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第4話

 ジャー、水道を捻って水を出し、洗剤を泡立てたスポンジで皿を洗う。泡が残らないようによくすすいで、食器かごに立てると、陶器とステンレスがぶつかって小さな音が鳴った。 「危なっかしいなぁ」  危惧する響きはなく、どこか感心するような声音だ。あまりにさらりと揶揄われては、恥じ入るより、ただ拗ねた気分になる。碧はびしょ濡れの手をシンクの外に出すことができず、首だけ捻って永久を振り返った。 「…得意だから。皿洗い」 「だろうね」  むくれる碧に、永久はあっさり頷いて見せる。軽薄というか心ないというか、気安いというか。この軽やかなトーンが彼の持ち味なのだろう。きっと計りに乗せても、目盛は0.1ミリグラムだって動かないんじゃないか。 「見張ってなくても、割ったりしないから」  いくらなんでも、そこまで不器用だとは評価されたくない。冗談めかした牽制が通じたのか通じていないのか、彼は鷹揚に笑うだけだ。 「いいよ。こんな高級皿、いくらでも割ってくれて」 「…信用ゼロだね」 「んー、未知数ってだけ。きみの皿洗いの手つきがさ、俺にとってはアミューズメント」  にやつく男の鼻先に、碧は今度こそ遠慮なく、右手で作った拳銃の先を突き付けた。 「だからって、永久」  水滴がその後を追って、瞬間、派手にアーチを描く。両手を挙げてホールド・アップする永久に、脅迫者になって告げる。 「食器洗い機が動いてる間ずっと見てるなんて、無意味だろ?」 「何のためのオートマチックなんだ、って?」 「そう。皿洗いは俺の仕事」  銃口を更に突き出して、ホールド・アップの姿勢のまま男を後退させる。永久は楽しそうに顔をくしゃくしゃにして、 「OK、任せた」  キッチンを出て行った。  ヴィンテージのジーンズに包まれた脚が、視界から消える。碧は再びスポンジを握って、皿洗いを再開することにした。ふと、足元にまとわりつく感触に気付く。今までで一番不貞腐れた声が出たかもしれない。 「…アオ。お前も俺が信用できないの?」  食器洗い機が働いている間に、永久が何をしていたかと言うと。 「待てって、今終わるから」  アオのトイレ掃除をしていたらしい。もっともその容器が猫用のトイレだと碧が知ったのは、ほんの数時間前だ。それまで、自分の世界には猫用トイレという存在はなかった。アオは新しい砂を入れている飼い主の背中に圧し掛かり、ずるずる、滑り落ちる。前足が彼のジーンズにひっかかり、素肌の背中がべろりと現れた。 「こらー、アオ」  両手が塞がっているから、落ちたジーンズを直すこともできない、という苦笑。何となく見ていられない思いで、碧はアオを引き剥がした。 「――お嬢様、失礼」 「お、サンキュ。碧」  アオの温かさや弾力や重さには、まだ戸惑うことのほうが多い。抱き上げる腕の力加減が判らず、早々に彼女を床に下ろすことになったのだけれど。腕の中から滑り降りたアオを見送りながら、くすりと失笑が漏れる。 「なに」  敏感に察知した永久がこちらを振り向き、首を傾げる。あなたを笑ったわけじゃない、と首を振って弁解し、碧は失笑の理由を説明した。 「俺、アオにふつうに喋りかけてるなって…思って。妙じゃない?皆そうなの?」 「考えたことねぇな、そんなこと」 「あなたしか基準がないから、俺にとっては自然なんだけど」 「――変なこと気にするんだな、碧」  あ。 「そうかな…わからない」  碧はもごもごと口篭もり、目を伏せた。自分の幼稚な考えが恥ずかしくなったのもあるのだが、それ以上に、変化した永久の視線にまごついている。見透かされているのとは違う、碧を置いて自分だけどこかへ行ってしまったような、それでいて360°から彼の視線を感じているような感覚。初対面で感じた不思議な混乱がフィードバックする…あの時は、キャップの縁を握ることで耐えられたけれど。  一方的な困惑は、碧の沈黙を永久が引き取ることで解消された。 「なあ。アオの方が先にここに住んでたって、言ったの憶えてる?」 「あ、うん」  重力が元に戻り、ほっと息をつく。けれど永久の次の言葉には、別の理由で息を詰めてしまった。 「彼女ね。前の住人の、忘れ物」 「…それって、何かのいわく?」  幽霊話は、怖いというより苦手だ。思いきり顔に表れていたようで、くくく、と笑われる。 「そんな顔しなくていいって。ただ単に、引っ越しの時に一緒に連れてかなかったみたいだな」 「ひどいな…」  ただ単に、と言うけど。事実はそこまでシンプルなんだろうか。眉を顰める碧を慰めるように、永久が口元をくつろげた。 「彼女、まだ子猫でさ。でも毛並みも良かったし、後から判ったんだけど避妊手術もしてあった。大切にされてたみたいで、すげえ人懐っこかったよ」  現在進行形で愛しんでいるのが判る口ぶりだ。幸せなアオ。 「そっか…」 「だから何、ってわけでじゃないけど」 「うん。