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第2話

 日比谷線で恵比寿まで、そこから山手線に乗り換えて、一駅。  電車から降りて、混雑する渋谷駅の構内を歩く。自分に必要なルートだけは知っているが、こんなふうに他人に従って歩いていると、右も左も判らないような気分になるんだ。やっぱりここも、知っているようで知らない空間だった。  ちらりと顎で碧を促して、永久が自動改札の向こうに出て行く。  握ったままでいた切符は、ひんやり汗で濡れていた。Tシャツの裾に磁気のある黒い面を擦りつけ、切符を通す。出走ゲートのように、ガチャン、改札口が開いた。  雑踏、ざわめき、ビルの巨大スクリーンからの音楽。音の飽和する人ごみの中でも、永久が”鳴っている”のが判る。ピアスやブレスレットが生む小さな金属音、ジーンズにくっ付けたチェーンの音、スチール制の三脚が軋む音、それから――。 「すげえよな、この辺。ちょっとでも居ないと、全然判らなくなる」  言葉ほど感傷的な響きのない、ドライなテノール。碧にとっては近くにいすぎて変化が感じ難いのだが、スクリ-ンを見上げて笑う永久には、そのスクリーンだって大きな変化の一つなのかもしれない。まだ完成してから間もなかったはすだ。 「時間の流れが、根本的に違うんだな。俺がどれだけ急いでも、絶対、この街には追いつけない」 「浦島シンドロームじゃなくて?」 「はは、じいさんになった気分、マジで。なあー、歩き煙草禁止っていつから?」 「さぁ」  少なくともエコロジストではない男の嘆きに、ノンスモーカーの碧はあまり共感できなかった。 「ニューヨークには、どれくらい?」 「三年ちょい、くらいかなぁ」  浦島太郎が竜宮城にいたのは、一ヶ月くらいだったっけ?昔話のストーリーはまるきり思い出せないが、三年は、誰にとってのペースだとしても長い時間だろう。 「日本に帰って来たのは?」 「四月入ってすぐだから、そっか、まだ半年経ってないのか」 「その間の日本のことって、何も知らないの?」 「そりゃ、大きなニュースくらいは知ってるけど。確か首相は変わってないんだろ?」 「…たぶん」 「たぶんって。きみだって別に、日本のこと知ってるわけじゃねえのな」 「そう、かな」  思わず頬をゆるませた碧を、楽しむような口ぶりで永久は言った。 「褒めてないって」  ごく自然に、沈黙へと戻る。  独特の空気を感じたのが先だった気がする。狭苦しい外観、ポスターや看板の色彩に彩られた映画館の入り口に差し掛かっていた。単館の、比較的新しい映画館。現在上映しているのは、ある小さなコンクールでグランプリを取った日本人監督が、日本とカナダの映画会社の出資で作った作品だ。  田舎町と、空と、青年と、アイデンティティーと未亡人。  ショーウィンドーの上から、コラージュ写真のような風合いのポスターに触れた。  主演・小田島碧(おだじま・みどり)、の文字を指でなぞる。  それが、彼の生まれつきの名前でもある。  雑誌モデルとしてデビューして、高校卒業以後、徐々に俳優業にシフト。連続ドラマで演じた精神不安のハッカーが、その後の再放送を経て当たり役になったのが二十歳の時で…約三年前。気付けば大勢いる「若手演技派俳優」の一人だった。 「碧」  やっぱり最初が、少し擦れるんだ。  名前を呼ばれて、皮膚より外の、止まっていた世界がまた動き出す。背中越しに振り返った永久は、ぎゅ、リュックの肩ベルトを握る碧に、軽やかに笑いかけた。 「ぼーっとしてると。俺のこと見失うぜ?」 「見失えないって」  反射的にそう言い返して、歩き出す。  始めて会った、お互いに見知らぬ人間同士というありふれた対等な関係が、スニーカーに羽根を生やしてくれたような錯覚。  あなたはほんとうに、俺のことを、知らない。    ひしめき合う雑居ビルのような外見のアパートのひとつ。懐古趣味には適さない、ただ時代遅れな印象の建物だった。 「急だから、気をつけて」 「え?」 「階段。転がり落ちるなよ」  彼一流のジョークだとしたら、あまりに下手だと思うけど。作り笑いが上手く決まらず、キャップの縁を目蓋の上まで引っ張ることでごまかす。片目だけを細めて笑う永久が、碧の反応に満足したのかどうかは判らなかった。彼に続いて、省スペースのためか確かにおそろしく急な階段を上る。傾斜も急だが、その横幅の狭さも、もし今下りて来る人がいたらたぶんすれ違えないだろうなと心配になるほどだった。四階の左手、えんじ色のドアが正解。  永久が鍵を差し込み、回すと、カチャンと確かな音がする。 「ようこそ」  碧は汗染みのできた永久のTシャツの背中越しに、中を覗き込む。夕方近いとは言え真夏の日差しは相変わらず痛いくらいきつかったが、窓の向きの関係だろう、部屋の中は薄暗かった。  ふと、玄関から続く廊下を、黒っぽいものが横切る。  