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第6話

 ピリリッ、ピリリッ、ピリリッ、ピリリッ。 「アオ」  ピリリッ、ピリリッ、ピリリッ、ピリリッ。 「どうしたらいい…?」  ピリリッ、ピリリッ、ピリリッ、ピリリッ――電話のコール音が、不安な空気を揺らす。  電話って、鳴るんだ。そう思い出さなければならないほど、この部屋で電話のコール音を聴くことはなかったのに。何故、本来受話器を上げるべき人が不在の時に限って、電話が掛かってくるんだろう。受話器のフォルムを人差し指でなぞりながら、もう一度、足元の黒猫に問いかける。 「出たほうがいいのかな」  ニャー。  お好きなように、とでも言うように彼女は喉を鳴らすだけだ。  ピリリッ、ピリリッ。いつまでも留守電に切り替わらず、繰り返されるコールに、仕方なく受話器を持ち上げた。 『やっと出た』  碧の呼吸を先制するテノール。  電話越しのせいでいつもと少し違って聴こえるが、確かに永久の声だ。 「なんだ…」  無愛想に返事をしたわけではなく、一気に緊張が解けただけ。その一方的な事情は、彼まで届かなかった。落胆気味の、はぁ、ため息。 『なんだ、は、ねーだろ』 「…留守電になるように、セットしたら?」 『説明書ないもん、始めから。なあ、あの曲、スティーヴィー・ワンダーだったろ』 「違うよ」 『んー?』  碧の嘘を嘘だと知っている人物の、ふふ、失笑が電波に乗って伝わってくる。 「…そう、だった。あなたが正解」  今朝、FMラジオから流れていた一曲をめぐって、小さな議論があった。  ジャズアレンジされたメロディーがとても印象的で、ポップスだということは何となく知っていたのだけれど。永久があっさりとタイトルを決めつけ、そうそう、とそうでなくても良いと思っているような口ぶりで言うので、素直に納得できなかったのだ。ああいう時、言葉は、二回繰り返すと価値が下がる。彼は残念ながらアウトロの前に部屋を出なければならず、彼の正解が証明されたのは、その一分半ほど後だったというわけ。 「もしかして。そのために電話してきたの?」  だとしたら、コールが始まってから受話器を上げるまでに味わった緊張感に、責任を取って欲しいものだと思う。 『悪くない推理だけどね…碧、今から出ておいで』 「うん…?」 『デートしようぜ』  間違えて転がり出て来たような突拍子もない単語に、呆気に取られる。碧は立ち直れないままに、失った言葉をかき集めようと努力する。 「――あー、待って、でも」 『何』 「シーツ、取り込まなきゃ、今日干したから」  やっと思いついたのは、何の関係もない告白だった。  昼過ぎに、急に思い立ってシーツを洗濯したのだ。勿体無いくらいの晴天に、ロープの余白が耐えられなくなったから。シーツは四時過ぎには乾いていたのだが、夕陽が沈むぎりぎりまで干しておこうと、まだ取り込んでいなかった。  ふふふふっ、電波に乗ってまた、愉快そうな波動。 『それで断わったつもりかよ?』 「じゃなくて…」 『七時に、ハチ公口』 「…銅像の前で待ってろとか、言う?」 『言わねぇよ。すぐ見つけてやるから』  さらりと約束して永久の声は遠のき、 『あ』  再び近づく。 『鍵、冷蔵庫の中な。出る前に、アオの晩飯も』 「ネコ缶と、エビアン?」 『そうそう』  やっぱり、そう、を二回繰り返して。今度こそ電話が切れた。  キャップを被り、ジーンズの尻ポケットに財布を捻じ込む。 「行って来ます」  アオの背中を撫でて、部屋を出た。  裏路地の筋を多少間違えながらも大通りに出て、駅に向かってまっすぐ歩く。一体何時まで明るいんだろうと思わせておきながら、陽が沈んでしまえば、途端に街は夜だった。スクランブル交差点の流れに飲み込まれながら、駅にたどり着く。 「碧」  本当にすぐ見つけられて、思わず笑ってしまった。茶金の髪を掻き上げながら、永久が目を細める。 「ほんと、わかりやすい色してんなぁ」 「そうかな」  紫のキャップ、白いTシャツ、ブラックジーンズ。派手な色はないと思う。彼は頬だけで笑い、碧の肩を軽く押した。 「じゃ。行こうか」 「どこへ?」 「フライング・ソーサーズって、聞いたことある?」  質問に質問で返されて、聞き覚えのあるその名前について急いで考えをまとめる。クラブミュージックの分野で世界的な知名度のある日本のアーティスト名はいくつかあるが、その中のひとつが、やはりその名前じゃなかっただろうか。 「アシッド・ジャズの、グループ?」  また疑問系で返すことになったが、今度は軽く顎を引くように頷いて、永久は耳たぶのピアスを弾いた。 「そう。