わかるよ」  碧が頷くと、永久が目を細める。悪戯っぽい黒目の色が鈍ると、歳相応なんて表現したら失礼だけど、とても大人らしくなるのだと気付いた。平べったい手のひらが伸びて、碧の頭を撫でる。 「…ほんと、猫みたいだな」  完全に脱色されて、弱々しいくらい柔らかくなった自分の髪。猫の毛並みに例えるのは、褒め過ぎだろう。どこか他人事のようにそう考えていると、突然、永久がその手を引っ込める。 「やべえ、トイレの手だった」 「あははっ、ひでえ」  碧は思わず、声を上げて笑ってしまった。  バスルームで手を洗った永久が、ジーンズの尻をハンカチ代わりにしながら戻ってくる。ひょい、と窓の外に顔を突き出し、碧を振り返る。 「雨降るな」 「そう?」 「匂いがするじゃん、雨降る前の」  当然のように言われても、碧にはただ曖昧に目瞬きすることしかできない。 「出かけようか、ちょっと」  唐突な提案に、反射的に顎を引いた    時間は、碧を待っていたわけでも追い越してしまったのでもなかった。  ただ日付が変わり、カレンダーのマスがひとつ右隣に移る。これ以上ないくらい普遍的で真理でさえある現象だ。そう、何も変わっていない。キャップをかぶらずに出てきたことを少し後悔しているけど、アーマーのない心細さは、思ったよりも感じなかった。 「気にしてごらん、わかるから」  教師のような口調の彼に言われて、意識を空気に集中させる。  灰色っぽい雲が空に蓋をしてしまったような淀みは、車の排ガスとビルの排気のせいだけではなさそう。息苦しいほどに湿度も高く、確かにいつ雨が降ってもおかしくない危うさだ。鼻の下の汗を拭い、斜め上の永久を見上げる。 「どこに行くの?」 「雨の通り道」  明確な単語だが、答えにはなっていない。  永久はそれ以上答えず、碧の疑問は置き去りになった。急がない足取りで裏路地を突っ切り、ガード下を潜る。二十分くらい歩いただろうか、大きな団地に辿り着いた。時計台は午前十時半を少し過ぎたところで、中途半端な時間のせいだろうか、敷地内には全く人気がない。白を基調とした巨大な棟々、それを繋ぐ階段やテラスが複雑に交差して、まるで迷路のようだった。  ぽつり。  頬をかすめた水滴に、無意識に空を仰ぐ。 「雨」  落下する物体に初めて名前を付けているような、誇らしい気持ちで呟く。横合いから透明な影が差し、永久がビニール傘をかざしてくれたのだと気付いた。 「これ、持ってて」  骨組の錆びた小さなビニール傘を碧に押しつけ、リュックから出したカメラを片手に、彼は確信的な足取りで奥に進んで行く。碧は我に返り、永久の背中を追いかけた。ほんの一分もない間に、「ぽつりぽつり」が「さらさら」になり、ついには「ざーざー」になる。 「永久っ、濡れてる」  碧は思わず声高に叫んだ。にわか雨が何層ものカーテンのようになって、永久との距離が遠のいているみたいだ。 「そのために来たんだ――碧、こっち。上、見てみな」  階段の下に飛び込んだ永久が、碧を手招く。雨宿りのためにそこにいるわけではないことは、すぐにわかった。 「ここ、ここに立って」 「わっ…」  長い長い階段が、平行に二本、空中に浮かぶように造られている。  それぞれの階段の下は陰になって乾いたままなのだが、二本の階段が保つ間隔、その空間にだけ雨が降り注いでいた。 「すごい」 「だろ」  ボダボダボダッ、狂ったように酷い雨がビニール傘を叩く。両サイドは澄ましたくらい静か。この空間だけが思い出したように集中豪雨で、数十メートルはあるまっすぐに伸びた距離は、確かに、雨の通り道だった。  永久はカバーとレンズでコーティングしたカメラを、ほぼ垂直に空に向けている。彼の表情は判らないが、何かの神聖な儀式を目の当たりにしているような気分だった。金茶の髪が濡れているせいで、落ち着いた色素になっている。ピアスというピアスから、ひっきりなしに雨が滴り落ちている。抗うことをしない、修行僧のようにも見えて。  頬、肩口、腕、スニーカー、全身で雨粒を弾く男が、羨ましくなったのかもしれない。  ばさり。碧はビニール傘を閉じて、酸性雨の中に身体を投じた。  ざー。雨は強く、とても冷たかった。  今の自分に、役名は付いていない。本来の人格で、望んで雨に濡れているなんて。とても愉快なのに、静かな気持ちだ。  ゆっくり視線だけ横に動かすと、カメラのレンズ越しに、たぶん、永久と目が合ったと思う。じゅうぶんにそれを捉えてから、碧はまたゆっくりと視線を外す。  そして、シャッターが下ろされる気配を、静かに受け入れた。  降り始めと同じように急速に、未練なく、雨は止んだ。 「まずいな…」  けれど少しも焦っていない、ハスキーヴォイスの呟き。 「何?」  問い返すと、小さく笑った永久は、顔にべったりと引っ付いた碧の髪を指先で丁寧に払ってくれる。 「ごめん。帰り道、かなり目立つぜ?」

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