正確には、横切ろうとしてこちらに気付き、ぴたりと見事なストップモーションを見せたのだけれど。 「猫だ」  無意識に口を突いたそれを、 「そりゃ、猫だよ」  永久が笑い飛ばす。 「ただいま、アオ」  軽やかな足運びで摺り寄って来る黒猫を、腰を屈めた永久が抱き上げる。離陸の瞬間少し後ろ足をばたつかせたが、すぐに大人しくなった。 「彼女が、アオ。美人だろ?」 「すごく…」  主人を出迎えたこのスレンダーな美女が、彼のハニーというわけ。  猫を抱く男を、よほど緊張した顔つきで見つめていたのだろう。永久が、アオを乗せていない方に首を傾げる。 「猫、嫌い?」  ストレートな訊き方が、却って碧を答えあぐねさせる。 「…どうしたらいいか、わかんない。動物飼ったことないから」  子供の頃から団地暮らしだったし、一人暮しを始めてからもペットを飼うなんて考えもしなかった。碧の生き物に対するスタンスは、小学生の時から進歩がないのだ。 「そっか。アオ、碧に挨拶」  軽い相槌を寄越した永久が、アオの前足を片方持ち上げて、ちょいちょい、招き猫のポーズを取らせる。  ノーブルな外見の猫には似合わないポーズに思わず吹き出すと、永久は出来のいい生徒の回答に満足する教師みたいな顔つきで、小さく頷いた。 「怖くないだろ?」 「うん」  こわごわアオに手を差し出すと、永久のエスコートによって、彼女との握手が実現した。けれどすぐに、驚いて手を引っ込める。 「わ、あったかい」 「そりゃ。生き物だもん」  当然のように言うけれど。  猫の足の裏が、肉球があったかいなんて現実、今まで自分には関係なかった。永久のシンプルな説明に、右手の指先が遅れて痺れはじめる。血が集まる感じ、だ。  するりと飼い主の腕の中から踊り出て、アオが床に着地する。心得た永久が窓を開けると、美しいヒップショットを見せつけながら窓枠の端に丸くなった。外側に向かって高さ三十センチほどの柵が付いているから、間違って落ちることはないのだろう。  彼女の隣りに遠慮しながら肘を突いて、窓の外を眺める。  カチ。  軽い音に続いて、きつい匂いが漂ってくる。振り向くと、煙草の先がちらりと赤く光って鎮まった。 「案外遠くまで見えるだろ」 「うん…不思議」 「大したことない部屋だけど。その窓だけは、気に入ってんだ。過不足なくぴったり収まってる」  何が、とは言わない。  だって。きっと十平方メートルに満たない小さな世界。建物と建物がぎゅうぎゅうとひしめくわずかな隙間から、濃いオレンジの夕日が注し込んでいる。窓の中の絶妙な配分配色をこの部屋から共有している人間同士に、説明はいらないから。  逆光で真っ黒な影になった男が、白っぽい煙を吐き出す。 「朝日とか夕陽に感動できるのって、俺たちの民族性の特権なんだ。日照りに日常的に苦しんでる…例えば砂漠地帯に暮らす人達はさ。太陽の昇り沈みに心動かされない。太陽が昇ればまた暑い一日が始まるし、沈むことは、次の朝までそれから解放されるってだけで、平安な気持ちとは無縁な現象だからね」  黒い影の黒い腕が煙草のケースを差し出すのを、首を振って断わる。碧は弁解するように、言葉を探した。 「…太陽信仰のつもりはないけど」 「俺だってそうさ。言ったろ、特権なんだから。碧は一つでも多く幸福を知ってることを喜べばいいんじゃない」 「そんな、単純なことかな」 「意外とね」 「プラス思考」 「引くよりは、足すほうが」 「うん…今、ひとつ増えた」  ガタガタンッ…少し遠くから、電車の音。  全部の車両が通過し、音が聞こえなくなるまでの数秒の間、目には見えない電車の存在を意識で追い掛ける。 「永久…」  toi、という馴染みのない発音が、舌の上でもたついたかもしれない。 「うん?」 「しばらく、置いてくれませんか」  言葉が足りないことに気付き、補う。 「ここに。あなたの、部屋に」 「――拾い物の多い体質でさ」  浅く腰掛けたソファーの背中を叩き、永久が言う。身じろぎに合わせて、アクセサリーの小さな金属音が重なった。 「このソファーも、そこのテレビも、ボードも、キッチンのフライパンも。きみも」  ずい、まっすぐ碧を指した人差し指で、くるくる、軽く円を描く。目を回した赤とんぼみたいに一瞬バランスを失い、次に、碧は思いきり笑った。 「俺も?」 「そう」 「アオは?彼女も?」 「アオは俺より前からこの部屋に住んでる。きみは歓迎されてるよ、大丈夫」  つるつるの短い毛並みと、温かさが、碧の腕を撫でる。もっと澄ました性格かと思ったけど、人懐っこいみたいだ。 「ははっ。緊張してる、碧」 「だって」  慣れないその感触や温度は、でも、決して不快なものではない。くわえ煙草のくぐもった笑い声が、碧を揶揄うのだった。 「彼女が黒猫なら、きみはさしずめ白猫だな」

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