今夜、ライブやるんだ」 「チケット持ってるの?」 「持ってないさ」 「持ってないのに?」 「い、け、ば、わかる」  まるで、聞き分けのない態度を取っているのが碧のほうだと、宥める口調で言うのだから。何となく言い含められてしまった気分のまま、大股で一歩踏み出し、半歩前を歩く永久の横に並んだ。  ライブ会場の前は、開場を待つ独特の熱っぽさに満ちていた。その列の脇をすり抜けて、重たいドアの中に潜る。関係者以外立ち入り禁止の張り紙はもちろん無視、廊下の奥に進んで行く。狭い通路では何人ものスタッフとすれ違ったが、誰もフェイスピアスの男を咎めない。何故なら彼は、首からスタッフ証を下げているから。永久は最後まで立ち止まらず、ステージに出て行ってしまった。ライティングもまだ抑えられた状態のステージ上では、テスト中のベース音をバックミュージックにして、 「噂をすれば」  一人の男が笑いながら片手を上げていた。 「どうせ来ないんじゃないかって、さっき皆で話してたよ」 「来るつもりなかったんだけど」 「心境の変化?」 「まあね」  永久は幾分年上に見える、黒ぶち眼鏡にたっぷり髭を蓄えた男と、気安い様子で応酬する。そしてその、一見すると若い医者か教授のような風体の男を、親指で示して言った。 「彼が円盤のボスで、佐伯(さえき)さん」  黒ぶち眼鏡の髭男が、軽く頷く。 「初めまして、かな?」 「あ…初めまして」  キャップの縁を握って、碧も軽く頭を下げる。その下げた頭の上に永久の手が乗せられて、 「で、こいつが、ミドリ」  簡単な紹介。  簡単だが、紹介者である永久が知っている最大限のことには違いなかった。その紹介にもならない紹介に、けれど、どこか不思議そうな顔つきだった佐伯が、ああ、と小さく笑って腕組みをする。 「そうか、小田島、碧君。去年だったっけ、戸村監督の映画で…きみの役が、すごく印象的だったから」  あまりに穏やかなトーンで、一瞬、そのことに気付かなかった。 「ほんとは、ずいぶん雰囲気違うんだなぁ」  彼は、「小田島碧」を知っている人物なんだ。 「…はぁ」 「その髪って、なんかの役で?」 「いえ…ええ」 「まあ、いいけど」  苦笑がちに言って、佐伯がわずかに首を振る。当惑するあまりおざなりな返事になっていた碧は、我に返って片手を上げ、必要ないモーションだったと気付いてその手を下ろした。 「あの。気を悪くしたなら、謝ります」 「いやこちらこそ。芸能人なんてあんまり会わないから、つい好奇心が」  駄目押しのような、ゲイノウジン、という単語。それを消化するために、さらに一瞬のロスが生まれる。だから、素直に単語を理解した永久が少し素っ頓狂な声を上げたほうが先だった。 「碧、そーなの?」 「奥寺君、知らなかったのか」 「浦島太郎だからね…そっか」  顎先を摘んで、何度も頷く。  …そっか、の後に続く言葉をしばらく待っていたのだけど。  無言のまま永久はくるりと自然なターンを決め、スクリーンを振り返った。つられて見上げても、近すぎて、見上げ切れないほど大きなスクリーンだ。その前で長い腕をいっぱいに広げて、円を描く。 「この、でっかいスクリーンに。俺が撮った写真が映るぜ」  きらきら輝く。人間の声をそんなふうに表現するのは変かもしれないけど、彼の、誇らしげでいて悪戯っぽい無邪気な言い方には、そう感じずにはいられなかった。 「嘘…」 「ほんとだっての」  夢でも見ている気がしてぼんやり呟いた碧に、反論しながら振り返る。永久は顔をくしゃくしゃにして笑っていた。 「今度リリースするアルバムの、ジャケットとブックレットの写真を奥寺君に撮ってもらってるんだ。今夜もVJが使う予定でいる」  佐伯がのんびりと、やはりスクリーンを見上げながら言う。碧は雑誌で読んだことしかないが、フライング・ソーサーズのライブはアートワークの評価も高いのだと思い出す。 「まぁ…きみに見せたかったからさ。でかいのを」  最初やや言葉を濁して躊躇う素振りを見せたが、結局はさらりと言ってのけて。永久は、自分を茶化すように肩を竦めた。そう、昨日見せてもらった彼の写真は、小さすぎて物足りなかった。そのことが残念だったのは碧だけではなかったのだ。  碧に関して、何か一つでも訊ねようとはしない。無関心というわけではないと思う、ただ、彼自身が今一番興味があるのは、当初の計画通り碧を驚かせることなんだろう。きっと。 「…すごい」 「だろ?楽しみにしてて」  写真家からプレゼントされた、思わぬ幸運にだけじゃない。  ピアッシングだらけのファニーな横顔に、祈り感謝したい気持ちだった。

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