返して、携帯電話をオフにした。  頬や指先がじわりと温かいのは、ワインの効能だけではない。  充電完了、と、冗談めかして考えているけど、それより適切な単語は今のところ思い浮かばなかった。

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